56話「紅い目の男」





【夢・記憶】

――お前は不幸か?少年よ。

 声が聞こえる。聞き覚えのある、低い声。

――何故お前は不幸なんだ。

 聞き覚えのある、低く、何処か優しい声。

――誰のせいではない。何のせいだ。お前は考えたことはないか?

 聞き覚えのある、何処か悲しい声。

――何のせいで、お前は、俺は、不幸なんだ。考えたことはないか?ずっと、ずっと……

 朧気な記憶。昔の夢。
 遠くを見つめる男の姿は、眩しい昼下がりの太陽に溶け、やがて白い影となる。

――じゃあなアンリ。なに、またいつか会えるさ。生きていたらな。――

 白い亡霊がゆらりと揺れて消えた。
 寂しそうな紅い瞳が忘れられなかった。

 それは、今でも。




◆◇◆◇◆

【シンシンとメイメイ】


 メイメイが砦に帰ると、仲間たちが彼女の顔を見て、深々と頭を下げた。
(ふふん、気分が良いわね)
 そのまま自室に向かおうとしたが、道中、暗い廊下でその時は訪れた。
「姉貴」
 彼女の目の前には、頭に大きな角を二つ着けた、グラマラスな悪魔。
「……シンシンじゃないの」
 角の悪魔シンシンは、姉を見上げる。ある人間に出会ってから、ずっと気になっていたことを訊く為にここまで帰ってきたのだ。
「リィンリィンが死んだって、ほんとなのか」
 悲痛そうなシンシンに対して、メイメイはケロリとしていた。
「あらあの子の話?またあなたはそんなどうでもいいことを――」
「ほんとなのかって聞いてんだ!」
 静かな砦にシンシンの声がこだまする。飄々としていたメイメイだったが、シンシンの気迫に驚いたあと、諦めたように呟いた。
「……本当よ。そう知らされたわ。死体も事細かに」
「……っな、嘘だ」
 メイメイは声を荒げた。
「本当よ!死んだの!認めなさい……もうあの子はいない。せっかく可愛がってあげたのに、無駄になってしまったわ。でも、また新しい子を作るのもいいかもしれないわね……」
 メイメイの言動が、シンシンの神経を逆撫でする。姉の心からの言葉が、家族を物としか見ていないものだと、信じられなかった。
「酷い……。お前なんか……もう姉じゃない!」
 目を丸くしたメイメイだったが、ぷっと吹き出しケタケタと笑いだした。
「へえ?もう、ですってぇ?あんたなんか、本当の妹だと思ったことは一度も無いわよ!」
 メイメイはそう吐き捨てると、シンシンを追い越して再び部屋へと向かった。
 残されたシンシンは声を上げて泣いていた。
「ふふん。どうせ何も出来ない可愛い子なのよ」
 その刹那。メイメイは背中にとてつもない違和感を感じた。激しい熱さがメイメイを襲う。平たい円状の刃物が、深く刺さっていた。避けねばと思ったのも束の間。首筋に二枚目が刺さる。シンシンのチャクラだ。メイメイは目をギョロつかせ、血で溺れながらも声を絞り出した。
「そんな、っ、妹は、姉を手に……掛けられない筈では……!」
「下らない姉妹ごっこにはもう懲り懲りだ。言っただろ。お前なんてもう姉じゃない。お前も、俺のことを妹だと思っていないと」
「クソ……所詮低俗な虫けら、が……」
 言い終わる前に、その手で刃物を押し込み息の根を確実に止める。姉だったものが、ゴロリと転がった。
「さようなら……メイメイ。俺は独りだ……」
 足元には黒い灰。暗い地下道で、シンシンは涙を拭いた。


◆◇◆◇◆


【戦場】

 爆弾魔の少年は言っていた。

「確かに、僕がここにいるのは火の扱いに長けているからじゃない」
 糸目を開き、指をさす。赤色の目をしていた。
「赤い目の意味が分かるかな?あの人が教えてくれたんだ。赤い目を持つ者は、先天的な力を持つ者が多いって。お前も分かるだろう」
「そんなの昔からある伝承レベルの迷信なのです」
「どうかなぁ……」
 少年は、意味深に目を逸らした。
「君のこともあの人から聞いたよ。よく役割を全うしてくれたって、言ってたよ。羨ましいなあ」
「なんのことなのです……?」
「ま、そのうち思い出すんじゃないかな!ともかく、僕にも能力があるからあの人の近くに置いてもらってるんだ。でも、僕は後方支援の能力だから、お前とまともにやり合うつもりは無いんだ。僕はね、君の大好きなあの人と、向こうに行きたいの、だからね」
 少年……セラは猫ちゃん!と声を張り上げる。近くにいた赤服の一人、頭に袋を被った人物が飛び出した。
「足止めは頼んだよ!」
「待つのです!」
 セラはそそくさと逃げていく。一方レイの前に立ちふさがった彼女は被っていた袋に手を掛ける。
 顕になったのは、肩につかないくらいに短く切り揃えられた、少し癖のついた金髪。開かれた瞳は、青みがかった緑。彼女は首に手を当て喉を震わせる。
「『レイさん。お久しぶりです』」
 身を隠して久しい仲間の言葉。確かに声も、見た目もよく似ている。でも別人だ。
「仲間に似た見た目でボクを動揺させて、手を鈍らせる作戦?でも残念。ボクは斬れるのです。似ているだけ。分かっているのです」
「だって、双子だもんね」
「……っ」
 息を呑んだレイ、女は一瞬で距離を詰める。レイは翼を翻して避けた。女の攻撃は止まらない。
 女の攻撃を、レイは充分に避けることが出来る。女の心臓を、レイは充分に狙うことが出来る。けれど、できない。それがレイの持つ倫理観であり甘さであった。
「こんなこと、っ誰が考えた!!」
 叫んだ所で変わらない。止まらない。レイは非情な選択を強いられた。



 グレイヤーとベルガモットのいざこざに首を突っ込んでいたセラは、ベルガモットの攻撃に被弾し、呆気なく戦闘能力を失っていた。
 息絶えだえのセラは地をもがいていたが、その腕は何者かに踏まれる。
 レイだ。
「ああ、パレイヴァ。気分は、どう?」
「お前、ボクが裏切ったと、そう言ったのでしょう」
「はははは!嘘じゃないだろ。現にお前は元々あの人の為に生まれ、あの人の為に生きる存在。思い出せないのか?思い出したく、ないのか?」
「知らない」
 レイは大槌を振りかざし、目の前に散らばった肉塊から目を背けた。その時であった。
「よお。また会ったな」
 知っている。
 その声を知っていた。その赤い目を知っていた。
「……賢者様」
 顔を上げると、記憶の中の誰かとよく似た男が立っていた。誰とは正しく思い出せない。けれど、何故か知っている。
「パレイヴァ。よく頑張ってくれた。二人目の巫女として、ここまで――」
「ッ」
 前世というものがあるのだろうか。分からない。けれど、レイは気付けば涙を流していた。
「賢者、さま……わたしは……」
 おかしい、レイは何となく分かってはいたが、涙が止まらなかった。
 もういつかも分からない。いつかということしか分からない頃の話、絶対的なものを信じ、その身を捧げたことがある。
 レイはぶんぶんと頭を振り、大槌で自分の背を叩く。クリスタルの結晶のような羽が背中から生え、大槌は鎌と形を変えた。レイは白い男に鎌を振り翳す。けれど男……サズに片手で受け止められる。
「お前はっ!違う!ボク達を使って実験をしていた!そうだろう!」
「そう。この世界を新たに支える巫女を作ること。それが私とお前の試み。……時代が変わり、時が移ろうとも変わることのない柱。それが巫女。巫女は不滅の魂だ。過去も未来も超越している。そう、今のお前が私を覚えているように、これからも忘れることは無いだろう。そして、『世界』を作ったのが私であるということもね」
「馬鹿なことを言うな!ボクのあの記憶が始まる前から、世界はあったのです!お前の言っていることはめちゃくちゃなのです!お前は、世界を作った神なんかじゃない!」
 鎌を押さえたままのサズは僅かに口角を上げる。
「本当にそうかな?現にお前は神だっただろう?力を持ち、奇跡を起こし、人を熱狂させた。それは力であり能力だ。お前は人の生き死にを操ることも自在だった。……神を中心に世界は始まる。お前を中心に、信者は生まれ、価値観は創造され、過去と未来は作り替えられる。彼らにとって神の力とは、願うことによって、貢ぐことによって、病気や怪我からの癒しと救いをもたらすもの。もうお前無しでは世界は無かったのだ」
 レイは眉をひそめた。力を込めた腕は震えていた。それは、目の前の男の考えていることが恐ろしかったからか。もしくは、もしかしたら目の前の男の言っていることが正しいのではないかと気付き始めていたからか。
「私は、様々な神のあり方を模索してきた。全知とは、全能とは、何なのか。私が成し得たいこと、その為の神の力だ。……だがどうやったって越えられない!どうやっても超越できない!この世界の持つ歪な法則の中でしか私達は生きられない。我々はまるで小さな箱の中でもがいている虫のように!どうしても、その法則を破壊することができない!どうしても外に出ることが叶わない!」
「法、則……?」
 レイは吹き飛ばされる。必死に身を起こすが、逆光になった背中を見ていることしかできなかった。レイなど見向きもせずに、男はそのまま去っていく。
「法則を、この世界自身、真の神を引きずり降ろすことができるかもしれないんだ。……パレイヴァ、邪魔をするな」
「うっ……ぐ……」
 立ち上がろうとしていたレイだったが、力が入らなかった。

 震える腕を必死に押さえたまま、どれくらいだっただろう。
 レイがふと気配を感じて顔を上げると、白と黒の制服の仲間が手を伸ばしていた。銀髪を揺らす彼女は一番隊隊長、グロリア・レディだ。レイは手を取り立ち上がる。
「遠くで彼を見たよ。……やっとだ。相当お祭り好きのようだね。ここまでしないと出てこないなんて」
「ありがとなのです、グロリア。……さあ、あの男を」
「ああ、大人しく待とうじゃないか」
「え?」
「ザッディーチ・カグラ!」
 目の前でレディが武器を使った。時を止める力だったとレイは記憶している。だがレイは止まってはいないし、辺りを見回しても止まっているようには見えない。
「不思議な顔をしているね。結界の中の対象の時間だけを切り離したんだよ。ワタシの武器は時を止める能力じゃない。ものを切り離す武器だ。知らなかったかい?」
「そうじゃない!」
「違うことは無い。つまりワタシが指定した間だけ、正確には誰も触れることがなければ、結界の中の彼らは特別な時間を過ごすことになる。ワタシが今回用意したのは時間がゆっくりと進むマジックルーム。かの悪魔の術を瓶に詰めたもので――」
「グロリア・レディ!」
 レイは再び抜刀する。
「所詮は魔女だったのか!」
 その様子を見てレディはケラケラと笑い始めた。
「あはあ?所詮は魔女ぉ?言ってくれるね!全く分かっちゃいない!ワタシが敵か味方かも区別がつかない?」
「……何が言いたいのです」
 道化のように振舞っていたレディが、すっと真顔になる。
「君は頭に血が上ってる。冷静になりなさいレイ・パレイヴァ・ミラ。ワタシは、時を止めただけだよ?」
 時を止める。人に限らず、建物、空間を。
「――思い出したぞ。カナソーニャ・ロヴァイ研究所、あそこも時が止まっていた。ボク達が、扉に触れるまで」
「懐かしい名だね。確かにワタシが止めた。あの人の手助けだ」
「何故!」
「よく聞きなさい。人類の存亡を掛けることと、ワタシ達武器使いの存亡を掛けること、そして、真の意味で革命を起こすことは、全て別のことだよ。君は惑わされている」
「惑わされているのはお前だグロリア。真の意味で革命?何を言っているのです……このままでは生きて帰ることもままならないのに。お前、もしかして、あの男の妄言を本気で信じているのですか……?」
「ワタシを魔女扱いするなら結構だ。……ワタシは記憶の瓶を使ってこの世の心理を知るにつれ、この世の理を知った。そして、いつかの賢者の再来を待っていた」
「ボクは賢者の妄言なんて信じない。ボクはボクしか信じないのです」
「フフ、声が震えているよレイちゃん……」
 レディとレイの間に冷たい風が流れた。
「グロリア。あなたはワンマンアーミーと言われる程の力を持っている。でも、それはボクも同じなのですよ……?」
「よく鑑みなさい。自分の力を誇示するのは弱い者がすることだよ?」
 その眼光は狼のようだった。
「その辺にしておけ」
 このよく通る声。肉声に限りなく近いがどこか違和感の残る声の主は、二人がよく知る人物のものだ。彼はクロウ・ベルガモット。その男は、狐の顔が描かれた男に肩を貸し、虚ろな瞳で立っていた。
「ベルガモットじゃないか。それに、グレイヤーまで。いつの間に仲良しになったんだい?」
「……クロウ」
 レイの張っていた気に綻びが生まれる。
「クロウ、もう分からない。自分を信じると決めたのに、敵が誰なのか、ボク自身が誰なのかさえ」
 レイはゆっくりと武器を下ろし、膝をつく。背中と足についた羽は、武器に吸い込まれていく。
 ベルガモットはレイの顔を見て、首を横に振った。そしてレディに向き直る。
「何かを言いたそうにしていることは分かるが、恐らく私はお前が思うより物知りではない」
「はは……困ったな。このままじゃ本当にワタシは魔女じゃないか。この後に及んでそれにしても本当に可笑しいものだね。魔女だ、魔女じゃないだ。ワタシ達はきっとずっと変わらない」
 レディは悟ったような口ぶりだった。
「ワタシはずっと本部にも支部にも顔を出していないからね。ナンバリングではトップになったとしてもワタシの声を聞けなんて言わないよ。しかし……現在第二テトラールキのエリック・ジェイルは本部への奪還に向かっている。とするとだ。第三テトラールキのクロウ・ベルガモット。本来この地を管轄下としている君が決めておくれ。ワタシの処遇を、君達の行動を」
 一度目を閉じ深呼吸すると、凛々しい隊長は深海のように暗く揺れる瞳を開く。
「ここにいる者、何人たりとも無駄な詮索と欺瞞は許さない。我々は無知に翻弄されているが故、啓蒙を望んでいる。無論、全ての者に。……グロリア・レディ。知っていることを教えて欲しい」
 レディは頷いた。
「説明をしよう。ワタシが知っていること。信じているもの。願っていること。その全てを。それは――」

 その時激しい閃光を放ち、後方が光に包まれた。同時に地を揺らすような大きな音がして、地面から怪物が次々と飛び出した。
 それはまるで、来たる終末に向けて、死者が蘇るように。

「おっと……これは説明をする余裕が無さそうだね」
 レディは苦い顔をした。

「見えませんが、見当はつきますよ。エルカリアの地は魔女が悪魔を守る為に押さえている。その地に、何がされていようとも、魔女と悪魔以外が介入することは出来ない。これは、思ったより早く死んでしまいそうですよ……」
「フフ、あなたも弱音を吐くんだね。可哀想だから守ってあげるよグレイヤー姫」
「それは良いから早く話しなさい」
「そのうちね!」
 この期に及んで冗談を言うレディを、なんなんだこの人と言わんばかりに横目で見たベルガモットだったが、すぐに臨戦体勢に入った。



◆◇◆◇◆


【結界の中】

 結界の中。そこは普通なら何の変哲もない空間。光学迷彩がされていることと、外部からの侵入が許可された者以外禁止されていることが特徴である。

 ミクスとの戦闘で精神が疲弊していたアンリだったが、ある人影に目を奪われる。彼が見つけたのは、何処か見覚えのある背格好、髪型、口元、声。
「なあ。生きていたから、また会えただろう」
 別れを告げられた時と、同じ声、同じ調子。歩みを止めない彼を追いかけて、アンリは結界の中へと足を踏み入れた。
「よく来たな。少年よ」
 その人物は、とんがり帽子を被り、白い装束を着た癖毛の男だった。目が隠れるほどの長い前髪、その黒い隙間から見える、深い深い紅色。間違いない。
「先生」
 先生もといサズ・ホリーはニッと笑った。
「私の名はオウミ。またはサズ・ホリー。君と共に過ごしたこともある」
 言葉使いは少し違うものの、懐かしい姿と声に、アンリの心は激しく揺らいでいた。
 彼と共に旅をした記憶。何も分からない彼を連れ出し、呪いを解かせ、色々な世界を見せ、人間としての生き方を教えてくれた先生。その見た目は怪しくもあるが、アンリにとっては懐かしく、温かく、また少し寂しげなものだった。
「あなたに、色々聞きたいことがあります。……でもまず、何故こんな回りくどいことをして僕をここに呼んだのか、聞きたい。僕だけで良いじゃないですか。多くの人を巻き込んで、こんなことをした理由はなんですか」
「手間が省けるんだ。私の願いを成し遂げる上で」
「それはどういう……」
「……さあ、なんでだろうな」
 サズはまともに答えてくれそうになかった。アンリを無視して彼は懐に手を伸ばす。
「君に必要そうな、良いものを用意してある」
 そう言い見せたのは、一つの小さなガラス瓶。彼はそれを放り投げた。アンリは弧を描くそれを何とか受け止める。
「エネミ・リラウィッチが持っていた、花の呪いの解毒剤だ。だが、奴の作ったそれは君には効かない。それは、古代の民の血が混ざってこそ完成する。奴は、本当に自分か恋人にしか飲ませる気が無かったようだな」
 アンリは小瓶を確認する。何か入っていたかのような、青い水滴が見えるが……
「……空だ」
「そう。君がそこに、薬の最後の材料を入れる為にな」
 怪訝な顔で見つめると、サズは己の胸に手をやった。
「必要なものはここにある。――古代の民の血、私の血をそこに入れ、レコードに向かへ」
 アンリはサズを見つめる。表情は伺い知れない。けれど、その声はどこか悔しそうで。
「そこまでして、僕をアリア・レコードに連れて行きたいんですか」
 サズは頷きもせず、手を高く挙げて指を鳴らす。すると、マスを裏返すようにサズを中心に地面の色が変わる。結界の中だけがタイルの床になり、結界の外は一層暗くなる。遠くから聴こえるようなくぐもった音で、僅かに悲鳴と喧騒が聞こえた。何か外で変わったのだろうか。けれどサズは、アンリにそれを確認させる隙など与えない。
「進め、決して諦めるな。最後まで抗え。私を殺せ。花守を私の手から守る為に、そして全てを救う為に」
「何故、そんな……」
 サズは答える代わりに背中に手をやった。背負っていた棒状の物は、構えると伸びて体長を優に超える槍となった。白く輝く彼の武器、グングニルだ。
「間合いを計算しろ。敵をよく観察しろ。神経を研ぎ澄ませ、頭の先から足の先まで、指一本に至るまでの一切の挙動を見逃すな」
 サズのことをアンリは先生と呼んでいた。命を失うことの危機感が全くと言っていいほど無かった昔のアンリに、先生は生きる為の知恵を授けた。非常に基本的なことだ。相手をよく見て動くこと、間合いを取ること。そして自分の限界を知った上で工夫をすること。
 アンリはティテラニヴァーチェを展開する。それを見届けると、サズは走り出す。二つの刃が交錯し、激しく火花を散らした。


◆◇◆◇◆


【結界の外】

 トーレを送り届けたアルモニカは、ある異変に気付いた。戦場の中心部で何かが光ったかと思うと、陽が差し始めた空は厚く黒い雲に覆われて、俄に敵影が増えたように見えた。アルモニカは雅京を展開し中心部へ向かった。
 徐々に敵影の正体がハッキリしてきた。これは人間ではない。悪魔だ。
「そういえば、エルカリア半島の奥は魔女組織の本拠地と、悪魔の本拠地がある……。これは応戦?それとも……卵……」
 思考が纏まらない内に、ヘドロのように溶けた悪魔が襲いかかって来る。アルモニカはそれを雅京で吹き飛ばした。
 アルモニカは直感で、アンリの居場所が分かった。結界の中だ。
 光学迷彩をされていたはずの結界の境目は、真っ白な光る壁がどこまでも高くそそり立っていた。光に手を伸ばすも、硬い何かに阻まれて入ることができない。その時アーサーの言葉を思い出した。
『この近くに迷彩処理の施された区画があるらしく、俺らは自分の身を守りつつ、その結界の柱を壊す』
 柱は物質を持つものなら何でもいい。例えば、人でも。敵が分散しているのも、それを守る為。もしそうなら、仲間を連れたある程度格上の人間である可能性が高い。探そうとするも、有翼の黒い何かがアルモニカに飛んで来て、また背後から迫っていた悪魔にも視界を阻まれ、アルモニカはその対応に追われた。
「もう雑魚ばっかり!これじゃ柱を探すどころじゃない!――纏桜花(マトイオウカ)!」
 黒いブーツに花が咲き乱れ、白と赤の吹雪を巻き起こす。風に乗り散り舞い踊り、周辺の邪魔な悪魔をひとしきり灰にする。
 桜花を解除したアルモニカは、ふと足元にいる物に気が付き、驚いて蹴りそうになるも、寸前で思いとどまる。それは黒く丸い生き物。何もしてこない悪魔。
「ムガイ……」
 丸い悪魔は大きな瞳でアルモニカを見つめ、無言で何かを訴えかけている。何か白い石のようなものを咥えていた。


◆◇◆◇◆

【叫ぶ声】

「この戦いは利用されたものだ。沢山の命を、沢山の想いを全て犠牲にして、ワタシ達はまとめて実験台になる。教団の進退など、関係が無い。ただあの人は破壊したいだけだ。武器使い、強いては『力』の存在、そのものを」

「さあ、剣を抜け少年よ。もう一度相手をしてやろう」

「とくと見るがいい。ワタシの信じた答えを」

「見せてやろう。前時代の亡霊による、この世界の最後の魔法を」

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