38話「その心は猫をも殺す」





 サクヤやアンリがそれぞれ奔走していた頃、彼らは静かに時を過ごしていた。
 医務室で、眠ったままのアルモニカのベッドの隣の椅子に、窓に背を向けて座っていたのはアーサーだった。神妙な面持ちで、独り言を零した。
「なんで、お前は起きねえんだろうな。一体どんな無茶をしたんだ?……俺だったら、止めてたよ。絶対にな」
 彼女は昨日からずっと目を覚まさない。
 アーサーがアルモニカと初めて組んで戦闘に出た時、彼女は不慣れな状況と武器だったというのに無理をして怪我を負い、しばらく眠り込んでしまったことがあった。アーサーはその時のことを思い出していたようだ。
(いつも無茶苦茶するが、お前は女の子なんだぞ。……手だって、こんなに小さいんだ)
 自分に聞こえるか聞こえないかくらいの声。しかし声が出ているとは、彼自身気付いていないようだった。
(お前とも長くなったな。三年くらいか)
 一人呟く声は、誰にも届かない。
(お前に出会うまで、多分。俺は、ずっと寂しかったんだ。こんな場所で一人きりで。だから、お前がいてくれて良かったよ。そう思う。……俺にとって、お前は――)
 その時、ゆっくりと瞳が開いたことに気付いた。アーサーは驚いた拍子に間抜けな悲鳴を上げて肩を跳ねさせた。
「……何を一人でぶつぶつ言ってるの」
「お、起きてたのかよ……」
 アルモニカが身を起こしながら言う。
「うーん。気付いたら、あんたの声が聞こえた。なんて言ってるかは分からなかったけど」
 内容を知られていなかったことに安堵したアーサーは、ようやく落ち着いたようだった。深呼吸をした。
「お前、大丈夫か。昨日からずっと眠ったままだったからよ。……もう夕刻だ」
「そっか……そんなに経ってたんだ……」
 窓の外、橙色に染まる景色を眺め、アルモニカはアーサーの顔を見たのち俯いた。さらりと髪が落ちる。
「夢見てたみたい。はっきりとは思い出せないけど、……お母さんに、会えたんだ」
「お母、さん……?」
 彼女の言葉を聞いて、アーサーは何かを思い出したようだった。ベッドの反対側のテーブルに目をやる。
「あいつがこれを置いていったんだ」
「……?」
 手に取ると、それは小さな手帳と名札と一枚の写真だった。写真に写るのは、まさしく彼女の母の、困ったような優しい笑顔。
「そっか、……」
 遺物のそれらを、アルモニカは抱きしめた。夢の中に出てきたのは、きっと、こうやって傍にいてくれたから。そう思った。
 暫くしてアルモニカは顔を上げると、アーサーに問いかけた。
「私、アンリに会いに行かなきゃ。会って、言わなきゃいけないことがあるの。今、どこにいるの?」
 真っ直ぐな瞳に射抜かれ、目を逸らしたアーサーは、「あー」と思い出すように頭を掻いた。
「詳しくは分かんねえけど……今日はどこにも出てないはず。本部棟のどこかにいると思うが。……今すぐに行かなきゃいけないことか?まだ安静にしといた方がいいんじゃねえの。このあと検査もあるし」
「ううん。……大事なことだから」
「そか」
 私怪我は無いの、大丈夫。そう言いアルモニカは、心配するアーサーを置いて医務室を出て行った。

◆◇◆◇◆

 レイクレビンという男に言われた通り団長室へ向かっていたアンリであったが、その足取りは心做しか重かった。
 確かに先生の存在は大きいものだったかもしれないが、今の彼にとって、先生がこのタイミングで出てくることはあまりに唐突だった。出会った場所に赴いたり、あんなに知りたかったことなのに、今は不思議とそう感じなかった。
 先生とは、名さえ知らなかったが、彼に生き方を教えてくれた人物だ。思い返せば、拾われたシスターに半ば強引に押しつけられ引き取ったようにも思えるがそれはそれである。彼はアンリに様々なことを教えてくれた。しかし今のアンリの感情は、先生に対する感謝の念と、疑念という複雑なものだった。彼の言うことは絶対的だとばかり思っていた価値観が、この二年で随分と変わった。しかし同時に指摘された、「先生の桎梏に囚われているだけだ」ということが浮き彫りとなり、アンリは彼のことをこのまま尊敬し続けて良いのか疑って良いのか分かりかねていたのだ。
 だがしかし、行かない理由が何処にある。彼には手がかりがまるで無かった。それでも彼はやらなければいけなかった。何しろ、困るのはこれを頼んだ魔女の女ではない、自分自身なのだから。

 レイクレビンという男の罠の可能性もある。だが彼の素性を調べてみても埃は出なかった。
 アラン・レイクレビンという男は、本当に一般人というような人物だった。ロイド・ステンスレイ(レイとの個人的な関係が理由で三番隊に介入してくることも多い人物)という上級官の男とは仲が良くないようだが、それは腐れ縁的なものだという。一般隊のパーシャ・メリゼルという人物とは昔から仲が良いようで、そしてそのメリゼルは、アンリと同室のフレッド達の班の班長であった。
 とりあえず休憩中だったフレッドを捕まえ話を聞いても、悪い印象は受けなかった。遠回しにレイクレビンのことも訊いてみたが、要約すると、メリゼルがいつも「あいつはお人好しな奴だ」と言っているとのことだった。そして記録には確かにレイクレビンの父は教団関係者だという記載があり、彼の発言に嘘はなかったことが分かった。だが同時に、あのように接触してきたレイクレビンの怪しさが薄れていき、アンリは意気消沈したのである。ここまで調べるのにほぼ丸一日かかり、気付けば陽は傾き、空はオレンジに染まりかけていた。

 団長室に向かいつつ、もしこれが見当違いな答えだったら、次は、明日は、何処を調べよう。そんなことを考え、彼は焦っていた。
 ふと制服のズボンのポケットに手をやる。充分な感触がある。それは、ローザに貰った痛み止めであった。その感触が命の残量そのもののようで、大変気分が悪い。こんな所に仕舞うのは止そう。そう思っているうちに、彼は団長室の前に辿り着いていた。
「空室」
 確かにその札が掛かっている。しかし、僅かに開いたドアの隙間から光は漏れている。
「用事かい」
「はっ!?」
 心臓の音が跳ね上がる。しかし、背後のしわがれた声は、不機嫌そうな顔をした青い服の年増の女性のものだった。清掃員だ。だが未だアンリの動悸は収まらない。
「あ、ああ……ええと、書類を届けに来たんですが、いらっしゃるのか、いらっしゃらないのか分からなくて」
 ちらりと茶封筒を見せると、清掃員は、乱暴に扉を大きく開け、アンリの顔を見て言った。
「用事があるなら入りなさいんか。今日は団長は終日いらっしゃらない。教会の重役と会合だよ。そのうちに掃除をしとくように頼まれていたんだ」
「そう、でしたか……」
 やっと忘れかけていた呼吸が戻ってくる。
 清掃員は不機嫌そうな顔のまま、アンリの前を横切り、水の入ったバケツを持ち上げていなくなってしまった。

 部屋の中をそっと覗くと誰もいなかった。
 簡素な部屋は、ひんやりとしていた。扉を閉めると、ガチャンと、大仰な音を立てたがあまり気には止めなかった。
 奥には壁一面の立派な本棚があり、思わず足を止める。だが、悠長に見とれている暇はない。彼は、レイクレビンの言っていた青い聖書を探し始めた。
 それは丁度、正面から見てデスクの後ろに隠れて見える場所にあった。
 引くのか、押すのか。分かりかねた彼は一先ず取り出そうとしたが、聖書はピクリとも動かない。だが、少し力を込めて奥へ押し込むと、それは壁面の後ろに沈み込んだ。カチ、カチと、奥で歯車の回る音がし、その音はやがて視覚的にも分かりやすい変化をもたらす。本棚には一定間隔の隙間ができ、それらは前後交互にずれ、重なり四方へと動いていく。中心に空間ができ、その向こうには、小さな部屋が広がっているように見えた。だがそれよりどきりとしたのは、手前にかかったカーテンか何かかと思ったそれは、人の服だったということだった。誰か、この奥にいるのだ。
 やがて一番大きな音を立て、機械仕掛けの本棚の動きが完全に止まる。同時に、奥の影が動き始めた。暗くて顔は見えない。白っぽい布がユラユラと揺れている。
「君は、何をしに来たのかな」
 向こうから響く、男の声がした。
「君は、何を探しに来たのかな」
 吸い寄せられるそれは、まるで不思議な魔力をもっているかのようだった。金縛りに遭ったかのように動けないでいるアンリに、男は語り続ける。
「返事はないか。どうした?怖いのか?」
 暗闇が耳元で囁く。
「怖いなんて感じるのか?お前は、昔から、恐怖なんて感じない、人間らしくない子供だったじゃないか。美しいものを美しいと感じない。楽しいことをも楽しいと感じない、まるで機械のような子供。人の気持ちが分からない。自分の気持ちも分からない。何の為に闘って、どこを歩いているのかさえ分かっていない、可哀想な、子供。今だって、それは変わらないさ」
「そんなこと、ない」
 白は揺らめいた。
「では、証明してみせろ。私に、お前の力を。そうしたらお望みのものもくれてやろう。一枚の紙切れだろう?そして、お前の本当に望むものも」
 本当に望むもの。白は確かにそう言った。この人物(?)は、全てを分かっているようだった。それなら、話は早い。しかしだ……
「さあ、剣を抜け少年よ」
 キンと凛とした音がした。暗闇の中の白は輝く切っ先をこちらに向けていた。
「魔魂武器の力を使え。私に勝ってみせろ」
 戸惑いながらもティテラニヴァーチェを展開させる。広がった黒は右腕に収束し、手の中に一つの黒い剣となる。それを見届けた白は、暗闇の中でふっと揺らめいた気がした。次の瞬間、
「……ぐっ」
 突然の衝撃に、肺の中の空気が漏れる。白と彼の剣は、眼前に迫り、じりじりとせめぎ合っている。先程まで男とアンリの間にはデスクがあり、それを乗り越えないと来れないはずだが……
 表情も分からないほどフードを目深に被り、ローブの長い白い衣装に身を包んだ男。彼は、ふっと笑った。
「手を抜くな。本気で来い」
「っ!」
 強く後方に吹き飛ばされる。体勢を整え、アンリは腹を括った。彼は地を蹴った。
 ガキン!と強い音が部屋に響く。一つ、また一つとその金属音はリズムを刻んでいく。攻めては受け、また攻めては受け流す。一進一退のように見えた。閃く光線と共に、白いローブの裾と黒い教団の制服が、ひらひらと美しく宙を舞う。
 白ローブの攻撃は最初は落ち着いたものであったが、次第に豪快さを増していった。
「はは!は、そうだ!迷うな!立ち止まるな!お前がやらなければ俺がお前を殺す!」
 的確に急所を狙う、突きの多い攻撃。だがそれはアンリとて同じこと。彼には何故か男の太刀筋が見え、それを受け流し、また躱し続けた。アンリが隙を見て攻めに転じても、また受け流され続けた。
 舞のように続く攻防に、このままでは勝負が決まらないと、アンリはそう思った。団長室と言えど室内が狭いことに変わりは無く、大技は使えない。壁際に追い込まれないよう気を配る必要もあってなかなか戦い辛い。その時、「脇!」と男が叫んだ。鋭く出された突きを既のところで躱し、アンリは少し後ろへ飛ぶ。
「考え事をしている暇はねえぞ!」
 そう笑い、白いローブの男はアンリを追撃する。
「脇を締めろ!」「横だ!」「もっと間合いを取れ!」
 叫び、次々と強い斬撃で押していく。少しづつ後ずさったアンリだったが、やがてその背は壁に捕えられ逃げられなくなった。白は容赦なく大きく剣を振りかざす。二振りが火花を散らし、鎬を削った。フードの下で、男は歯を見せた。
「考え事をしている暇はない!全ては計算だ、間合いも、速さも、全てだ!本能なんかに頼るな!このままではお前は負けるぞ!」
 ぐっと唇を噛みながら、アンリは呻いた。
「――ティテラニヴァーチェ……!」
「!」
 アンリの右手から、ドロリとした黒が溶け出す。黒い刃を渡ったそれは、競り合う白い刃に今にも渡らんとする。その瞬間、ローブの男は剣を引き飛び退いた。
「……よく分からん技に掛かるのは吉ではないな」
 アンリが大きく真横に黒を薙ぐ。
「八方羂索……」
 だらりと地面に向けた右腕の手の中が溶ける。同時に背後からじわりと溶けだした黒が、床を伝い壁を伝い、男の真上の天井や周辺の壁に集まり始める。「三千黒箭!」その声と共に、その黒から無数の矢が白い衣を穿つ。
 ……はずだった。だが遅すぎた。
「いい技を覚えたな、だがな」
 瞬時に至近距離まで駆け抜けていた白ローブの男は、アンリの首元に剣を向けて既の所で立ち止まる。
「使い手はがら空きだ」
 勝負は決したかと思われた。
「本当に?」
「!!」
 消えたかと思った。しかし、気付くと鳩尾に激しい痛みを感じ、男はよろめく。そう、剣を高い位置で固定したことにより生まれた隙を利用し、体勢を瞬時に低くし懐に入り、鳩尾に拳を叩き込んだのだ。その隙に、アンリは男の後ろへと回り込んだ。そして男の右手を蹴り上げ、剣を吹き飛ばした。床を滑り、彼の剣はクルクルと回った。咳き込みながらも男は楽しそうに呟く。
「やるじゃないか、身に付けていた体術がそこまでとはな。俺の予想以上」
 息を切らしたアンリは、剣を構えながら男の顔をじっと見ていたが、何か言いたげに口を開こうとした、だが、白いローブの男は無言で左手を伸ばして彼を制した。
「なかなか面白かった。だが、お前では俺には勝てない」
「いや、あなたは、」
「恐らく合っている」
 食い気味に男はそう言った。
「だが、私は亡霊。影のようなものだ。――おい、剣をくれ」
 アンリの背後にあった剣を、彼はちらりと見た。「大丈夫だ」そう言った彼の言葉で、彼は剣を拾いに行き、そして男に投げる。ローブの男はそれを左手で受け止め、鞘に収めると、咳払いを一つした。突如、男の周りの空気が動から静に変わったようだった。
「……さて、もう一度問おう。君は何の為に戦っているんだ。憐れな子供ではないと、なぜ言いきれる」
 彼は先の質問を繰り返していた。
「……自分の為です」
「ほう?」
「自分の為。ひいては、人の為」
「傲慢な答えだ」
 白ローブの男は鼻で笑った。
「それに、僕はもう憐れな子供ではありません」
「そうか」
 男は踵を返し、機械仕掛けの本棚の扉の向こう、闇の中へと帰っていく。その時ようやくはっとして彼を呼び止めた。
「待って、まだ、」
「じきに分かる」
 閉じゆく暗闇の中で、彼は手を振った。
 やがてガチャンと大きな音がし、扉が完全に本棚になった時、不意に部屋が暗いことに気が付いた。天井を見ると、どうやら照明が割れている。夢から引き戻されるような妙な感覚が全身を走った。ハッとして顔を上げると、出入口の扉がガチャガチャと大きな音を立てており、内側から鍵がかかっていたことを知った。
 扉を開こうと左手を伸ばすと、その手は一枚の紙切れを握り締めていた。少しの迷いの後それを制服のポケットに仕舞い、うるさい扉を慌てて開くと、顔を出したのは小柄な女性の文官だった。アンリの顔を見て酷く驚いたようだったが、その背後を見て、彼女は顔を青くして腰を抜かしてしまった。何事かとアンリも振り向いた時、ようやく気付く。部屋の真ん中で、無残な姿になって倒れている、団長だったものの存在に。
 しかしいなかった。端から存在しない筈だった。だが部屋が暗いと気付いた時には、丁度足元にあって気付かなかった。
 嵌められた。そう思った。冷や汗が背を伝う。
「違うんです!」
「ひいいい!」
 異常に怯える女性。宥めようと手を伸ばした時、まだ自分が黒い剣を持ったままだったことを知る。
 さっと顔を上げた時、周りにいた人達が皆、茫然と自分を見ていた。
「あの、これは、」
 半泣きの女性が叫ぶ。
「団長が!この男に!」
「やはり、今の音、団長が!?」
「すぐに五番隊を呼べ!通信室へ!」
「危険だ!みんな近付くな!」
 弁解しようにも、目の前の女性は悲鳴を上げて逃げ、周りの人達も巻き込みパニックになった。
 ……これはもう、どうしようもなかった。


 焦る心に追い抜かされないよう、必死に駆ける。仲間から逃げる為に。避ける人混みを抜けていく。
 エントランスは封鎖されているだろう。出入口が他にあるのは、あそこしかない。

 中庭を抜けようとした時、聞き覚えのある声で、「兄さん」と叫ぶ者があった。テンだ。しかし立ち止まって何か話す余裕も無かった。ちらりと一瞥しただけで、そのまま駆け抜けた。苦い顔をしていた。


 孤児院の関係者が使用している、小さい門がある。正面突破は難しいと思われ、とりあえず彼が考えたのはそこからの脱出だった。

 夕方になったと思ったら、夜まではすぐそこ。限りなく落ちていくように、暗闇が追いかけてくる。
 死角となる物陰から伺うも案の定、既に警備員が配備されており、脱出は絶望的と思えた。だが、そんなアンリの目の前で、彼らは眠り込んだように、ばたりばたりと次々に倒れた。
「!?」
「こっち!早く!」
 声のする方を見ると、背の高い門の上に少女が捕まり、こちらに手を伸ばしていた。夕闇の中で光る二つの金。すぐに分かった。この白髪三つ編みの彼女は、あの夜接触してきた悪魔だ。
 後ろを振り返ると、追手が迫っており時間は無い。彼に選択肢は無かった。
「早く!」
 力強く悪魔の少女の手を取り、高い門を越えると、手を引かれ走り出す。

 少し離れたところで突然立ち止まると、少女は懐から瓶を取り出した。
「この辺りなら使えますわ」
 それを地面に叩き付けると、それは黒い飛沫を飛ばし、その黒に飲まれて二人は消えた。
 追手の者達は、忽然と消えた二人に為す術もなかった。しかし暫くして本部からの指示を得て、辺りを封鎖し、調査を行い始めた。

◆◇◆◇◆

【教団本部 団長室の隣室】

 メルデヴィナ教団本部には、使われていない部屋があった。
 上層部が使う倉庫、そういうことになっているが、実際は違う。団長室の隣にあり、中から行き来できるこの部屋は、影の部隊が使用していた。いつからか、まるで我が物顔で。
 外はサイレンでうるさい筈だが、防音対策がなされており、なおかつ放送が流れないこの部屋は、幾分か静かであった。夕陽だけを採光した暗い部屋で、彼女達は丸いテーブルを陣取り、優雅に遅めのアフタヌーンティーを嗜んでいた。
 椅子に座るは二人の女性。二人共赤と黒の、教団の制服に酷似した制服を着ていた。一番中央に座った、アジアンな雰囲気の女性は、紅茶の香りを嗅いでふふんと満足気な表情を浮かべた。しっとりとしたストレートの黒髪ロングの髪、彫りの浅い顔。その隣で彼女の顔を見ていた少女は、幼さを感じさせる顔立ちに、ふわりとした長い金髪、そして珍しい緑の瞳を持っていた。しかしそんな可憐な外見と裏腹に、黒髪の女性に比べ随分と粗暴に見える。というのも、脚を組み肘を付いて片手でカップを煽ったからだ。余った腕は椅子の背に乗せている。
 黒髪の女性はカップの淵をなぞる。
「彼女、実はね?私と故郷が同じなのよ。こーんな遠い所で見つけたから、彼女だけは守ってあげようとか思ったのよ」
「守ってあげよう?お前本気で言ってるの?」
「ふふ、冗談よ」
 金髪の少女は半目で黒髪の女性を見つめた。
「じゃあこの外でうるさいサイレンはなあに?お前のせいじゃないの?お昼寝できないんだけど」
「あら、なんでも私のせいにしてくれては困ります。あなた何も知らないのね」
「馬鹿にしてるでしょ」
「してないわ」
 軽く返しつつ、彼女の手はお茶請けのビスコッティに伸びる。固く焼き上げられた、マリュデリア土産のハーブビスコッティだ。
「んんー!やっぱり美味しい」
「ミカミ、よくそれ飽きないね。四六時中食べてる」
 そう言いつつ、その一つをそっと左手で摘んで口に放り込む。もごもごと咀嚼し、「そこまで美味しくない」と零し、ポットから追加でセピアの液体を注ぐと、洗い流すかのように紅茶をまた煽った。
「いつ滅ぶやもしれぬ世界だもの。好きな物を好きなだけ食べるのが正解よ。ミクス、あなたも好きなことしないと損よ」
「好きなこと、かあ……」
 金髪の少女は立ち上がり、窓際に歩み寄る。そして窓の外を眺め、寂しげな笑みを浮かべた。緑の瞳が夕陽に照らされ怪しく光る。
「まああたしの場合はどちらにせよ、マスターに許可を得ないとね」

◆◇◆◇◆

 世界とは、全く関係の無い無数の意思の塊だ。けれども確かに、今この世界はいくつかの意思に収束しつつあった。


【暗闇の男】

 暗がりで一人、ぶつぶつとそぞろ歩く男。
「ああ、早く、一刻も早く花を手に入れなければ。ことの重大さを理解していない輩にうっかり殺されでもしたら、大変だ」
 彼の布石は完璧だった筈なのだが、いつからか恋人だった者に邪魔され続けた。それでも彼は、人間と悪魔の対立するという、この世界の枠組みを作った、かつて最も神に近かった男なのだ。


【果ての鳥達】

 遠いのかも近いのかも分からない場所。世界の端から、落ちる夕陽を見ていた二人の男。

 一方は白い帽子に白いコートに白いスーツ。靴だけでなく靴下まで白なのではと思わせる程の、全身白の酔狂な紳士。大きな時計を首から提げていた。
 その隣に立っているのは、対照的に全身黒に身を包んだ男だった。背には遠距離射撃用の銃を背負っている。
 白い方が口を開いた。
「で、俺達、世界を破滅に追いやるとかいうやばい花を捕まえて、殺せばいいんだね?俺、花のことなら分かる。よく覚えてるんだ。世界一哀れな子供にマザーの愛を与えようと思った、あの時のことはよくね」
 変わらず黒い男は口を真一文字に結んだままだが、どこからかもう一人の声がする。
「殺すまでは違うだろう。あの人はただ捕まえてこいと言ったんだ。殺せば価値が無くなってしまう」
「はいはい。クロがそう言うならそうしようじゃないか」
 白い男は、この隣の黒い男にはあっさりと折れる。
「花を探すなら、ついでに花守を探すといい。奇しくも、お前がなる予定だった役割だな」
「俺がかい?」
「ああ。エネミ・リラウィッチはお前にその仕事を預ける予定だった」
「あの人の話はもうあまり聞きたくないね」
 溜息をつき、視線を黒から夕焼けに向ける。黄と橙と紫のグラデーションだった。彼はこれを美しいと思ったのだろうか。
「――さあ、行くよ。とりあえず、その大切な花とやら、鼠に持っていかれないようにだけしないとね」
「ああ」
 二匹の鳥は、その衣をはためかせ、夕闇と共に羽ばたいた。


【白い者達】

 エルカリア半島の南端。大きな廃教会の日も当たらない地下はいつもひんやりとしているものの、今日のみならず最近は、強い熱気を持っているのであった。

『花の開花は近い!我らの自由は近いのだ!影に生き、人間に虐げられ続ける日々はもうすぐ終わる!マザーの愛に、メイメイ様に導かれ!遂に我らは自由を手にするのだ!』

 ホールでは、沸き立つ無数の人型の2型悪魔達が鼓舞し合っていた。元々この砦にいた数より幾分か多く見受けられる。
 ステンドグラスの光に染められた、綺麗に並んだ白の頭は、各々不思議な光を放ち、白い肌はまるで透き通るよう。二つずつ揺れる金色は、まさに人為らざる者しか手にできない神々しさであった。

 ホールから良く見える二階に祭壇と、更に高い位置には色とりどりのステンドグラスがある。祭壇に登る為の階段が設けられた舞台袖から、ひっそりと彼らを眺める者がいた。
 一口に言うと奇抜な格好。真っ白で二つに結った長い髪は地面に接し、引き摺りそうだ。三角の魔女の被るような帽子を被り、まるで人形のような見た目の少女。そんな彼女の背後から、声を掛ける一人の悪魔。
「お前、そんなことして楽しいか?」
 魔女帽子の少女が振り返る。驚いたように金の瞳を丸くしていたが、やがてそれは三日月に変わる。
「ええ。楽しいわ。それに、あなたには見えないのね。人間がいなくなった後の世界が」
 声を掛けたのは、頭に大きな二つの角が付いた女の姿をした悪魔……シンシンであったが、彼女は怪訝な顔をする。
「何……?」
 赤いブーツをこつりこつりと響かせ、彼女は階段を降りていく。
「新しい世界は、今のヒエラルキーが何もまるっきり変わったりはしないわ。今は私がリーダーなの。――求められているの。深窓の娘様よりね」
 シンシンの隣でそう微笑むと、シンシンは眉を寄せただけで何も言わなかった。
「心を操ることなんて容易いわ。大衆を操ることなんて更にね」
 魔女帽子の悪魔……メイメイは、構わず階段を降りていく。彼女だけは、遠い未来を見据えていたのだ。


【花守】

 悪魔達がここ半年から使用し、教団もその製法を解明したばかりである黒の瓶は、はっきり言って欠陥品だ。大した距離は移動できない。
 だがリィンリィンにとってそれは大した問題ではなかった。その場から姿を消し、地下の迷宮に潜り込んでしまえばこっちのものなのだ。あとは、仲間だったものに勘付かれないよう進むだけ。

 暗い地下迷宮……悪魔達が使用していた通路の迷路を抜ける。鉄道の大きな駅のあるここは、本部のあるヴァルニアから程近い、メインライア。本部が混乱しているのか、まだ情報も教団員も到着していないようだった。

 駅から少し離れた路地裏。痩せた猫しか歩いていなかった静かな場所だが、重い音がして、マンホールが持ち上がる。顔を出したのは人だった。出てきたのは二人。黒いフードを被ったアンリと、白い髪のリィンリィンだった。
 まだ何も異変が無いことに気付くと、アンリはフード付きのマントを返したが、荷物を背負ったリィンリィンは中を漁ると、彼に別の物を手渡した。冬用の長いコート。ふと己が教団の制服を着たままだったことや白黒以外の色にも染まっていることを思い出した彼は、大人しく彼女から受け取り袖を通す。それは恐ろしくぴったりだった。
 リィンリィンがマンホールを元の位置に戻していると、彼はこんなことを言った。
「こんな形で別れが来るなんて、思ってもみなかった」
 アンリは、建物に遮られた細長いフレームから、落ちかけた夕日を見てポツリと呟いた。リィンリィンは、そんな彼の顔を眺めることしかできなかった。だが暫くして口を開く。
「別れの挨拶は、しなくていいんですの?……メルデヴィナ教団本部の警備なんて、リィンリィンからすればどうとでもなりますわ。あなたの大事な人達に、別れの挨拶をする時間くらいなら稼げますわ」
 だが、彼は首を横に振った。

 彼らには、言いたいことも、謝りたいことも感謝したいことも沢山あるけれど、別れを告げると何故出ていくかを説明をしなくてはならなくなる。
 世界が終わるかもしれない。しかも自分のせいで。世界とも関わる、組織のタブーに触れて追われたなど、どう説明するのか。そんなことはできない。このことを知ったら、彼らがどんな反応をするかは想像に難くない。失望されるか?いや、それもあるかもしれないが、それより、彼らは優しい。だから、共に来る道を選ぶかもしれない。しかし、そんなことはして欲しくない。巻き込むことはできない。……本当は話したい。でもできない。特にアルモニカに、彼女の母のことを話すのは。
 様々な葛藤を心の内に閉じ込めて、彼は背を向けた。
「あなたの悲しむ姿は見たくないですわ」
「……」
 沈黙を続けたアンリであったが、ぽつりと「寂しい」とだけ零した。それを聞いてリィンリィンは、手を伸ばし抱きしめるでもなく、どうしょうもなく痛む胸を、ぎゅっと押さえたのであった。

 アンリは首を横にぶんぶんと振ると、一歩踏み出し後ろを振り返った。
「行きましょう」
 リィンリィンは一拍後に頷くと、ばさりとフードを目深に被り、二人は駅へと向かった。

◆◇◆◇◆

 廊下に響くサイレンの音。
 武器を使いたい気持ちを抑え、体を必死に前に動かす。
 嫌な予感が体を駆ける。

 けれど、結局彼女は思いを遂げることができなかった。彼女が最後に見た彼の顔は、夢の中で見た、泣きそうな笑顔だった。

 本当に何処かに行ってしまった。私が気付くのが遅かったばっかりに。そう涙するアルモニカに、アーサーは掛ける言葉も見つからなかった。


 じきに夜がやってくる。黄昏る時は終わる。意思……彼らはそれぞれの思いを抱き、各々新しい場所へと歩を進め始める。







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