54話「使命より何より 下」

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 仇を討とうとしたトーレの目の前で、鮮血が吹き出した。彼女は驚いてナイフを手から滑らせ、膝から崩れ落ちた。
「すまないトーレ・セルディス。次は耳を塞いで目を瞑ってくれ」
「――ッベルガモット!!」
 グレイヤーの怒号。どうやら、レイクレビンに向けてベルガモットが発砲したのだ。
 少し離れた位置、物言わぬベルガモットが銃を下ろし近付いてくる。
「邪魔をするなクロウ・ベルガモット!」
「心に深く傷を負う。駄目なんだ敵討ちなんか。私怨で人を殺すことは」
「あなたは何も分かっていない。邪魔をするのなら私が相手をします」
「遂に正気じゃ無くなったか?お前はよく分かっているんだろう!だから今こんなことをしている場合じゃないことくらい――」
「分かっている?分かっています。ええ、よく分かっています」
 グレイヤーは何度も頷くと、落ち着いた調子で続けた。
「ならば清算しましょう。あの時の決着を、今」
「ッ……気が狂ってる……」

「おいおい……僕を放っておいて喧嘩に夢中か……」
 掠れた呆れ声を、トーレだけは聞いた。
 その時カチリと妙な音がして、言い争う声は聞こえなくなり二人は消えていた。結界の外に弾き出されたのだ。
「そろそろ、僕も死にかけのフリは止そう」
「!?」
 その時パキリと音がして、氷の針がバラバラ舞ったかと思うと、ボロボロだった筈のレイクレビンがしっかりと立った。開いた傷は塞がっているようにも見える。だが服には穴が空いている。まるで傷が綺麗に回復したような。
「策も無く棒立ちになってる馬鹿が何処にいると思うかい?こんな分かりやすい所で」
 怪しく笑い、トーレを見下ろした。
「塔の目。いいやあの時の魔女の子。少しは役に立ったから、始末しなくて正解だった。もう、要らないけれど。僕が魔女は全て抹殺するから」
 その冷たい瞳にぞくりとして、その時トーレは左足を引くことしかできなかった。
「逃げることないさ。君を守ってくれる人なんて、誰もいないよ」
「……っ!」
 トーレは落としたナイフを拾い上げ、震える手で構えた。置いたままの杖、ローセッタレンズをちらりと見るも、取りに行けそうにない。レイクレビンは足元の瓶を蹴りながら、少しずつトーレに近付く。
「お嬢さん。誰に向かって武器を向けているのかな」
 余裕綽々なレイクレビンは、少ない動きでトーレのナイフを取り上げ、彼女の眼前に突きつける。そして穏やかに微笑んだ。
「可愛いものだね。身の丈に合わない強大な力を有していても、所詮は子供。怯えきって何もできやしない。……冥土の土産にいいことを教えてやろうかと思ったが、やはりな、生憎僕は覚えていないんだ。お前のことも、お前の両親のこともね。――ではさらばだ」
 迫るナイフ。死を覚悟し強く目を閉じたトーレ。しかしその時、金属音がしてナイフは宙を舞う。何かがナイフを弾いたのだ。
「ッ!」
(アリアドネ……?)
 トーレの両手は赤い盾を構えていた。彼女を守るのに十分な大きさと重厚感を持つそれは、確かにローセッタのアリアドネだった。
 副作用が生まれないようローセッタが加工したアリアドネのケープを、トーレは形見の一つとして大切に身に付けていた。だが、彼女がアリアドネの本当の姿を見たのはこれが初めてだった。
{私はまだローセッタの物。けれど、彼女を想う貴方を守ってあげる。それがローセッタの想いだから}
 初めて聞いた声は、優しい声だった。一人じゃない。怖くない。アリアドネが、ローセッタが、トーレを優しく包んでいる。
「……ありがとう、アリアドネ。――っ、来るなら来なさい!私はただの子供じゃない!」
 真なる武器は、使い手に適切な重量しか持たない。トーレを許したアリアドネは、その見た目に反して彼女にも扱いやすそうであった。
「盾を手に入れたくらいで何だね」
 レイクレビンは自分の片手剣を抜刀する。
 美しい構えから激しい流線を描き、彼女に攻撃を一筋、二筋浴びせるも、彼女の赤い盾は強固で、全く介さない。
「なるほど、だが守っているだけでは埒が明かないよ」
「……っ!」
 強めの衝撃が加わり、トーレが明らかに怯む。レイクレビンは更に迫った。
「近々、彼らが帰ってくるところだからお前なぞッ――」
「あ……」
 衝撃は来なかった。トーレがそろりと盾の隙間から伺うと、レイクレビンの右の手首が何者かによって掴まれていた。それとほぼ同時に、青い光がトーレを連れ去った。
「ッお前はァ!」
 レイクレビンが振り向いた刹那、今度は鋭い攻撃を受ける。腹から背中まで貫いたそれは、黒い剣だった。二度目はしっかりと、胸の中心を貫く。
「ぐ……アンリ、クリュー、ゼ、ル……ッ」
 彼は何とか声を絞り出すと、レイクレビンはどっと地に伏した。

 トーレはレイクレビンの最期を見ていなかった。アルモニカに抱きついていたから。
「もう大丈夫よ」
「本当?」
 トーレはアルモニカの顔を見た。アルモニカが頷くと、彼女はわっと泣き出した。
「お兄さんも、お姉さんも、遅いよ……すごく、こわかった」
 背中に回した腕は強く、まだ震えていた。
「トーレ……」
 武器を携えたままのアンリは、トーレに一定以上近付けなかった。血で、人を殺した手で汚れてしまう気がして。
「憎かった、あの人のこと。私からお父さんとお、かあさんを、私から、奪った人、だから……。でも、何もできなかった……ナイフを持った時、怖くて……っ」
「トーレ、あなたは優しいから。人を殺せないことは、何もおかしいことじゃない。トーレの選択は、正しかったんです」
 彼女は何度も頷いた。
 年相応に泣くトーレを二人は慰めることしかできなかったが、彼女は安心したのか、アルモニカの腕の中で眠りに落ちていった。


◆◇◆◇◆


【戦場 結界の外】

 同時に違う場所で、物事は起こる。
 レイクレビンの結界の中にいたはずのグレイヤーとベルガモットであったが、体を強く押される感覚があったかと思えば、結界の外に出されていた。
「!?」
「……転移、のようですね。彼の守っていた装置は、この為にあるのかもしれません」
 落ち着いた様子のグレイヤーに対し、ベルガモットはハッとして遠くを見遣る。
 迷彩処理がされているのだろうか、目を向けてもそこには瓦礫の山があるばかりで、中の様子は伺い知れない。
「残された塔の目のことを心配しているのですか。あの男はもう身動きが取れないでしょうから心配には及びません。そんなことより、私はあなたと話がしたいのです」
 ベルガモットはピクリとして、険しい顔でグレイヤーに詰め寄った。
「そんなこと?話?」
「ああいえ、失礼。救助ももうすぐ来るでしょうから、塔の目は大丈夫です」
 千里眼とも言えるのであろうか、共鳴士であるグレイヤーには信憑性のある直感が宿る。だからこそ、「今やるべきこと」に集中できるのであろうか。
「今こうしてあなたと話ができることは、寧ろ好都合。……生き返ったあなたに、私は言いたい。もう一度、あなたを殺してやると」
 人差し指に乗った殺意がベルガモットに向けられる。彼は眉をひそめた。
「正気かグレイヤー」
「ええ」
 そのまま抜刀し、グレイヤーは剣を向ける。だがベルガモットは未だ彼を窘めようとする。
「このようなことは無駄なことだ。正気になれグレイヤー、今すべきことは私を殺すことではないだろう」
「本当にそうでしょうか」
 話の通じないグレイヤーに、ベルガモットは声を荒上げる。
「その前に世界が滅ぶんだぞ!例えお前が私を殺したとして、それが全部無に――」
 その時グレイヤーが斬りかかった。慌てて構えられたベルガモットの銃身がそれを受け止める。
「煩い!世界?運命?神?そんなことに縛られて、この身一つも全う出来ないなんてどうかしています!大きなものを見据えるあなたは気付いていない、魂を全うすることの意義を!」
「訳の分からないことを言うな!」
「いいえ、あなたは分からず屋です!私達の因縁に蹴りを付けずとして、終わりなんて迎えられる訳がない!」
 柄にも無く吼えるグレイヤーとベルガモットは、恐らく昔からこうだった。
「我々の今すべきことは、この結界を壊し中で行われるであろうことを止めることだろう!我々は滅びを受け入れてはならない!」
 だがグレイヤーは聞いていない。だが次開かれた口から発せられた言葉は、ベルガモットからすればやはりと言った内容だった。
「何故ヒュールを殺した」
「ッ!」
「何故ヒュールを殺した!あなたの婚約者でしょう。あなたが任務に使命したんでしょう。あなたが指揮していたんでしょう!」
「……殺してなど、いない……!」
 ヒュールはクロウ・ベルガモットの婚約者であり、ファミリーネームを持たなかった彼がベルガモット姓を名乗ることになった所以の人物にあたる。だがヒュールを失ったのは事故であると多くの人が認めている。
「いいえ殺したも同然です!私はヒュールをあなたに預けた!あなたなら彼女を守れると!それなのにあなたは、同じ戦場にいながら守れなかった!」
「何だ、お前なら守れたとでも言いたいのか!」
「ええ!」
「ならば示して見せろ、その強さ……」
「お易い御用、第三テトラールキ殿――!」

 メルデヴィナ教団実力者二人がぶつかり合う。
 その異変に気付いた赤服が一人少し高い位置から、身を低くして静観していた。
「面白い人達。どうしよう、相討ちになるの待とうかな?」
 彼はセラという名を持つ爆弾魔の少年である。
「先生、いつがいいかな?」
 隣の白い男に問いかける。
「なに、好きな時でいいさ。奴らの喧嘩はいつも長続きはしない」
「じゃあ、雨が弱まったらにしよう――」

……
 ニルス・グレイヤーという男、今は四番隊の隊長をしているが、かつては三番隊にいた。
 グレイヤーとクロウ(現クロウ・ベルガモット。彼は姓を持たなかった)は、ほぼ同時期にメルデヴィナ教団に加入した仲間である。同世代の同性ということで仲良くなりそうなところであるが、反りが合わず衝突することもしばしば、当時副隊長だったローセッタ・ノースにまとめて怒られることも少なくなかった。同僚だったヒュール・ベルガモットにもよく笑われた。けれど二人は心から憎んだりなど、そういう仲では無かった筈だ。
 
『あたしはね、あんたたちがしょうもないことで喧嘩してると、フフ、落ち着くよ。前の家の猫みたい。今頃何してるかなあ……』

 やがて彼らは実力を付け、グレイヤーは辺境の一番隊へ行くことになった。この時彼は顔の半分を包帯で覆っていた。
『……クロウ、あなたの実力を認めています。ですので、ヒュールを、頼みます。――昔は気付かなかった。彼女は速い、けれどどうにも埋まらない力の差があります。だから彼女の恋人である、あなたに。私の親友を預けます。守るなんて言葉、彼女が聞けば怒るかもしれませんが』

 ヒュールの葬式に参列していたグレイヤーは、驚く程落ち着いていた。異国風の狐の仮面の下の表情は伺い知れないが。
『クロウ・ベルガモット。あなたが憎い。……けれど、公私を混同している場合ではありません。今や私は四番隊隊長第四テトラールキ。そしてあなたは三番隊隊長であり、このメルデヴィナ教団の第三テトラールキです。今すべきことは、仕事です。世界の為、それが使命です』
……

 グレイヤーは非常に冷静で落ち着いた男だった。使命の為なら憎しみを、「我」を押し殺すことも容易にしてきた。ベルガモットはそんな彼の姿を見てきて、彼自身もそう務めるよう努力をしてきた筈だった。例え世界の真実に辿り着いても、例え亡き婚約者の面影が心を抉っても、例え半身の命を自分の手で奪っても。
 けれど今彼の目の前にいる男は、使命より何より、「我」を優先している。

 現在のメルデヴィナ教団のシステム上、実力者が上から順に隊長となる。よって四番目のグレイヤーより三番目のベルガモットの方が、相性による差があると言えど強い筈である。しかし、グレイヤーは明らかに今迄爪を隠していた。
 多彩な攻撃がベルガモットを追い詰める。だがまたベルガモットも牽制程度ではあるが技を放っていた。お互い無傷という訳にはいかない。
「私を止めるならもっと距離を取らないと、あなたは本気を出せないでしょうね。畢竟そのつもりがないのでしょう。舐められたものです」
 ベルガモットは唇を噛んだ。言い争っていた時は頭に血が上っていたとは言え、本気で殺す気にはなれない。それよりも彼には疑問が大きかった。何故と問うても言葉が通じている手応えがない。そんな時、グレイヤーが放った言葉にベルガモットは驚いた。
「このままあなたは死ぬつもりでしょう」
 そんなつもりは、と言いかけて、ベルガモットは押し黙ってしまった。
「自分では分かっていないようですが、あなたは生きる理由を大義とすり替えている。『我々』なんて言っていないで、声を聞きなさいベルガモット。その屈強な男に宿る、さもしい心の声を」
 何を言いたいのかと言わんばかりに、ベルガモットはグレイヤーを見つめたままだ。グレイヤーは雨の中で吠えた。
「でも同じように!私は私の魂の叫び声を聞いてやりたい!喚き叫ぶ男の声を!嘆き狂う獣の声を!決して無視することはできない!最後だからこそ、私は諦められない!」
 グレイヤーはベルガモットに迫る。
「声を聞けクロウ・ベルガモット。私の声を、あなたの声を!」
 ベルガモットは武器を持っていない手でグレイヤーの襟首を掴む。顔の筋肉一つ動かさない。
「私の声だと……、そんなもの、無い!」
 二人の緊迫した空気を破ったのは、大きな爆発音だった。
 雨にも負けぬ炎の中、人影が見えた。大きくはためいたマントの下、狂ったように笑う少年の姿。赤服のセラだった。
「熱い!熱いよアグニ!最高だよアグニ!」
「何ですあれは……」
 ベルガモットは舌打ちをすると、襟首を掴んだ手を押し退けるようにしてグレイヤーを突き放し、セラに向き直る。
 近付いたセラは顔に僅かな火傷を負いながらもニコニコとして、ベルガモットの顔を確認した。
「お前があの天使が言っていた隊長だね?」
 ベルガモットが何だと言いたげにセラを睨みつける。
「……レイ・パレイヴァ・ミラ」
 傍のグレイヤーが呟くと、セラはそうそう!と手を叩いた。
「パレイヴァ!そんな名前だった!」
 この人間の子供、セラは、お世辞にも大した脅威には見えない。あの戦場の女神とも言われたレイが、こんなただの人間に負ける訳がない。そう二人は考えていた。
「パレイヴァとさっき会ったよ!先生から聞いていた通り、何とも物分かりの良さそうな人だったよ。君たちの仲間にも、ああいう人が居たんだね!」
「あ……?」
 グレイヤーは声にならない声を上げ、ベルガモットは目を見開く。
「何を言っているのです」
「あの人は神だ!パレイヴァはそれを知っていた、ただそれだけだよ!気付いたんだ!あの人のお姿を見て、お前たちの足掻きなど取るに足らないことだと!」
 ベルガモットは眉を顰めた。グレイヤーはどういうことだと言いたげにベルガモットの顔を見た。けれども彼は、丘の上のセラを見つめたままだ。
「君たちのこと、僕はさっきから見てたよ。先生の高尚さも分からない上仲間割れをする、なんて低俗で可哀想な人達……でも僕が、ちゃんと火葬してあげるよ……」
 手には小さな爆弾があった。グレイヤーはゆっくりとセラの方に歩みを進める。
「邪魔されるのは嫌いです。あなたは邪魔です」
「なっ!」
「邪魔です」
「何だと!?」
 カッとなった少年セラは、足をばたつかせると爆弾に火をつけ二人に向かって投げつけた。
 グレイヤーは造作もない様子で、無数の蝙蝠を飛ばし剣で炎を切り裂いた。爆風に巻き込まれた蝙蝠以外がセラ本人を襲う。
 けれどもセラの本命の攻撃は、追撃、爆風に隠れた複数のナイフにあった。グレイヤーは充分避けきれた筈だ。しかしその全てのナイフを撃ち落とそうとして叶わず、避けきれなかったナイフが彼の仮面に当たり、高い音を立て、その端は砕けて飛び散った。狐面は吹き飛ぶ。上半身が衝撃で後ろに反り返ったのを、真後ろにいたベルガモットが受け止める。左目に破片が刺さっているようだった。
「グレイヤー、お前は、」
 グレイヤーはベルガモットの手を借りないと言いたげにすぐ起き上がると、仮面の無い顔を左手で押さえながら剣で前方を指す。
「何をしているのですか!早くやりなさい!」
 ベルガモットは前を見据えると、蝙蝠に耳を齧られているセラに向かって容赦なく発砲した。多少避けようとも弾道が曲がるのが彼の武器ゲオルグ=サイデリケの恐ろしいところだ。
 直後グレイヤーの様子を確認すると、彼はまだ両目を押さえていた。足元には彼が携行していた薬の、空になった小瓶が、赤く染まった地に落ちている。彼の手で隠しきれていない右側には、縦に大きな傷が走っていた。彼の視界は、左目のぼやけた赤いものだけであった。
「こんな不甲斐ないことはありません。……殺してしまいなさい。私を。そこにいるんでしょうクロウ・ベルガモット」
 伝わらないことを承知で、ベルガモットは首を横に振る。
「やめろ、お前まで行くな」
「……」
「私の大事なものは、皆私の目の前で死んでしまう。それなのに、私は死ねないなんて、まるで死神じゃないか。お前まで行ってしまったら私は、私の過去は本当に無くなってしまう」
「ふっ、それもいいですね」
 正直に吐露するベルガモットの心の声を、グレイヤーは嫌味たっぷりに返した。
「……お前は私の気持ちを考えたことがあるか。私に生きる意味を与えてくれた大切な女性を目の前で失い、自分の不甲斐なさを呪ったことを」
 静かなベルガモットの言葉。グレイヤーの表情は動かなかった。ただじっと、考えているようでもあった。
「無いと言ったら嘘になります。……ですが、私の怒りや悲しみは、同情では打ち消せませんでした」
「そうか」
 グレイヤーは、剣を地面に勢い良く突き立てた。そしてだらりと両手を垂らし、重たい空を見上げた。顕になった古傷と生傷。雨水が彼の血を雪ぐ。
「しかしどうでしょう。どうしても迷いが生まれます。あなたや、彼女を殺した悪魔に対する恨みが途端に透明になってしまった。あなたを殺さなくても、いや、殺さない方が後腐れが無いような気さえしてきました。……本当は分かっているんです。あなたが悪くないことくらい」
 グレイヤーにとっても、ヒュールの死は受け入れ難いことであった。二人の違いは、その場に居合わせたか居合わせなかったか。そして後悔を背負ってきたか、それすらも許されなかったか。
 しっとりとした雨が二人の間を濡らす。ベルガモットは歩み寄ることなく、声をかけることもない。喧噪がようやく聞こえてきた。
「邪魔をされた時、私は私の手であなたを殺さねばいけないと思っていました。だからあなたのことを庇うような馬鹿な真似をしたのだと。けれど、気付いてしまったのです。あなたを失えば、きっと後悔すると。……私はあなたの言った通り、無駄なことをしたのでしょうか」
「恐らく、違う」
「!」
 グレイヤーはベルガモットの方を見た。声がする、それだけで十分だった。
「行程を踏んでこそ浄化ができたんだ。お前は叶えたんだ。魂を全うすることを」
「……そうかもしれませんね」

 ニルス・グレイヤー、彼は人生の中で、使命を全うすることより、魂を全うすることを尊重していた。ただ彼は、それは復讐を遂げることで為せると思い込んでいた。己の怒りを蔑ろにせず、禁忌を犯すなという綺麗事など無視して思うがままを成し遂げることが、彼の美学であった。しかし彼の怒りは消え失せてしまったのである。

「私は、お前の真似をしていた。お前が羨ましかったよ。いつも冷静で、最善を尽くそうとする」
「……私も、あなたが羨ましかった。自分のやりたいことをやり通す為に、どこまでもできるあなたが」


……
『ヒュールを庇ったでしょう。助けられたから良かったものを。可能性を考えずに無茶をするのは馬鹿のすることです』
『そういうお前も似たようなものだろ』
『何が言いたいんですか』
 合わない二人は、医務室でさえ言い争いをしてクルスドクターに怒られる。
『あのね君、随分元気なのは結構だけど、顔の怪我なんだからあんまり喋らない方がいいよ。そっちの君も、腹の傷が開くから喧嘩しないでよ。他の人もいるし、次喋ったら追い出すからね』
 三番隊として任務に出たのだが、この二人は酷く怪我をしていた。原因はクロウの指示ミスだと、本人が言っていた。
『……あなたはいつも言葉足らずです。正確に伝えてくれればこんなことにはならなかった。あなたのせいです』
『お前はそうやってすぐ余計なことを言う』
 二人はまとめて廊下に出された。
……


 合わないのは正反対だったから。なのにお互い無意識にお互いを真似ていたのだ。
 可笑しくなり、ベルガモットは一人で笑った。

 雨が止む。ベルガモットはふとボトムスのポケットに手をやると、小さなマッチ箱のような物を取り出した。
 紙巻き煙草がどの程度湿気に耐えうるかなど、彼には分からなかった。何が美味くて何が不味いかなども一切。彼にとってこの苦い煙は、ただヒュールの輪郭を思い出す為の記号だった。

 ――ヒュール。私はお前の側に行きたかった。今でも、そう思うよ。でも、それは生きない理由にはならない。

『そんな小さなことを気にしているのか?おかしい人だね。何が大事かなんて分かりきってるだろう』

 煙を燻らせるヒュールは、体に悪いと言ってもどうせ戦場で死ぬんだからと言って気にしなかった。
 ふとベルガモットは、グレイヤーがこちらを見ていることに気付いた。
「何だ」
「いえ。……彼女が居たような気がしただけです。あなたも女々しいことをしますね」
 グレイヤーは顔に垂れた白髪もそのままに俯いた。
「私はまだ、死なないぞ。お前より先にはな」
 グレイヤーははたと顔を上げた。
「――だから、使い物にならない邪魔なお前を家に帰して、ついでに滅びも止めてやる」
「ふん。私もあなたより先にくたばるつもりはありません」

 立ち上る煙は、細く長く、切れた雲の隙間に消えた。重たい雲は割れて、光の筋が降り始めていた。

『またこんなに一人で仕事を背負い込んで、もっとあたしを頼ってくれたらいいのに。書類整理もあたしは得意だ。――なあ、雨も上がったし、ちょっと散歩に行かないか?帰ったらあたしが手伝ってやるから』

 ――ああ。そうするよ。でもあと少しだけ頑張るから。傍に居てくれ。

 大粒の雨が、ベルガモットの足元だけを濡らす。


54
◆◇◆◇◆


【金髪の少女】

 戦場が混線している理由は複数あるが、その一つは途中で塔の目を失い作戦が上手くいかなくなったが為に、ガーディ陣営でさえ混乱に陥れられたからである。そしてもう一つは、ガーディがある国に協力を要請していたにも関わらず代わりにその同盟国が敵に手を貸したことである。
 このことに気付いたとある少女は、「暴れられるなら何も問題無い」などと、有り得ない言葉を呟いた。
 その少女は、戦場でテトロライアの騎士団のある分隊を相手に暴れる一人の金髪の少女。
 ふんわりとした金の髪は後ろで結んでおり、動く度にふわふわと揺れる。出したままのもみあげは何故か左右非対称の長さであるが、特筆すべきはそこではない。愛らしい少女はその珍しい緑の目を爛々と光らせ、白い肌を服と同じ赤で汚している。見た目に反して豪快に暴れるその姿はさながら狂気であった。
 周りには少女と同じく赤服の、袋のようなマスクを被った者達が応戦していた。
「何ださっきからチョロチョロと!お前達はお呼びじゃないんだよ!」
 ポニーテールの少女は手にしたレイピアを騎士団員の鎧の隙間から突き刺した。
 暴れる狂気も同時多数を相手に戦うことはできない。背後からの攻撃を避け損ね、血こそ出なかったものの彼女の跳ねていたポニーテールは吹き飛んだ。ばっさりと髪の毛が切り落とされ髪結いは弾け飛んだ。
 元々左右非対称の長さであったが、まるで残った右のもみあげだけ切り忘れたかのような髪型になってしまっていた。
 普通の女の子であれば、自分の長い髪を意に反して切られたことに多少なりともショックを受けるであろうが、彼女は違った。軽くなった頭と毛先を手で触って確認すると、少し笑って見せたのだ。まるでより動きやすくなったと言いたげである。
 その時彼女と一緒にいた、袋の赤服の一人が耳打ちする。それを聞き、少女の心は更に踊る。
「へえ……ルクス」
 少女はにっこりと笑った。
「ミクスが、今から迎えに行ってあげるから。待っててね」
 静かな狂気が今、運命に向かって歩を進め始めた。

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