55話「ミクス」





【結界の中】

 レイクレビンの足元に落ちていた小瓶を拾い上げる。
 アルモニカによると、それは一回だけ効力を持つ回復の瓶らしく、昔はメルデヴィナ教団内で製造を予定していたもののコストがかかりすぎることから中止となったレアな品らしい。そんなことをよく知っているなと言いたげに顔を見ると、「調べてたの」と笑った。

 二人はトーレを連れてベースキャンプを目指した。何かあれば逃げることができるようにとアルモニカがトーレを背負う。膝丈ほどの兵器がちょろちょろと動き回っていたので、アンリはそれを潰すことに専念していた。時々待ち伏せしていたかのように現れる袋を被った赤服をなぎ倒して進む。
 先ほどの場所からそんなに距離は離れていない。少しばかり離れた場所に、見覚えのある青年の姿を発見した。
「アーサー!」
 声は聞こえていないようだった。トーレを背負ったアルモニカが、アンリに先に行くよう促した。

 アンリは、アーサーとは暫く会っていない。陽も昇らぬ早朝のミジャンスクで、お互い殺意を向け合ったあの時からずっと。
「アーサーさん」
 声を掛けると彼は振り向き目を見開いた。アンリは無言で近付いていく。
「……」
 手の届く距離。アンリが頭を下げようとした時、その肩をアーサーが押さえて止めた。
 口を開きかけたアーサーに、アンリは食い気味で返す。
「謝らないでください。僕のせいです」
 アーサーは首を横に振った。
「お前は……悪くない」
 お前のせいだと言ってくれればどれ程良かっただろうか。お互い謝ることさえ許さない。
 そんな中、アンリが右手を出した。
「あなたが切り落とした右手です、全然、平気です。だから――」
「……馬鹿野郎!大馬鹿野郎が!」
「なっ」
 アーサーが大声を上げてアンリの手をぐっと引く。それは固い握手だった。アーサーは深く俯いていて、表情は窺い知れない。
「――辛い時は言えよ馬鹿が……お前にとって俺らはその程度だったのかと思った……」
 その言葉とアーサーの必死な声に、アンリは鼻の奥がツンとした。
「そんな簡単なことに気付かないなんて、僕が馬鹿だからですかね」
 そうして泣きそうなのをこらえて彼は笑った。
「ああ馬鹿だよ。でも、生きてて良かった」
「そうだよ」
「うわっアル、」
 アルモニカが二人の側で笑った。
「そうだよ。これからもずっと生きていくの」
 アルモニカの優しい声。アンリは頷き、アーサーは「ああ」と相槌を打った。

 状況把握が乏しい二人に、アーサーが丁寧に解説を始めた。
「お前ら多分分かってないだろうから、簡単に説明する。現メルヴィナ教団の主権を握るエクソシストと、前時代の教団を復古させようとするガーディとやらがいざこざを起こしてる。本当ならスヴェーア帝国軍にも攻められてたらしいが、そうはならないとテトロライアの王女が教えてくれた。ほんとお前らが、あの人と友達で良かったと思ったよ」
 ガーディは、前皇帝が魔女を擁護していたという弱みを握っていたスヴェーア帝国に対し軍に戦力を要請していたようだが、スヴェーアと国交のあるテトロライアが裏で条約を結びそれを止めてくれていた。それを成せたのは偏にテトロライア第一王女のフローレンスが、現皇帝と個人的に仲が良かったからなのだがそこまではアーサーに話す義理は無い。
「それから、この近くに迷彩処理の施された区画があるらしく、俺らは自分の身を守りつつ、その結界の柱を壊す。敵が分散してるのも、その柱とやらを守る為だ。だが、その柱の座標が何に振られているかはまだ分からない……。結界自体は東部に昔からある技術らしいが、座標を自由に振る技術は不明らしい。ともかく結界を破るんだ」
 アンリとアルモニカは顔を見合わせた。
「その結界の中から出てきたかも知れません」
「ええ!?」
 その結界の中とやら、二人の出てきた地下道の出入り口と繋がっていたのだ。
「ということは結界は一方通行で、でも地下からは侵入できるのか……」
 少し考え込んだアーサーだったが、今何もできないと気付き頭を振る。そして真っ直ぐアンリの目を見た。
「伝えておかないとなと思って。――俺、ここに来る前妙な奴を見た」
「……?」
「お前とミジャンスクでやらかした後にも会ったんだが、お前のことを探しているっていう奴が、敵側にいるんだ。……ミクスっていう」
「ミクス……!?」
 その声は動揺を表していると、二人共よく感じ取った。
「やっぱり知ってる奴か?」
「はい。……ミクスに、会わなきゃ」
 アンリが振り返りアルモニカの顔を見る。「待って、行かないで」と、口を開きかけたアルモニカはぐっと言葉を飲み込み、その先の言葉を紡ぐ。
「私が、責任持ってトーレちゃんを送り届けるから。だから待たなくていい、二人共行ってて」
 アンリは頷いた。アルモニカは真っ直ぐにアンリの目を見ていた。
「私絶対に追い付くから。傍で力になるって約束したから」
 そしてアルモニカは駆けていった。
「お前ら……」
 二人のやりとりを見ていたアーサーは目を瞬かせて零す。
「なあ、結婚式、俺も呼んでくれるよな?」
「馬鹿」
「は?呼べよ」
「今言うことでは無いですよね?馬鹿!」
 良かった。まだこんなことを言い合える仲間だったのかと、お互い安堵した瞬間だった。



◆◇◆◇◆



 少女は、ある方向に真っ直ぐ歩を進める。例の地点の近くにいることは分かっていたから。
 早く会いたい。先行しそうになる気持ち。けれどそれを抑え、ゆっくりと歩を進める。


55

【ミクス】

 辺りは酷い有様だった。ガーディの戦力はだいぶ減っているようだが、エクソシストに力を貸してくれていた一般隊にも被害は出ていた。赤服に折り重なるように倒れていた彼らに、二人は静かに黙祷を捧げた。

 二人で彼女を探さなくても、彼女の方から声を掛けてきた。
「ああ、やっと見つけた」
 声のする方を見ると、そこには、幾分か深く染まった赤い制服を着た少女。ふんわりとした金髪は一部だけが長いアシンメトリー。まだ幼さの残る顔立ち。そしてその輝く瞳はこの世界ではまだ珍しいとされる緑の目だった。アンリの方を見て優しく微笑んだ笑顔は、彼の記憶の中の幼い少女とよく似ていた。
「……ミクス……?」
 そう、ミクスだった。ミクスは、よろりよろりと瓦礫を踏み越えアンリの元にやってくる。
「ルクス、会いたかったよ……。ねえ、一緒に、絵本読んだりしたよね。覚えてる?」
 ミクスは青い絵が好きだった。「でも外は危ないから、ミクスはここで良いんだ」とそう言っていた。
「君はいつも泣いてたよ。ミクスが慰めてあげてたの。――いつも一緒にいたの、覚えてる?」
「……うん」
 白い世界で朗らかに笑うあの時のミクス。潤む眩しい視界の中で、彼女は太陽のようだった。
 目の前の彼女の背格好は、アンリより少し小さいようだった。昔はミクスの方が少し大きかったのに。
「あたし、ずっと探していたよ」
「ミクス……」
「会いたかったの。ずっと」
 握手を求めるように、ミクスが左手を出した。違和感を覚えつつもアンリが手を出そうとした、その瞬間の出来事であった。
「なんちゃって」
 鞘から抜いたレイピアが閃いた。
「!」
 一瞬の出来事に、アンリの体は貫かれる所だったが、アーサーが飛び込んでそれを阻止した。同時に、瓦礫の段差を利用して隠れていた、袋を被った赤服たちが現れた。アーサーは歯軋りをする。
「お前、油断しすぎなんだよ」
「は?何?誰?邪魔しないでくれる?」
 割り込んだアーサーは、斬りかかったミクスの刃を受け止め返そうとするもアンリに強く制止された。
「やめてくださいアーサーさん!」
「お前正気か?!殺されかけただろ?!」
「きっと何かの間違いです。覚えてるんですよねミクス?!」
 必死に叫ぶと、ミクスはケロリと笑い自分の頭を指す。
「勿論。あたしはミクス。嘘なんかついてないよ。ちゃんと記憶もある。……さっき聞いたよね?君はそれでも疑うの?」
「だったら、何故――」
「ルクス。お前をずっと探していたよ」
 ブレる二人称。ミクスの緑の瞳が怪しく光った。
「探していたよ、お前を殺すためにね!」
「な、!?」
「マスターはお前を探してた。あたしが捕まえてきたらきっと褒めてくれるよ!この際動いても動かなくてもどっちでもいいよね!」
 彼女は変わってしまっていた。殺意に満ちた全身が弾丸のように、その身を切り裂こうとぶつかってくる。動けないでいるアンリの間にアーサーは割り込み、ミクスの攻撃を妨害し続ける。
「ああっもう!邪魔!何なのお前さっきから!」
「やめてくださいアーサーさん!ミクスを傷付けないで!」
「ああ!?まだ言ってんのか!?」
 眉をひそめてアーサーはアンリを振り返った。
「丸腰のお前に斬りかかって来てるのに無視できるかよ!何なんだこいつは!最初お前の兄弟かと思ったのに!」
「ミクスは僕の姉です!」
「姉ぇ!?おい喧嘩やめろ!」
「ちょっと何?!部外者は口出ししないでくれる?お前モテなさそうだな!お節介がウザイんだよ!」
「はあ!?悪いなぁ!」
 怒涛の罵倒にアーサーは目を丸くするが、アンリは落ち着いて彼に語り掛ける。
「アーサーさん。僕は大丈夫ですから、お願いします。これは僕の問題です」
「……っ!じゃあ俺は、周りを片付ける!頼むぞ!」
 アーサーが飛び退くと、二つの剣がせめぎ合った。
「何故、ミクス……」
「何故だって?分からないなら分からないままで良いでしょっ!」
 ミクスが勢い良く突き放すと、アンリは体勢を崩す。追撃をしようとしたミクスの側にふらふらとやって来た丸腰の赤服の一人が、ミクスの腕を引っ張って止める。苛立った様子のミクスが「なに」と振り返ると、マスクを被った赤服は、袋状のそのマスクの上から彼女に耳打ちする。
「今の目標はルクスじゃなくて結界を守ること?うるさいなあ!そんなことどうでもいいよ!」
 癇癪を起こした子供のようなミクスは、仲間の赤服をあろう事か刺す。そして倒れた仲間の持っていたレイピアを拾い上げると、彼女は二刀流になった。猛攻がアンリに降り注ぐ。神経を擦り減らすような金属音が激しさを増していく。
「ほら、ほらほら!守ってるだけじゃ駄目だよ?そのうち死んじゃうよ?」
 刃をうまく滑らせ間合いを詰めたアンリは、ミクスの左手首を掴み右の剣を自分の剣で抑えた。ミクスの顔を真っ直ぐ覗き込み、静かに零した。
「……違う」
「へえ、何が?」
「あなたは、誰です……?」
「……っ、ふふっ……アハハハハハ!」
 堪えきれずミクスは、ひとしきり笑った。
「何言ってるの?あたしはミクス。正真正銘ミクスだよ。あたしが嘘をついていると思ってるわけ?」
 その言い方に違和感を覚えた。
「……まさか」
 アンリは手の力をそっと緩める。ミクスは両手を下ろした。
「やぁっと気付いた……?」
 首を傾げずっと言いたかったとばかりにニタリと笑い、アンリを見上げた。
「お前に、お前にも分かりやすいよう言い換えてあげる。――あたしはミクス。沢山いるミクスの一人。オリジナルに最も近いミクスだよ」
 彼女はミクスに違いなかった。
「あたしの正式名称はミクス。識別番号はM-06-29。前の愛称はリュナ!」
 ミクスであり、アンリの知るミクスではなかった。
「あたしはねぇ、ミクスになりたかった。いや、あたしはミクスだけど違う、一番のミクスにね!」
 アンリの背中を冷や汗が伝う。常識を覆される感覚。けれどアンリは知らなかったわけではない。当時はミクスの名が出ただけでいっぱいいっぱいで忘れていたが、妹を名乗るテンが、体はミクスのものだと言っていたことや、ミクスが複数人いる事実について話していた気がする。それに、月日が経過したからかもしれないが、ミクスの一人称は「あたし」ではなかった。この顔も、よく似ているだけだ。明確には思い出せないのだが、どこか違う気がしていた。
 目の前のミクスがあのミクスでないのなら、あの小さい頃一緒にいた少女は今どこに?けれどその疑問など見え透いているかのようにミクスは続けた。
「M-06なら死んだ。生きてるわけないじゃんあんなの!事故が起きた時、あんな平和ボケした被験体が生き残れるわけないでしょ」
「ミクス……嘘だ……」
 そうだ、確かあの時は攻撃特化の被験体が脱走して、所内は血の海だった。剣を持つ手が震える。
「死体、見たんですか」
「生まれる前のことなんて知らないけど。死んだに決まってる。だってあたしが一番のミクスになるんだし」
 かつてリュナという名を持っていたミクスは、一番のミクスという言葉に過度に執着していた。
 ミクスは更に近付き、アンリを睨みつける。
「ねえ、あたしは別人なんだよ。お前のミクスじゃない。お前のミクスはもういない。ほら、その黒い剣で、ほら、殺してみなよ、お前のミクスと同じ顔したあたしを」
 ミクスがアンリを煽るように、脚でティテラニヴァーチェの先をつつく。けれど、アンリは眉を寄せたまま、「できない」と返した。ミクスは目を見開いて喚いた。
「そんな、あたしのことを別の誰かに重ねて傷付けられないなんて、ほんっと自己中心的だと思わない?最低だよお前!――お前ムカつくんだ!あたしがどんなに頑張って、頑張って、たくさん殺しても、マスターはあたしを二度とは褒めてくれなかった。でもマスターはお前のことばかり考えてる。お前を手に入れることばかり!その首だけでいい、お前をマスターに差し出せば、きっとマスターはまたあたしを褒めてくれる!あたしを認めてくれる!あたしを愛してくれる!だからっ、お前を殺す!」
 ミクスの切っ先がアンリの頬をかすり、僅かな血と髪が舞う。その時アーサーの叫び声がした。
「おい何やってる!死ぬぞ!」
 既のところで攻撃を避け、再び剣を構えた。動揺と混乱の渦に攫われそうな彼は、アーサーの声で繋ぎ止められた。そう、アンリにとっての大事な問題は、確かに目の前のミクスはあの時会ったミクスとは別人だが、その違いが本当にあるのだろうかということだった。
「できない!あなたと戦うことは!でも死ぬ道も選べない!……あなたがあのミクスじゃなかったとしても、あなただってミクスだ!みんな僕の兄弟なのに、家族なのに、どうして殺し合いをしなくちゃならないの!」
 しかし和解を求める言葉は、今のミクスには逆効果だった。「家族」という言葉に、ミクスは強く反応して眉を顰めた。声のトーンが低くなる。
「はあ……?家族だあ?お前には一番縁のない言葉でしょ!お前は誰からも愛されなかったかわいそうな子供だよ!」
「そんなことない!僕は、僕は、愛されていた……!」
 銀色の瓶、ステラの記憶で見た。アンリは、ルクスは、確かに自分は彼女に愛されていたと感じていた筈なのに。彼女の真っ直ぐな感情はそれをいとも簡単に打ち砕いていく。
「はあ。ああ……知ってるよ、あの自分勝手な女でしょ?ミクスの過去は資料で見たよ。その中でもあたしは、あの女が一番嫌い!お前、本気であの女がお前を愛していたと思ってるの?」
 あなたのことを愛していると、ステラは抱き締めてくれた。けれどミクスの赤くなった目を見ていると、その確信が揺らぐ。
「馬鹿だよお前!本当に愛していたら、お前はあんな目に遭わなかったでしょ。あの女は、謝りながら、愛しているなどとほざいておきながら、お前を利用していたじゃない!あの女はお前を愛していたんじゃない。誰よりも自分のことが可愛くて、自分のことしか愛してない女!お前への気持ちは罪悪感と贖罪しかなかった、どこまでも自分勝手な女なんだ!愛しているのはお前だけだよ!」
「そん、な、……わけ!」
 気迫に押し負けアンリは吹き飛ばされる。動揺して力が入らない。
「それで戦ってるつもりなの?そんな攻撃当たらないよ!今のお前最悪だ。さっさと死んじゃえ!」
 彼女の剣がアンリの脇腹を掠める。言葉と共に無茶苦茶な突きが右から左から飛ぶ。喉が枯れそうな程、悲痛な叫びが空を切り裂く。
「あたしも、お前も、誰からも愛されてない。誰からも愛されない!……でもそんなの嫌!だれか、あたしを愛して!あたしを一番だと言ってよ!」
 彼女は泣きそうな顔をしていた。
「だからあたしはミクスなの!ミクスは愛されてた。そこにいるだけで愛されてた!……でも、あたしは、だめなんだ。どうしたらいい?みんな、殺せばいい……?そしたら、誰もいなくなって、誰とも比べられることもなくて、あたしは、一番になれる……?一番のミクスになれたらと思ったのに、本当は、誰の一番にもなれない……誰からも、愛されない――」
 弱々しい攻撃を、傷付くことも厭わず手で押し退け、アンリはミクスを抱き締めた。ガシャンと音を立てて、力の抜けた彼女の両手からレイピアが滑り落ちた。
「やだな、離して、離してよ!」
「……ミクス」
「ふっ……ふざけるな!何勘違いしてるんだ?あたしはお前のミクスじゃない、ただのクローン、沢山いるうちのただの一つなんだよ!なのに、優しくしないでよ!あたしをあいつに重ねないでよ!」
 暴れる子供を押さえつけて、アンリは首を振った。
「あなたは独りじゃない。……どうか、僕を兄だと、弟だと、認めて欲しい。クローンなんか、関係無い」
 はっと、ミクスの動きが止まる。
「……あなたは確かにあの時会ったミクスじゃない。でも、他人だってどうしても言いきれないんです。姉弟だって、思ってしまう。割り切れない……。あなただって、兄弟なのに」
 ミクスは真っ赤になって、ぽろぽろと涙を零しながら、少し広い背中を弱々しく叩いた。震える声が漏れる。
「馬鹿、馬鹿だよ……お前、最低……もう無理だよ……。何もかも遅い。お前と、あたし、自分が何してきたか、知ってるか?お前もあたしも、もう戻れないんだよ……」
 ミクスはアンリを突き放した。左の手の甲で涙を拭い、レイピアを拾った。
「終わりにする、何もかも。愛されたいの。一番に、なりたいの」
 立ち上がる隙も与えずミクスは刃を振り下ろそうとする。けれど、彼女はピタリと動きを止めた。
「……あ」
「?」
 真っ青な顔になったミクスは、見えない誰かと話しているようだった。
「どうしてマスター、あたし、マスターの為に……っ!――う……マスター、ごめん、なさい……」
 頭を抱えてぶつぶつと呟いたあと、突然剣を逆手に持ち替え自分の腹部に深々と刺した。口から血を吐きながら膝から崩れ落ちる彼女を、アンリは慌てて支えた。
「何を……!」
 ミクスは弱々しく笑う。
「マスターに、怒られて、捨てられちゃった……やっぱあたし、駄目なんだ……」
「誰ですか、マスターって……あなたのことそんな簡単に切り捨てる人のことが、そんなに大事だったんですか……」
 ミクスはふっと笑った。
「大事な人……?大事な人、なのかも。最初にいっぱい殺した時、褒めてくれて、嬉しかった。マスターしか、あたしのこと愛して、くれないと思ってる。……でもマスターより、お前の方があたしの話、聞いてくれるね」
 ミクスは止血など要らないと言った。諦めなどでは無い。とっくの昔から、自分の死期を分かっていたような、落ち着いた表情をしていた。
「変だな、あたし、あのミクスじゃないのに……。お前の顔を見ると、変な気持ちになるよ。心臓が、苦しい。ミクスのこと、羨ましい……」
 ミクスとして、リュナとして、彼女は複雑な心境だった。彼女は一番のミクスになりたくて、M-06シリーズとして一緒にされたくなかった。
 彼女にとって一番とは難題だった。過去の記録を見てミクスを真似ても、他のミクスを丸め込んで自分だけがミクスのふりをしても、本当の意味でM-06に成り代わることはできない。同時に一番のミクスになることは、姉妹という大事な概念を手放すことでもあった。彼女は何か、大切なものを欲しがっただけだったのに。
「ルクス。離して。あたし、空を見ていたい」
 ミクスは微笑んで手を振った。アンリは嫌だと言いかけていたが、それを見て、そっとその場を離れた。



 アンリが顔を上げるとアーサーが立っていた。彼は暫くは袋頭の赤服と戦っていたのだが、突然戦意を失った彼らを見て戦うのをやめ、遠くから様子を伺っていた。彼なりの配慮だった。
 彼の隣まで戻ってきたアンリは、顔も見ず静かに零した。
「……アーサーさんは、母親に本当に愛してもらったんですよね」
 アーサーは溜息をつく。
「難しいこと言うな。俺は顔も覚えてないはずなんだが。……でも確かに、あの人は俺のことを大切に思ってくれてたような気がするよ。……今もな」
「今も?」
 アーサーの顔を見ると、彼は遠い目をしていた。
「時々、夢に出たり、危ない時存在を感じたりするんだ。……案外どこかで見てるのかもな」

 エメラリーンが、いや、ステラが微笑んだ気がした。


 しかし振り返った先にいた者は、違う人物だった。



◆◇◆◇◆

【誰かの一番】


 アンネゲルト・ミカミ。彼女はサクヤ・ロヴェルソンとの交戦の後、敵を避けつつ、重い体を引き摺るようにミクスを探し歩いていた。その際、とある事実に気付いてしまったのだが、彼女にとってそれはミクスにより早く見つけたいという想いを強めただけだった。
 誰かと話しているミクスの声が聞こえ、ミカミが彼女の側まで来れた時は彼女は仰向けで横になっていた。ミカミがそっと近寄り顔を覗き込むと、ミクスは瞬きをして仄かに微笑んだ。
「ああ……ミカミ……。もしかして聞いてた……?ごめんねえ嘘ついてて」
 全ては聞いてないが、何となく予想がついてしまった。
「もう、話さないで」
 ミカミの声は掠れていた。ミクスにその理由は分からない。
「あたし本当は、存在意義なんて無い、使い捨てられる存在。……だから一番になりたかった、マスターに褒めてもらえるよう頑張りたかった。ルクスを倒せば、あたし、褒めてもらえると思った。でも、本当は、誰かの……一番になりたかった」
「馬鹿ね、本当に馬鹿なのねあなたは……。私にとってミクスはあなただけ。別のミクスがいようとも、あなたはあなたよ」
「ミカミ、変なの」
「いいじゃない、こういう時くらい」
 ミカミの涙は出ない。彼女は、良かったと思った。けれどその表情を見て、流石のミクスも何も思わない訳ではなかった。
「はあ……なあんだ。あたし、既に一番だったんだね」
「そうよ」
 ミカミが堪らずミクスを抱き寄せると、耳元でふふと笑う声がした。
「あなたの側を、離れるんじゃなかった」
 消え入りそうな声で、ミクスが呟いた。
「変に、落ち着くね……。なんだか……ねむいや……」
「おやすみ。ミクス。
――次あなたが起きてくる前に私がご飯作ってあげる。あなたが興味が無いと言っても、紅茶をいれてあげる。そのあとは、髪の毛を綺麗に切り揃えてあげる。あなたはショートもよく似合うわ。……制服しか持ってないんだろうけど、私はあなたに似合う服が分かるの。だから次は、一緒に街に行きましょう。もっともっと、楽しいことが、いっぱい……あるのよ……」
 だらりと垂れ下がった腕。力の抜けた硬い体を、左腕で横たえさせる。
「……馬鹿ね。私も」
 側に倒れている袋頭の赤服を見遣る。ミカミは彼女の顔を見たことが無いが、どんな顔をしているか知っている。
「この子の我儘にずっと付き合ってたのね、あなた達。あなたも、この子も、我儘で優しいのが、よく分かったわ」
 その実ミカミも眠気に襲われていた。先の戦闘で疲弊し、右腕は使い物にならなくなっている。けれどどうしてもミクスを連れてここから離れたかった。
 ふと感じた眩しさに、ミカミは顔を上げる。
「ああ……オウミ」
 そこには白い魔女帽に白いローブを着た男が立っていた。魔女帽には暖簾のような布が垂れ下がっており、その隙間から見えるのは、前髪の長い黒髪と、視線の伺えない男の顔だった。彼はオウミという名を語っているが、またの名をサズ・ホリーという。
「柱を、一つ無駄にした」
「……は?」
 暫くの間。彼が何を言っているのか理解したミカミは憤慨した。
「あの子は……!あなたの為に――」
「好きにさせてはいたが、俺があの時止めなければ危なかった。あいつが死んでなければそれでいい。どうとでもなる」
 そう言いミカミの前をすり抜け、死体を踏みつけて武器使いの方に歩いて行った。ミカミはその白い後ろ姿をぼんやり見届けると、重い瞼を閉じた。

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