10話「気まぐれ」





「卵よ」
 アルモニカが真っ直ぐに見つめたまま呟くようにそう言った。
「私が片付ける」
「はあ?何言って――」
 彼女をよく見ればその表情は至極真面目で、真っ直ぐ卵を見つめ続けるそれは最早狂気さえ感じる。
「でもなアル。きっと下手に刺激していいもんじゃない。これは隊長達に報告してからの方が……」
「これが孵化したらきっとすごい量の悪魔が出る。今だって、直ぐに孵りそう。だから今私が壊さなくちゃいけないの」
 話があまり通じていないとアーサーは感じた。
「悪魔は全て殺されなくちゃいけないの。卵だとしても、怪物の様な姿をしていても、例え人の形を成していても」
 ぐっと手に力を込める。あまり明るくないので定かではないが、表情は穏やかではない。
 アルモニカとは、そんなに長い付き合いではない。初めて会ったのは、彼女が教団にやってきた時である。まだ一年も経っていない。しかし、今まで何となく感じていた彼女の相当な悪魔嫌いであることを、この時アーサーは確信した。エクソシストに適任だとも取れるが、アーサーは複雑だった。とある事情があるからだ。
「でもまあ」
 彼女の声のトーンが変わる。
「あんたは例外よ」
 あんたは例外よ。その言葉の意味を、アーサーは瞬時に理解できなかった。唖然としているアーサーに背を向け、彼女は武器に語りかける。
「壊すわよ。雅京!」
 ほわりと雅京の青い光が強くなる。
{アルモニカお嬢。あれは硬いぞ}
{今のあなたには無理ではなくって?}
 頭に響く二人の女性の声。これはアルモニカだけに聴こえる武器雅京の声だ。
(そんなことないもの雅。いいから攻撃よ!)
{はいはい。知りませんよ}
 諦めたような右足、雅の声。崖から飛び降り卵の上空で、彼女は叫ぶ。
「雅京!鈴絶歌(リンゼッカ)!」
 キーンと高い音がし空気を震わせる。振り下ろされた雅が卵の表面に触れるとバチリと音を立て、衝撃波が起こった。鈴絶歌は武器の起こす微振動で触れた物体を脆くして壊す技だ。
 地面に着地したアルモニカは卵を見上げる。しかし何の変化もなかった。ここからは見えないが、実際、攻撃した表面に傷を少し作っただけだった。
{ほうら。だめだったじゃない}
{年上の言うことはしっかりと聞いておくべきだぞ}
(う、うるさいわね……じゃあ何が効くの)
{そうね。少なくとも氷じゃないわ}
 アルモニカが、自分が降りてきた崖を見上げる。アーサーはそこに立ったままだった。

アルモニカを見下ろしながら、アーサーはぼそりと呟く。
「そうか、俺は例外か」
 背中のコールブラントを引き抜きぶんと振る。
「分かってたんだな」

「俺に悪魔の血が入ってること」

 こんな突拍子もないこと、好んで自分からすることもなければ、アルモニカには一度も話していない。しかし彼女は分かっていたのだ。もしかしたらアーサーが気付かなかっただけで、今までそれを示唆するようなことも言っていたかもしれない。
 心做しか口元に笑みを浮かべ、彼女の後を追いかけるように、彼もまた崖から飛び降りる。
「凍らせろ、コールブ――」
「馬鹿!こんな湿度の高い空間であんたが武器を使ったら、暴走して氷の串刺しになっちゃうわよ!」
「あっ」
 慌てて発動を止める。落ちてきたアーサーを、地を蹴り飛んでアルモニカが受け止める。空中をある程度自由に動けるのは、エクソシストの中でも規格外のレイを除いて彼女だけなのだ。そうしてアーサーを地面に下ろす。
「ありがとな」
「しっかりしてよ」
「そうだな。ついいつもの癖で。……そしたら俺役立たずじゃねえか」
「そうよ。私が壊すのをただただ見てたらいいわ」
 アルモニカそう言って、アーサーに狂気的な笑みを向ける。そうして卵に向き直ると、脚をバネのように使って高く飛び上がった。一回転しその遠心力を利用して強く蹴り付ける。雅京特有の動きの、空中での加速を使い何度も攻撃を仕掛ける。ガキンと大きな音がしてパラパラと僅かな破片が降ってきた。それを見上げながらアーサーが呟く。
「雅京は力任せに使う武器じゃねえぞ……」
 かつて同じ武器を使っていた人物を思い出す。雅京は本来舞う為の武器なのだ。前使用者はそのことを分かっていた。武器の声が聞こえるアルモニカも勿論知らないはずは無いと思うのだが。
「なんだ」
 不意に、アーサーは背後に気配を感じ取る。刃先を闇に向け、構える。目を凝らすとほわりと金の光が見えた。悪魔だ。最初は小さい物に見えた。しかしよく見ると光は一つではなく横並びにいくつもあり、しかも少しずつ大きくなってくる。ぞわぞわと足元から音が響く。光に照らされ、ただの金は先程見た足の多い謎の悪魔としてアーサーの前に姿を現した。
「おい、まじかよ……」
 大きく後ろに振りかぶり、勢い良く迫ってくる悪魔にコールブラントを命中させようとする。しかしその悪魔は見た目より固く、ぎりぎりと競り合い、刃で足や牙から身を守ろうと必死で抑えることしかできなかった。
「やべえなっ……!」
「アーサー!」
 アルモニカが上から降ってきて、悪魔に蹴りを入れる。地面が響き、砂埃が立つ。相変わらず派手な攻撃だ。怯んだその隙にアーサーはバックステップで距離を取る。
 冷や汗を拭ってよく悪魔を見る。まるで足が短くて沢山ある変わった蜘蛛のようだ。
「さっき会った奴ね。アンリを何処にやったの」
 キュルキュルキュル――
「出しなさいよ!」
 声を荒げると、アルモニカは蜘蛛のような悪魔に向かって迫る。鈴絶歌と叫び蹴りを入れると、当たった所がぐちゃりと裂ける。
「食らっとけ!」
 アルモニカの背後から飛び出したアーサーが、振りかぶった大剣を、その脆くなった部分に振りかざす。空気を切り裂くような声が上がり、動きが止まった。二人が顔を見合わせた時、予想外な事態が起こった。前に付いた口と思しき部分が裂け、中から腕が飛び出してきたのだ。黒地に金のライン。教団の制服だ。アルモニカが小さな悲鳴を漏らす。手を差し出すと掴んできたので、アーサーはそのまま力任せにその腕を引っ張る。そうすると、何かぬるぬるとした液体に塗れた人が、ずるりと2人出てきた。その一人はアンリだった。口から出てきたというのに彼はきょとんとした様子だ。
「あれ、アーサーさんにアルさん?こんなとこで何してるんです」
「それはこっちの台詞だ。まさか腹から出てくるなんてな」
「アンリ。無事で良かった……」
 アルモニカが駆け寄る。心なしか目が潤んでいる。
 アンリと共に出てきた、奇抜な格好をした女性が濡れた前髪をかき上げる。
「一口でいかれたのはキツかったよねえ。でもこの子は何でも丸呑みして巣まで運んでっちゃうみたいでさ。……ほら」
 彼女の腰に引っかかった紐、ワイヤーらしきものを引くと、がらがらと色々な物がなだれ出てきた。
 質問したいことが山程あるのに、何から言及したらいいのか分からない。アルモニカは、そのようなもどかしいと言ったような表情をしていたが、一人、悪魔がぴくりとわずかに動いたのに気が付いた。
「こいつまだ……!」
 一番近くにいたアンリが躊躇するとなく剣を振り翳す。しかし、今まで止まっていたのが嘘のように、蜘蛛は向きを変え闇の中に逃げようとした為に、足を一本切り落とすに終わった。そして、直ぐに洞窟の奥へと姿を消してしまった。
 それを見た奇抜な女性、グロリアは、くるりと向きを変えて卵を正面に捉える。背中の大きな鎌を引き抜き、へらりとした調子のまま構える。
「ザバルディ。ヴィーリザット」
 横に薙いだ鎌はその瞬間に巨大化し、卵を見事に二つに切るというより叩き割る。同時に、卵の中身である液状の物が堰を切って流れ出す。鎌を戻したグロリアは、慌てることなく口の箸を持ち上げ人差し指を唇に当てる。
「ザッディーチ・カグラ」
 周りにいた人々は目を疑った。水の流れが止まったのである。グロリアは言葉を失ったアーサーの方に振り返る。
「確かエルフォードと言ったね。これを凍らせといてくれる?」
「なん、で……名前を」
「めんどくさいから後でもいいかなあ。それからね、君はまだ上手く使いこなせないみたいだから、特別に湿度の調整をしてあげる」
 アンリもほぼ同じようなものだが、彼以外グロリアのことを一切知らない。けれど彼女にはカリスマ性と言おうか、有無を言わせぬ何かがあった。
 すっと両手を前に出す。直ぐに、ハイ終わりと手を下ろす。特に視覚的に変わったところは見られない。急かす様に自分の顔を見たのに気付いて、アーサーは慌ててコールブラントを発動させる。いつもなら彼の足元から順に凍って氷柱が立ち、辺り一面凍結させてしまうのに、今日は違った。周囲の温度は一段と下がり、僅かに周りは凍ったものの、力は暴走することなく卵だけが一瞬にして白く凍り付いた。
「思ったより力が大きいねえ……」
 グロリアはどうやら純粋に卵だけを凍らせる予定だったようだ。
「……すげえ」
 アーサーはこれまでこんなに綺麗に凍らせたことがなく、感動していた。その様子を見たグロリアはアーサーに笑いかける。
「湿度の調整だよ。分かるかい、その武器は元々水を出す武器、つまり湿度を操る武器な筈なんだ。君がどうして温度の調節ができるのか分からないけど、こういうことを意識したらきっと上手く使えるようになるよ」
 どうして温度の調節ができるのか。その言葉にひやりと腹の底を冷やされた感覚になる。彼女のアドバイスは今までに無く的確であったが、それよりこちらの方が気になってしまう。その時、彼を救うように上から声が降ってきた。
「ああー!」
 声の主ははぐれていた本隊隊長チュコ・アルバリヒだった。先程アルモニカ達が飛び降りた崖から見下ろしている。背後には他の隊員の姿がある。
「こんなとこにいたんですか」
 この直後のチュコの言葉に、3人は驚くこととなる。
「レディ隊長」
「!――そうだったのか」
 少しの間の後、全てを理解したという様子でアーサーが呟く。ケロリとして「あれえ言ってなかったかなー」なんて言うレディに対して残りの二人はあまり理解できないでいた。アンリなど、切り落とした蜘蛛の足を掴んだまま突っ立っている。
「知らないのか」
 アーサーが「まあ俺も会ったの初めてだし無理もないか」と言いつつ話す。
「第一テトラールキにして一番隊隊長グロリア・レディ。俺らの事を知ってたのも身内だからだ」

 チュコを抱えたレイが、ふわりと降り立つ。
「お疲れ様なのですグロリア」
「あらーレイちゃん久しぶりだね。後の報告とかはワタシがしておくから、レイちゃんはあそこから皆を外に出してね」
 彼女が指差したのは、光が漏れ出ていた天井の穴である。

 チュコがレディのもとを去る時、彼女はレディに振り返る。
「隊長。リダちゃんが困ってるから早く帰ってあげてね」

             ◆◇◆◇◆

【ある男の手記】

 その美しい光景はしっかりとこの目に焼き付いた。
 悪魔がもたらした脅威を祓ったエクソシストによる、言ってしまえば悪魔とエクソシストによる一種の芸術作品であろう。何とも皮肉めいたものだ。
 何処かの気分屋……例の貴婦人がいなければどうなっていたかも分からないが、もしかすると彼女も全て、よく分かっていたのかもしれない。卵の割れるタイミングでさえ。
 何か気になることと言えば、アンリが言っていた悪魔の足のことだ。切り落としても灰にならずに残ったらしい。変わった悪魔だ。もしかすると、我々が把握しているよりも悪魔には種類があるかもしれない。持ち帰った脚はクルスドクターにでも見せよう。興味深げにしていたからな。
 帰ってきた部下達は、些か疲れた表情をしていたが無理もない。アーサーに至っては少々暗く、奴のことを警戒しているようだ。きっと何か言われたのだろう。しかしじきに本部へと帰る。ヴァルニアまで距離はあるが、ホームに戻れば少しは元気になるだろう。
 ヴァルニア。今頃本部では団員達が新隊員達に歓迎会でも開いているのだろう。それにしてもこんなあからさまなことをするとは。あの人は何を考えているのやら。

             ◆◇◆◇◆

【ヴァルニアへの列車】

「結局練習の成果は発揮できなかったわねアーサー」
 列車の中、同室の向かいに座ったアルモニカが話題を振る。実際彼は演習の前に副隊長と共に武器の特訓へと出かけていたのだ。しかし洞窟の中では使えるはずも無かったが。
「一つ分かったことがある。俺は寒いとだめだな」
「あらどうして?」
「空気が乾燥してたら氷は出せねえ。しかも元から凍ってれば氷なんて出してもあんまり効果でねえだろ」
 それにな、とアーサーは続ける。
「寒すぎるんだわ。お前らよく平気だな」
「少し寒いけど窓を開けなければそこまでじゃないわ。ストーブ向こうで焚いてるしね。……あんたそんなに寒いの?」
「ああ」
「だからって手近な人間なら誰でも抱き着こうとするのどうかと思いますけど」
 アーサーは、言った通り隣のアンリにびったりくっついていた。
「アルには嫌がられたしな。仕方ねえ」
「当たり前じゃない」
 ぴしゃりと言い放つアルモニカ。アンリはもぞもぞと動き、立ち上がって出ようとする。
「そんなに寒いなら毛布貰ってきますよ。夜こそ寒さに耐えられなさそうですしね」
「お、お前そんなに嫌だったのか……」
 隣がぽっかり空いたのが物悲しいのか、アーサーは両手を広げたままアルモニカを見る。
「ア――」
「なっ……あっ副隊長のとこ行ったら?あの人ならあったかそう」
「それだ。ちょっと火種だけでも貰ってくるわ」
 ナイスアイディアとでも言うように、聞いてすぐにアーサーは部屋を出ていく。残ったアルモニカは頬杖を突き、呆れたように溜め息を漏らす。
「全く……」
 レイも同室だったが、今頃レイクレビン隊長とチェスでもしてるんだろう。みんなそれぞれの理由でいなくなって、一人になってしまったと、少し淋しいのは気の所為だろうか。いや、違う。そう言えばアンリは……
 突然がらりと戸が開く。現れたのは先程毛布を取りに出たアンリで、アルモニカしかいない状況にぽかんとしている。あの時は二人共アンリのことを失念していた。
「アーサーさんいないんですか」
「あ……ごめん。忘れてサクヤ副隊長のこと行っちゃったし私も行かせちゃった」
「ええっ折角コーヒーも貰って来たのにアーサーさんは……」
 仕方ないですね。そう言いつつアルモニカの向かいに座ったアンリはにこりと笑って右手のカップを差し出す。
「どうぞ。僕あまりコーヒーは飲めないんです」
 ありがとう。素直にそう受け取ったコーヒーの温度は飲めない程熱くはなかった。
「毛布もどうぞ。そこまでじゃないって少し寒いって意味ですよね」
「あっありがと……いやっでもアンリが使いなよ。風邪引くよ」
「そのまま返します。アルさんが――」
「あーもう。じゃあこうするの」
 アンリの隣に座り、くっついて一枚の毛布を二人で被る。一人用なので少し小さく横が寒い気もする。
「もう一枚持ってきましょうか」
「いい。何か……あったかいから」
 そうですか。それだけ返したアンリ。自分からやっといて今更気付いたのだが、これは恥ずかしい。

「今回の遠征。結局の所何だったんだろうね」
「それはどういう……」
「実は教団の新入隊式があったの。こんな時期にと思うかもしれないけどね。……そんな時にわざわざ本部の実力者を飛ばす必要があるのかしら。皇帝が死んだのも少し前の話なのに」
 アルモニカはそこまで言って、あっと声を上げる。
「こんなこと気にしてても仕方ないね。――あー、着いたら新しい人達が本部にどれくらい来てるかな。歳が近い人も多いといいな。楽しみ」
 本当はそれ程思ってはないけれど、彼女はそう笑った。

             ◆◇◆◇◆

【数日後 ヴァルニア本部】

 少女は酷い悲しみの中にいた。

 少女と言っていいのだろうか、まだ幼く歳もぎりぎり両手で足りる程に見える。そんな少女が暗い眼をして項垂れている。
 病人の白い検査衣のような服を着て、椅子に座っている。その前にはしゃがんだ眼鏡の若い女が困った顔をしている。
「ねえ。お願い。少しでも食べて」
 少女は首を振る。匙を持ったまま、女はもう泣きそうだ。
 女の名前はシャルロット・ラグランジェ。一週間ほど前に教団文官になったばかりだ。仕事の覚えが悪いからか、上司に別の部署がする仕事を任された。簡単に言うとこの目の前の女の子の世話である。
 彼女はこの子がどうして教団にいて、閉じ込められているのか知らなかった。他の人に聞こうにも、ここの人達は怖い印象だった上聞く勇気が無かった。本人に聞こうにもずっとこの調子で、声すら聞いたことがない。しかし彼女はこの少女が可哀想で仕方なかった。
「ああ、そうだ」
 シャルロットは少女の手を取る。
「少し外に出よう。外って言っても建物の中だけど、こんな真っ白な部屋にいるよりはきっと良いよ」


 少女の手を引いてシャルロットは本部内を歩く。体力の落ちているであろう彼女にもあまり負担が掛からないようにゆっくりと。
 周りにジロジロ見られているのは気のせいではないと思うのだが、敢えて気にしないようにした。この少女からは逃げる意志が感じられないし出すなとも言われてないし良いじゃない。これがシャルロットの言い分であった。
「そうそう。もう帰ってきてるらしいんだけど、今日は遠征に行ってたエクソシストが帰って来るらしいんだ。入団式にいなかったしこんな時に遠征に行っちゃうなんて変わってるよね。――エクソシストって見たことある?私、あんまり無いんだ。それなのに給料がいいからって教団に入っちゃって……」

 第一棟一階。エントランスには一般隊員もいた。しかし思ったより人が多く、どれが誰なのか分かったものではない。少し離れたところでぴょこぴょこ背伸びをして窺っていると、後ろから肩に手を置かれる。
「おい」
「ひあっ?!」
 それはこの仕事を元々担当していた部署の人間だった。名前は確か……忘れた。
 怒気を発する先輩に、完全に怯えるシャルロット。
「何でそいつを連れ出してる。新人」
「へっ。え、えっと……えっあっこの子からは逃げる意思が感じられませんし、出しちゃダメなんて一言も言われてないからです」
「いや言っただろ。とにかく戻すぞ」
「そ……そんな」
 その時、ずっと棒立ちで一言も話さなかった少女から声が聞こえた気がした。シャルロットははっとして彼女を見る。
「お兄さん……!」
 小さいけれど、とても可愛い声だった。緩く結んでいたシャルロットの手を振りほどき、少女は駆けていく。今までの緩慢な動きとは大きく異なる彼女の動き、そして行動に驚きシャルロットは瞬時に止めに入ることができなかった。
「お兄さん!」
「おい誰かあいつを捕まえろ!」
 少女は人の集まっている出入り口の方向へ走っていく。少女が逃げようとしていると思い追いかけようとする先輩の前に思わず止めに入るシャルロット。彼女の出した足に引っかかり顔から地面に突っ込んだ先輩は、顔だけをどうにか起こしてシャルロットを睨み付ける。
「お前……どういうことだ」
「えっ……その……」
 まごつき、誤魔化すように目を逸らす。丁度視界に入った少女は、足がもつれて転びそうになっていた。あっと助けに行こうとした時、隊員達の中から少年が飛び出し彼女をぎりぎりの所で支えた。
「うっううっ……怖かった。お兄さん……!」
 少女は泣きながら少年に抱きつく。少年は静かに彼女を抱きしめていた。
 よくは把握できていないのだが、何となく、良かったなあとシャルロットの中では完結しそうになっていたのだが、先輩はそれを許さなかった。鼻血を出しながら、ゆらりと立ち上がりシャルロットに迫る。全く完結していない。
「もし逃げてたらどうしてた。それに出してはいけなかった。上にどう説明するつもりだった?」
「え、と、」
 シャルロットは真っ赤になって目を逸らす。眼鏡の奥は今にも涙で潤みそうだ。
「お前の首なんてすぐ――はっ?!」
「??」
 突然彼は背を伸ばし、顔を固くしてシャルロットから離れる。視線は彼女の右斜め後ろと言ったところか。恐る恐る振り向くと、そこには黒眼黒髪の品の良さそうな男性がいた。口の端を緩やかに結んではいるものの、その表情はよく掴めない。けれど泣きそうだったシャルロットには、彼が救世主のように見えた。
 彼は先輩に近付き、手に持った手帳に万年筆で何かを書いて彼に見せる。――彼の背を見た時に気付いたのだが、長い、銃剣というのだろうか、そのような物を背負っていたのがシャルロットには気になった。銃剣の男性の手帳を見た先輩はこくこくと半ば怯えたように頷く。彼が去った後、先輩は人が変わったように話した。
「もういいんだ。あれはあっちに任せよう。さっきは悪かったな」
「へっあっ、いえいえ……?」
 先輩の変化に戸惑いつつも、女の子のことが気になってシャルロットは後ろを窺う。見ると、彼女はさっきの少年だけでなく、他の若い子達にも囲まれて何やら話している。きっとあれなら大丈夫そうだ。
「先輩。さっきの人はどなたですか」
「何だ、お前そんなことも知らないのか。ベルガモット隊長だ」
「ベルガモット隊長……」
 名前を覚えた。後でお礼言わなくちゃ。そう思った。

             ◆◇◆◇◆

【???】

 ぴちょん、ぴちょんと水の滴る音がする。
 暗いが、何処からか光が零れ落ちていて床が所々やんわりと光っている。ステンドグラスにパイプオルガン。さっぱりとしてはいるが、ここは教会のようだ。
 そこに悪魔の特徴を持つ二人が、ある一角にいる。一人は法衣の様な服を着た中性的な見た目。もう一人は黒い簡素なドレスに目玉の付いた特徴的なリボンを頭に付けている。
「ルニ。これの時間を止めて欲しいんですの」
「良いけど……」
 ルニと言われた方の悪魔は、向かいの悪魔をまじまじと見る。
「な、何ですの」
「いやあ。リィンリィンが他にものを頼むって珍しいなあって思って」
「リィンリィンだって、自分じゃできないことは頼みますわ」
「ふーん?」
「リィンリィンはあなたみたいに魔法のような物は使えないんですの。頼むしかないですわ」
「あーまあそういう事だねえ。いいよ、お友達の頼みなら何なりと」
 ルニは手に持った杖のような物を振る。リィンリィンの手の中の花が、微かに光った気がした。彼女は小さくありがとうと言い、大事そうに仕舞い込んだ。
「綺麗な色の花だねえ。リィンリィン花とか好きだっけ」
「……そんな所ですわね」
 曖昧な返事だけして彼女は地下への階段を降りる。地下に縦横無尽に繋がった迷路のような通路はリィンリィンも全ては知らない。好奇心よりも迷うかもしれないという恐怖を煽り立てる闇。覗く事さえ踏み止まらせる黒だけに、彼女は知っている道しか通らない。
 少し歩き、通路を抜けた所に少し広い空間がある。そこから大きな独り言を言う聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。
「誰がこんなことしたのかなエヴィルナーラタ。あー可哀想に」
「何してるんですのお姉さま」
「あ、リィンリィン」
 大きな蜘蛛のような黒い何かの上に乗り、愛しそうに撫でるグラマラスな女性。こちらも人型の悪魔のようだ。蜘蛛の方はよく見ると脚が一本折れており、だらだらと緑色の液体を流し、蒸気機関か何かのように荒々しい息を吐き出している。それだけでなく、所々に傷を負っている。
 特に会いたくもない相手であったので、リィンリィンは冷めた調子で淡白に返していく。
「聞けよリィンリィン。俺のエヴィルナーラタが誰かにやられたみたいなんだ」
「可哀想ですわね」
「だろー?大事なペットだし、報復しないと気が済まないんだわ」
「誰がしたかはご存知ですの?」
「いんや知らねえ。でも腹立つからこの前見たあの村皆殺しにして来ようと思うんだけど」
 さらりと物騒なことを言う女性。リィンリィンは特に動ずる事無く、いつものように平坦な調子で返す。
「バイオレンスは嫌いですわ」
「俺は好きだけどな」
「馬鹿そう」
「は?何か言ったか?」
「いえ。お姉さまなら犯人くらいすぐ見つけられますわ」
「だよなー。ちょっともう一回エヴィルナーラタと近辺見てくるわ。何か分かるかも知んねえ」
 ぼそりと口から溢れた言葉は彼女の耳には届いておらず、さっさと行ってしまう。脳筋で良かったとリィンリィンは姉に対して些か失礼な感想を抱いた。
 姉が消えた通路はリィンリィンの知らない通路だった。
「あんなこと出来るのなんて、エクソシスト以外いないでしょうに……」

 自分のプライベートルームに入ると、先程原子固定してもらった花を取り出して眺める。自分でもどうしてこんなことをしたのか分からなかった。
「気まぐれ……ですわね」
 この種類花は墓参りの際いつも使う花だ。特に奇異だとも思わない。けれどこれだけは何故か違って見えた。初めて見た、触れることができる人間に貰った花だからだ。……少々事実とは違っているが。
 彼女は花をそっと抱き締めた。

「そう。ほんの気まぐれ」







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