【東方支部 宿舎】
夜になると、比較的不安になる。
真っ暗で、まるで目を閉じているみたいに。まるで、独りぼっちであるかのように。この世界がこの世界たらしめる拠り所を失って、自己の内面だけが如実に自らの前に現れる。
すぐ近くにエメラリーンが立っているような気がした。しかし勿論彼女はいない。要するに、夢と現実の境目が曖昧になっているだけなのだと、アンリは頭を振った。
部屋で一人横になっていても余計なことを考えてしまうだけだと、そう思って外に出た。
宿舎の扉から出て廊下を右手に行けば、上り下りできる階段がある。一階降り、その踊り場の手すりに寄りかかり、僅かに冷えた風で頭を冷やす。
辺りはしんと静まり返っている。若干白み始めている空を見る限り、夜中と言うより明け方に近いのかもしれない。しかしそんな中でも見張り塔からは光が漏れている。
ここ暫くは、この前に見た夢のことを考えてしまう。自分の過去と、ミクスと、彼女の言葉。ただの夢なのだろうか。否か……
全てが分かったわけではないが、自分が能力的に普通とは違うことは分かっていた。一番の疑問は、何故悪魔に触れられても平気なのかということ。……あらぬ考えが頭を巡り、ぶんぶんと頭を振った。
ふと、彼の恩師の声が聞こえた。悪魔は何があっても悪。人間の唯一の敵となる、倒さねばならぬ悪だと。それだけ分かっていればいいと言った先生の言葉を、反芻する。ほとんど全ての行動において指針にしてきた彼だったが、思わずそれが揺らぐほどに、疑いを持ち始めた。先生のこの発言の真意は?――思えばそれ故に彼は悪魔を切り捨ててきた。アルモニカのような個人的な恨みも、教団員としてのその責任感からでもない。それが、間違っていることだとしたら。もし自分が、……しかしそれも、途中で考えることをやめる。
「やめよう、考えるの」
わざわざ口に出して思考を遮った。
そういえば、明日もチトセさんに剣技を教えてもらうんだった。そう思い出すアンリ。今度は魔魂武器を使ってやるんだとか。あの人はただの模擬刀を振り回していても恐ろしいのに、使い慣れた得物ではどうだろう。そう思うと急に眠くなって、そろそろと自室に這い戻った。
◆◇◆◇◆
【ユリーカ】
あれから暫く経ったある日、四番隊は二手に別れ、最後の仕上げに取り掛かっていた。
残す杭はあと三本。一般隊で一本、四番隊で二本同時に崩すのである。砦を一つ残してそこで猛抗に遭っては堪らないからだ。四番隊は隊長と副隊長をそれぞれ中心にして組むことになった。そのメンバーは……
「うわ、またあんたらか」
近頃よく見る三人がいた。
「よろしくお願いします」
「酷いよユハー。あと、たいちょーが組んだんだから俺に文句言わないでよね」
チトセ、アンリ、ユハ。グレイヤーに言わせれば、他に組むよりバランスが丁度良いらしい。
戦闘時、急な事態には護身用程度にしかほぼ効果を発揮しない武器のユハは後方支援となるが、アンリと彼に剣術を教えてきたチトセとの二人で敵に遭遇した時は対処する。グレイヤーの言葉に、チトセの異論は無かった。
地図を見ながら進路を進めていく。
途中、ふと、アンリは背後に何か気配を感じて振り返る。しかし、取り立てて何も見つけられなかった。
「どうしたの」
先を歩いていたチトセが、後ろを見ていたアンリの側まで引き返してきた。
「何か、いますか」
アンリの視線を追いながら、チトセが背後を注視し、徐々に視線を上げていく。木が暗く生い茂っている。ざわざわと風に音を立てたが、アンリには特に確認出来なかった。チトセはくるりとまた正面を向くと、「まあ邪魔してきた時で良いでしょ」と言った。アンリはチトセの顔をまじまじと見た。
「そうなんですか?」
「あ?……あー、俺は余計な仕事はしない主義なの。時間外労働とか。今のだって、相手は邪魔にならないし、無駄に働くことないよ」
そう言いチトセは懐から大きなロリポップを取り出し口に入れる。先を歩いていたユハが振り返る。
「時間外とか言うて、今は違うで副隊長。隊長がおらんからってそんなもんばっかり食べて――」
「ふぁーいふぇふぁんふふふぁー」
「な、なんやとーーー!」
何故聞き取れたのか。真っ赤になったユハがチトセに突撃する。それを見て、苦笑いのアンリが仲裁に入った。これで組むのがバランス良いと言った隊長のグレイヤーは、この様子が予見できていたとでも言うのだろうか。バランスが良いとはこういうことだったのか。
そのまま進んでいくと、やがて杭の位置までやってきた。少し開けた場所だった。朱に塗られた鳥居が立っている。鳥居だけがちょこんと。その奥には今までとは変わらぬ森の景色。
「これやな」
ユハがそう言い、破壊用の式神の準備を始めようとした時だった。
「ちょっと待ったあ!」
叫び声と共に高い木の上から飛び降り、鳥居の前に綺麗に着地した人影が。揺れるのは、白い髪に金の瞳。三人は瞬時に身構えた。小柄で可愛い女の姿をしているが、額の二つの小さな角や、長い尻尾、そして衣服などではなさそうな黒い腕は人のものではない。突然現れた彼女は強気にまくし立てる。
「やっと立ち止まったね。私はヴァルガ、あなたのハートを頂きに来たの」
びしっとアンリを指さしたが、すぐ隣にいたチトセは「俺?」と自らを指差し白目を剥いた。
「悪魔とか無理だからー」
「ちっがーーーう!!!私とぱっつん男とか無理よ!こっちから願い下げ!」
ヴァルガは地面を何度も踏んで怒りを表した。ユハは「自分で名前言うとかこの子あほかな」と小声で零した。正直拍子抜けだ。咳払いして、ヴァルガと名乗った悪魔は続けた。
「私はこの鳥居を守ることで、ツボミ様から信頼を得る。建前はそう。だから、負けてられないの!」
そう言い、ヴァルガは大きく両手を広げる。三人は身構えた。紫の炎のような不定形の球体が、彼女の後ろに三つ現れアンリ達の方に真っ直ぐ飛んでいく。三人はそれを軽く避ける。武器を構えたチトセがアンリに目配せする。アンリは頷くと、正面を見据え、すっと右手を伸ばす。
「ティテラニヴァーチェ!」
呼び掛けると共に、横に腕を払う。動きに合わせて現れ出たのは黒い影、おそらく手首から現れた彼の細身で黒い剣を、アンリは力強く掴んだ。不定形な影のようだった剣はその瞬間に形を保つ。ヴァルガが小さく歓声を上げる。
二人は駆け、チトセは右から、アンリは左からヴァルガに接近する。ヴァルガは鬱陶しそうにチトセを見遣ると、再び背後に紫の球体を出現させる。が、今度は一つだ。それをチトセにめがけて撃つ。
「遅いね」
確かに、一発目に比べ若干遅めだ。その球体をチトセは軽々と避ける。直後、ヴァルガはにやりと笑った。そのことにチトセが気付くも遅かった。背後に回ったそれは、途中で方向を変え、チトセの体に衝突する。
「!ぐっ…!」
「チトセさん!」
「副隊長!」
外傷は無かったがチトセはだらりと頭を垂れ、力無く倒れた。うつ伏せになった体の中心部分から紫色の炎のような何かが灯った。
ユハが倒れたままのチトセの元に駆け寄り表情を確認する。
「副隊長!しっかりしいや!」
眠ったように目を閉じているが、息はしているようだ。背中が上下に揺れているのが分かる。ユハは式神の紙を取り出して燃やそうとしたが、ヴァルガの方が早かった。チトセの受けた攻撃と同じ攻撃を食らってしまう。彼女の持っていた紙がひらりと地面に落ち、瞬時にヴァルガの撃った球でべちゃりと地面に打ち付けられた。呆気にとられたアンリの顔を見て、ヴァルガは口角を僅かに持ち上げた。
「まあそんな顔しないでよ……ちょっとの間寝てるだけなんだから」
くすりと笑ったヴァルガに、アンリは真っ直ぐ剣を向ける。
「悪魔は倒さなくちゃいけない。あなたは尚更」
「嘘じゃないのに。ひどおい」
手を後ろにして可愛い声で言っても効かなかった。アンリは走り、ヴァルガとの距離を詰めて再び切りかかる。一振り、二振り、だが彼女は上手く避けるばかりで、刃同士の駆け引きを得意とするアンリは戦いにくいようだった。
埒が明かないとばかりに、アンリは一度距離を取る。
「ティテラニヴァーチェ。お願いします、あれを」
「?」
ヴァルガが小首を傾げる中、アンリは一度剣を手の中に戻す。そして、手袋を脱ぎ捨て右腕を前に伸ばす。彼が呼ぼうとしたのは、初めての名前を持った技であった。
……
魔魂武器を使った鍛錬の休憩中、チトセは突然、不思議そうに言った。
「アンリ君、名前しか呼ばないよね。それ、どうやるの」
それ、とは、ティテラニヴァーチェの形態変化のことであった。アンリは疑問符を浮かべる。
「どうやってって……普通ですよ」
そう言って目の前で武器の形を剣から紐状へと変化させる。その様子を見たチトセは腕組みをしてうーんと唸った。
「君がこのこと知ってるか知らないか分からないけど、一般的に使用者は攻撃に名前を付けて、なおかつ使う時にそれを呼ぶ。形態変化も同様。理由は簡単。武器との意思疎通。宣言することで技が正しく発動される。武器との信頼とか、熟練度が上がっていくと必要なくなってくるんだけどね。君はその口?先生なにか言ってなかった?」
一部既知、一部初耳。先生はなぜ教えてくれなかったのだろうとアンリは少し考えた。そもそも大技を習得するなどということを思いつきもしなかったアンリからは、攻撃に名前を付けることなどそもそも浮かばなかった。「あ、そうだ」とチトセが提案する。
「さっきのあの技、名前とか付けないの?折角だしさ」
「ネーミングセンスとか無いので……師匠ならどうしますか?」
質問を質問で返したことなど一切気にも留めないチトセは、少しだけ考えた後、その名を口にした。
……
「八方羂索(ヤホウケンサク)!」
広げたのは手のひら、袖口から無数の黒い線のような帯が飛び出す。危険を察知して後方に避けたヴァルガだったが、その攻撃は特殊だった。伸びた多くの帯は、上方や斜めや横から、ヴァルガのいた所へと次々と刺さっていく。避け切ることができず、彼女は無残に串刺しになるかと思われた、その時だった。ヴァルガが微笑んだ。それにアンリは瞬時に違和感を感じ取る。
「!?」
思考さえ許さない、突然視界がブラックアウトする。今、自分がどこにいるのかさえ分からなくなった。その直後、気付けば地面に仰向けに倒れ、ヴァルガにのしかかられていた。両手首は押さえつけられている。
「やっぱり私、人間に触れるのね!あなたが二人目なの!」
そう喜びの色を見せる。
アンリは抵抗しようとしたが、女の見た目と言えどさすが悪魔と言ったところか、全くびくともしない。……否、力が入らない。
「びっくりした?ふふ、あなたには前もって術を掛けておいたから、ああいうこともできるの……」
そう言いながら、スス……と首から胸の中心をなぞる。紫の炎がふわりと灯った。アンリは、力が更に抜けるのを感じた。
「あなた、いい匂いがする……それに近くで見るより素敵だわ。ああ、魂を奪うには惜しいくらい」
頬をするりと撫でる。満足したように微笑んだ彼女は、金の瞳を更に爛々と光らせて、「じゃあ、いただきまーす」と牙の生えた大口を開けた時だった。襲い来るはずの痛みを想像して、思わず顔を背け、地面に頭を押し付けぎゅっと目を閉じたアンリだったが、いつまで経ってもそれは訪れない。恐る恐る目を開くと、そこは暗闇だった。
「!?」
カッと照明が付き、アンリの周辺を丸く照らし出す。正面にいたのはヴァルガだった。
「ようこそ、私の夢の世界へ」
にこりと笑い両手を広げる。暗がりがぼんやりと色付き始め、青紫をしたカーテンや、奥のピアノなどが確認できた。
ゆっくりとアンリの方に歩み寄るヴァルガ。そして、見上げるようにアンリに迫る。
「あなたに質問があるの」
僅かに俯きはにかんでから、彼女は続けた。
「私のこと、好き?」
真意など分からないが、この世界は彼女の世界。従わざるを得ないだろうと、アンリは正直に答える。
「好きなわけありません」
完全なる拒絶であるが、ヴァルガは予想通りと言ったように全くめげる気配がなかった。アンリの目をまっすぐ見たまま彼の周りをゆっくりと歩き始める。
「どうして?」
「あなたは僕達を傷付けようとした。それに、あなたは悪魔だ。それは悪魔に抱く感情ではないでしょう」
「あなたって思ったより頭が固いのね」
むしろ楽しそうに、ヴァルガは目を輝かせた。
「どうして悪魔が嫌い?髪の色?それとも目の色が嫌い?」
そう言い一度目を閉じ、再び開くとアンリと同じ緑の瞳が現れた。更に近付く彼女から、アンリは一歩後ずさる。アンリは首を振る。
「悪魔は、倒さねばならない。だって――」
「だって?」
丸い二つの大きな緑の瞳がアンリの顔を覗き込む。真っ直ぐに照らす。胸の底を冷やす視線。そうして繰り返す。
「だって?」
悪魔は倒さねばならない。なぜならそれそのものが悪であるから。人の害をなすものであるから。共存など不可能。何より、そう、絶対的な人類の敵であるからとそう思っている。
「本当にあなたがそう思っているの?そう考えたの?」
「――先生に」
口をついて思わず出た言葉。先生。そう、先生にそう言い聞かされてきた。でも、これは僕の考えだ。
「本当に?違うでしょう。それはその、先生とやらの意見」
違う。
「違わない。あなたはきっと、先生とやらの言いなりなの。あなたは強情だけど、先生とやらの桎梏からあなたを解き放たないと、あなたは手に入らないみたいだからどこまでだって問うわ。だから……ねえ、あなたの考えを聞かせて?――あなたは迷ってるんでしょ?私には分かるよ」
「そんなこと、ない」
額を押さえ、目をそらし、アンリはふらりと後ずさる。ヴァルガは彼を追い詰める。
「悪魔が本当にあなた自身の敵なのか、彼の言葉が本当であるのか、あなたは疑い始めているんでしょう?」
「……違う!」
「違わない!事実、あなたは!――!」
突然彼女の動きが止まった。様子がおかしいヴァルガ気付き、ゆっくりと顔を上げたアンリ。こぽりとヴァルガの口から血が溢れた。驚いたアンリだが状況がよく分からないままだ。バランスを崩したヴァルガはアンリにもたれかかる。震える腕でアンリにしがみつき、引き攣った笑顔を作り、必死に声を振り絞る。
「私、ね。あなたのことが、すき、だったの。……でも、わたし、食べちゃうから。でも、でもね?もし、害の無い、あ、くまなら、その時、は――」
「っ!」
気がつくと、地面の上。ヴァルガはアンリの上に覆い被さったままだった。項垂れ、口から血を吐き、腹には白い何かが貫通している。立つ砂埃の隙間から、見えた白い何かは堅い鎧を纏った蛇の様で、その長い体を辿るとその先にはユハ。かなり離れた位置にいる。
「遅くなってごめんなアンリ君!ちょっとこいつを用意するのに時間が掛かったんや」
「ユハ、さん」
「なん……で」
ヴァルガが痛みに体を軋ませゆっくりと振り返る。ユハは隣で術に掛かったままのチトセを指しながら言う。
「ええか、こいつはこの手の術に弱いからまだ寝とるんかも知らんけど、私はそうはいかんで」
「待ってよ。まだ、これから、あなたを倒すの――」
「エクソシストを舐めるなああ!!」
高く腕を上げ、「いけ、オオミヅチ!」と蛇の名を叫ぶ。今度は彼女を後ろから貫きもう一度体に大きな穴を開けた。筈だったのだが、パン!と何かが弾ける音と共に黒い液体が飛び散った。異変を感じ取ったユハはオオミヅチを瞬時に止める。それは一瞬の出来事で、黒いものに呑まれて消えたヴァルガと共に、それもまたすぐに消えた。
「……」
アンリの胸の炎は消えていた。
「無理だ」
アンリは一人呟いた。
「悪魔は悪魔。人間の敵だから」
体に付いた血液がしゅうしゅうと昇華し、辺りも白い蒸気を上げる中、アンリは紫の布を手に立っていた。その布は、ヴァルガが身に付けていた衣服の一部。所々破れたそれは、彼女が落としたものだ。
「なん、ですよね……?」
それをぎゅっと握りしめた。
――そうなんですよね、先生?
「大丈夫やったか!?」
式神を仕舞い、チトセを引きずりながらユハがやって来た。アンリは「はい」と返す。彼の手にある布を見たユハは、一応ということでそれを持ち帰ることにした。
乱闘があったにしては上の空なアンリに、ユハは心配して問う。
「見た感じ大丈夫そうやけど、痛む?……よな、慣れてるって言うても反応出て当然やわ。あんなにベタベタ触られてたんやもん」
「あ、いえ。僕悪魔に触れられても平気なんです」
「え!?」
ユハの驚きようにアンリはたじろいだ。「体質?と言いますか」と瞬時に付け足しても、彼女は不思議そうな顔で、聞いたことがないと答えた。
「えっ他にも何人かいるんじゃないんですか?」
「程度があるわ。でも流石にあそこまでのは初めて見たわ……あ、そうそう。三番隊の、アーサー・エルフォード。あいつはそうらしいなあ。なんせ血が入っとるし」
彼とアンリは仲が良かったんじゃないだろうか、と、ユハははっとしてアンリの顔色を伺ったが、彼の口から出たのは彼女の心配していたこととは全く別のことだった。
「僕にも……」
「え?」
「僕にも、覚えてないだけで入ってるんでしょうか。悪魔の血」
「……知らんけど」
ですよね、とぼんやり返したアンリ。ユハは思い出したように付け足した。
「あーまあそういえばこの子が言うてたな。触れる人間は二人目って。もしかしたらまだ教団が確認してないだけでそういう人もおるんかもな。一人目をどうしたんか知らんけど、この子が来た理由はそれやろ?……どうやって嗅ぎつけてきたんか分からんけど」
「嗅ぐ……」
思い出したのは彼女のセリフ。
『あなた、いい匂いがする……』
「気のせいか」
「ん?」
そんなことより、とアンリは鳥居に向き直った。
「さっさと破壊してしまいましょう。……チトセさんは大丈夫なんですか」
「あーうん。あの子の言った通り、ほんまに寝てるだけやわ。強い衝撃でも与えたら起きるかもしれんけど、可哀想やろ。先に壊してからにしよか。隊長達の方も終わったみたいやしな」
そう言いユハは、白い紙を取り出す。土の上に、彼女自身の武器である鉄扇をぞんざいに扱う形にはなるが、それで溝を作るように線を引く。
「呼ぶのに時間がかかるんよなあ。……よし、離れといて」
アンリを後ろに下げさせてから、その陣の上に紙をかざす。
「手を借りるで、オオヒトヤゴロウ!」
叫ぶと同時に叩きつける。地面に当たる直前で、紙は燃えて散る。にわかに、地面に引かれた溝が白く光を帯び、地面を割って、彼女の式神の一つ、オオヒトヤゴロウが姿を現した。体長は数メートル程であろうか。巨人の姿をしており、先程のオオミヅチと同様に白い鎧を纏っている。「これでもヤゴロウSサイズやから」とユハは自慢げに言った。
ユハが式神に鳥居の破壊を命じる。しっかりとした木造の建築物も、オオヒトヤゴロウにかかれば大したものではない。
神聖な物を破壊しているという罪悪感から二人が逃れられたのは、唯一、それが物理的な破壊の直後に灰となったからであろう。
チトセが目覚めたのはそのすぐ後くらいであった。
「んー?……おはよう?」
「お・は・よ・う!!」
眠たげな眼を擦り能天気な声を上げた副隊長に、ユハは嫌味ったらしく返事をしたあと「もう全部終わったで」と言った。チトセは伸びをして立ち上がる。
ふーんと言いきょろきょろとあたりを見回したチトセは、アンリを見つけると「頑張ったね」と言った。アンリは少し驚いたあとはにかみ首を振り、ユハが倒したのだと付け加えた。ユハは目を閉じ頭の中で連絡用の式神の声を聞いていたようだが、何かに気付いたようにはっと顔を上げる。
「隊長から緊急の召集がかかっとる。何があったんやろか……とりあえず先向かってあげて」
二人を先に行かせ、まだ出したままのオオヒトヤゴロウを片付けると言うユハに対し、何かあったら困るとチトセはアンリを残させた。
「じゃあ先に行くからね」
「後で向かいます」
走り去っていくチトセの背を見届けた後、ユハは式神を大層な手順で戻していく。畳み、紙切れになった式神を手持ちに戻しながらユハは言う。
「式神出すのも片付けるのも大変なんよなあ……そう言えばあの時……」
ユハはゆっくりとアンリの方を見て、はっと顔を青くする。
「アンリ君それ!」
「それ?…………!」
紫の胸の炎が、再び灯っている。途端に体の力が抜ける。前に倒れ込みそうになるのをユハが慌てて支えた。
「大丈夫か!?……何でや!あいつは倒したんとちゃうん!?」
ヴァルガのその術はエンドオブザドリーム。通常の悪夢を見せるだけの技ではなく、夢の深くに誘いそのまま心を手に入れてしまう。本来彼女が消滅もしくは距離が離れてしまえば解ける弱い術であるが、彼女の術には粘着性があった。若干残留するのである。そして、彼女に対して何か想いを残したままであると、それに引っ張られるように術を誘発する。しかし、そんなことはユハには知る由もない。
焦るユハに対してアンリは何かを察したように、「ユハさん、ごめんなさい」とだけ言ってそのまま意識を失った。支える体が更に重くなり、ユハは彼を地面に寝かせる。その直後、癇に障るような高い声がした。
「あはははは!ヴァルガが役に立ったねえ。稀に使えるオンナ!」
人型、しかし単眼の悪魔が二人、ユハ達の背後……いや、その宙に立っていた。
「いつの間に!?」
動揺するユハなど余所に、悪魔の少女達はケラケラと笑う。
「お前、あいつに対して罪悪感を抱いたな?残留したあいつの術に掛かっちゃって!馬鹿なヤツ!」
「きゃははっ!アネが連れ帰って褒めてもらうなのー!」
「アネじゃない!モネが褒めてもらうんだ!」
そう言い二人は押し合いながら、ユハに近付く。アンリを庇うように、ユハは二人に立ち向かい鉄扇を広げる。
彼女は武器の効果である式神の召喚でなんでも出来るが何せ召喚に時間がかかる。連絡はいつでも飛ばせるが、他の班が辿り着くまで時間を稼げるか……思案をしているユハに、悪魔の一方が一言「邪魔」と言い指をユハに向けると、そこから黒い紐のようなものが飛び出した。
「なっ!?」
それはユハに絡みつき、彼女は芋虫のようにぐるぐる巻きにされて転がされてしまった。ついでにユハの持っていたヴァルガの布も剥ぎ取られる。
「何するねん!あっアンリ君!」
もう片方の悪魔がアンリをずるずると引き摺っていく。
「ちびの方を連れて来いって言われてるなの!こいつは女にしては普通だからちびじゃないなの!それに、もしお前を連れ帰るなら女って言われてるなの!」
「アネはしゃべりすぎだぞ!」
「キャハハ!失礼!」
重いなどとやいやい騒ぎながら連れていく。
「そんなんまだ分からへんやん!なあ!」
ユハの声は届かない。見えてはいるのに何も出来ない強い歯痒さを感じながら、悪魔が出現させたワープホールに消えるのを見ていることしかできなかった。
追い討ちをかけるように、ユハは連絡式神から本部のとある訃報を聞く。
◆◇◆◇◆
【西部 魔女戦線】
メルデヴィナ教団の西方本部、そこの主な仕事は魔女勢力の鎮圧と言われている。その理由は、最も勢力を持つ魔女結社であるレイズの本社が近くにあるからである。本部のある場所より更に東、エルカリア半島の南端から順に勢力を拡げつつあり、教団としては無視できない。
――というのが建前で、エルカリア半島を制圧しようとしたルティア公国により持ちかけられた商談に乗ったまでとも言われている。とは言っても、レイズがエルカリアの地を守るには理由があるだろう。明確に分かっているわけではないが、悪魔たちの集団の根城があると言われている。それが大きな目的であろう。
魔女たちとて常に戦えるわけではない。そして教団とてエルカリアの戦線だけに戦力を割く訳にはいかない。その為暗黙の了解のように、休戦と開戦を繰り返している。
そんな地に、長らく身をやつしているのは三番隊隊長の男である。
灰色の空。生ぬるい風が吹き、荒れた野に、焦げた死体と悪魔の灰が転がっている。そんな中を歩く一人の男がいた。
白と黒の教団の制服に身を包み、上から灰色のマント、そして帽子を被っている。――帽子を被るのは、教団の正装としてである。灰よけだろうか、特徴的なのは白いマスク。青みがかった少し長めの黒髪を後ろで束ね、切れ長の黒い目は辺りを静かに睨めつけている。彼こそがメルデヴィナ教団エクソシスト第三番隊の隊長であり、西第三テトラールキであるクロウ・ベルガモット。現在エルカリア魔女戦は休戦中である。彼は一体何用でこんなところを一人で歩いているのだろうか。
ふと彼は足を止める。正面に見据えたのは、黒いベルガモットと対照的な真っ白な男。こんな場所に似合わない、汚れ一つ無い上品な白いコートに白いスーツ、そして真っ白なシルクハットを身に付けた異様な男。手に持った杖まで真っ白である。更に異様な空気を醸し出している要因としては、彼の首から下げた大きな時計の存在がある。ベルガモットの姿を確認した白い男は、演技じみた様子で声を張り上げる。
「やあやあ久しぶりだね。君とこんな所で会うなんて、ああ、なんと喜ばしいことだろう!喜ぶに違いないぞ、父上も、母上も!」
大仰に手を広げて天に叫んだ白い男をベルガモットは薄い目で見て、ただ「お前が呼んだんだろう」とだけ言った。懐から取り出し男の目の前で捨てた紙切れは、男がベルガモットに宛てた手紙であった。
「ああ、そうだったね?」
白い男はタンと杖を地面に叩きつけて切り出した。
「単刀直入に言おう。君には、いいえ、……クロウ・ベルガモットには、二階級特進してもらおう」
にこりと笑った男に、ベルガモットは仏頂面で武器を構えて返す。
「そのような制度はうちには無い」
「残念だ。……おいおい、物騒な物を出すんじゃないよ。俺は君と話をしに来たんだ。殺し合いなどもっての――」
ベルガモットの武器、銃口から火花が散る。肩をすくめた白い男に容赦無く襲い来る弾丸を見事に杖ではじき飛ばす。……と見えたがその一つが彼の腕を掠める。
「痛いなあ。あーあ。オートクチュールの洋服が……はあ、酷いじゃないか。俺達兄弟なのにさあ」
ベルガモットの表情はぴくりともしない。無言で容赦なく攻撃を繰り出す。白い男はにやりと笑った。
「でも俺の能力を知らないのに、兄弟だなんてッ、」
その時彼の前に白いバリアが張られた。ベルガモットの弾丸はそこで止まり、否、反射されて全て己に降り注ぐ。
「言えないね」
「……ッ」
致命的な部位ではないが、弾丸をその身に受けて、ベルガモットは膝から崩れ落ち痛みに顔を歪める。白い男はゆっくりと彼に歩み寄り、ニコリと怪しげに笑って言った。
「帰っておいでよ、クロウ。俺らの元に」
そうして、杖を振り下ろした。