【少女の日記】
……
お母さん、遂に明日なの。でもこれで私、踏ん切りが付くと思う。お母さんのこと。
もしお母さんがあの時私を拾ってくれなかったらと思うと、とてもじゃないけど想像もしたくないくらい。今こうして生きていなかっただろうし、もっと最悪な事態も有り得る。それでも、お母さんが私を育ててくれたから今私はここにいる。感謝の気持ちは伝えきれないよ。血の繋がった子供みたいに接してくれてありがとう。力の制御を教えてくれてありがとう。愛してくれて、ありがとう。
じゃあ、行ってきます。
……
◆◇◆◇◆
カナソーニャ・ロヴァイ廃研究所は、大陸の西端エルカリア半島の、南西の海岸沿いに位置している。本部のあるヴァルニアからは少し距離があり時間が掛かるものの、列車という文明のお陰でそこまでは掛からない。ただ途中から暗黒地帯の森になるのでそこは歩かねばならない。……開発中だった黒の瓶(長距離移動術式黒瓶などという大層な名前の付けられた道具で、割って中の液体を出すことで術が発動しワープできるというもの。最近悪魔たちが使っているのを確認し、回収、研究がなされていた)は使用できない。テストという形でアーサーがエルドバにて使用していたが、それ以前に落とした通信器以外にも持ち物が無くなっていたりしていて、まだ不安定であるとして安全が確認されるまで使用はしばらく禁止になったのだ。
先日のアーサーの下調べによって研究所の正確なポイント、そしてそこに至るまでの脅威は既に調査済みだ。巨大な勢力はいないようだが、弱い一型の悪魔が確認されたこと。そこに至るまでに小さな小屋があり、誰も住んでいないが比較的綺麗でまだ使えそうなこと。それから、研究所の周辺だけがきっちり穴(暗黒地帯にスポット的に存在する普通の場所)であることも確認された。
外観から窺える脅威は零に等しく、本当に悪魔が巣食っているのかと疑いたくなるような静けさだったという。
森から幾分踏み入った所にあるので、少し手前にあった小屋でサクヤ達はキャンプをすることになった。
携行食で軽く食事を済ませる。真っ暗な夜には敵襲に備え、見張りを交代で行うことになっていた。時間通り、アンリと交代するサクヤは彼を起こした。寝ぼけ眼を擦り、身を起こしてぼんやりとアンリが口を開く。
「交代、ですね、」
「ああ。それと、ちょっと話をしないか?」
サクヤの口から出たのは、アンリにとってそれは予想だにしなかった言葉だった。
小屋の外、サクヤが一瞬で作った焚き火を囲むよう座り、二人は無言で赤々と燃えるその火を見つめていた。沈黙を破ったのはサクヤだった。
「東国のユリーカはどうだった?」
「和々ノ国ですか?報告書に書いた通り――」
「いや、君の言葉でどう思ったか聞きたいんだ。そんなものに書いたことじゃなくてな」
不思議そうな顔をしていたアンリは目を逸らし、また火を見つめていたが、やがてボソリと「良い所ですよ、あそこは」と呟いた。空気の読めないサクヤは「ほう」と身を乗り出し、実に関心した様子でアンリの顔を見る。
「温泉なるものは入ったか?本当にあったか?」
幻の何かについて語るように、サクヤは言う。その様子に少々驚きつつも、アンリは記憶を辿りながら口を開く。優しい懐かしさが心を穏やかにさせた。
「宿舎の隣に併設されている棟に、大浴場がありました。ちょっと行けば露天風呂もあるんですよ。チトセさんに連れられたりして何だかんだ、結構な回数行きました。お酒の持ち込みだってできます。――あと隊長が好きそうなのは……庭園とか枯山水でしょうか」
彼の話を聴きながら、サクヤの顔は子供のようにキラキラとしていた。
「枯山水!あの人……ベルガモットから聞いた事あるぞ。『あいつがトップにいる東支部は気に入らないが、あの庭園は褒めるに値する』と」
「そんな事言ってたんですか」
「ああ!」
彼はこの時思い出したが、アンリがその庭を初めて見たきっかけはとある強引な教団員だった。あれから東方支部の事を、何か面白い場所のように感じ、今まで行っていなかったところも行くようになったのだが、そのきっかけを作った人物が言っていた言葉にちょっとした引っ掛かりがあったことを思い出す。
『そう言えば……もうお聞きになりましたよね。そう、あの人は、こちらに来るのは嫌がるような口ぶりでしたが、この庭園はお好きだったんですよ』
そう。……アンリが初めてベルガモットが戦死したことになっているという事実を知ったのはアーサーの口からであったが、本当はそのずっと前から東にその情報は降りてきていたのであった。聞かされていなかっただけで。ショックを受けるとでも思ったのだろうか。
それにしても、和々ノ国に異常に興味を示すサクヤが気になる。彼女は依然として楽しそうに、今度は和々ノ国の地酒の話をしている。
「サクヤ隊長は、和々ノ国に興味があるんですか?」
「あーいや、ああ、そうか。言ってなかったな。……実はな、私の故郷はユリーカと一まとめに呼ばれている、和々ノ国の北東にあった小国なんだそうだ。全く覚えていないがグレヴォラが教えてくれたよ。私のこの本当の名前も。一度行ってみたいと思ってはいたんだがな。だからちょっと気になって」
彼女は、遠い故郷に憧れを持っている。キラキラとした、明るい気持ち。
「隊長は……故郷があっていいですね」
羨ましいと正直に零すアンリの顔を見て、サクヤは口を噤んだが、アンリは視線を落とし、揺らめく炎をその目に映しながら、つい口にした。
「僕の故郷は、強いて言うなら、白い部屋」
自虐的に呟いて、それで終わりにするつもりだったのに、サクヤは彼の言葉に目を見開いた。
「もしかして、全部思い出したのか?」
「……隊長……?なんで」
『白い部屋』。まるでそれは暗号のようだった。もし第三者が聴いていたとしても何のことか分からなかっただろう。
「私は君が研究所出身だということは前々からなんとなく気づいていた」
驚いた。なぜ言ってくれなかったんだ。そういう思いが駆け巡る。
「かくいう私もそうだからだ。君の目と髪の色は外の世界では珍しい。だが研究所内でよく見かけた子たちと一致するから。知っていた、でもずっと黙っていた。……すまない。このことをずっと謝りたくて、だが機会が巡ってきたから、こんな時に」
「サクヤ隊長が謝ること、ないですけど……」
サクヤのことを詮索しようとしたことがないので、勿論、アンリはサクヤの過去など知らない。だから、何故サクヤがそんなことを知っているのか、彼女も研究所の人間なのかという、そういう驚きで満ちていた。何故ここにいるのか、自分と違った境遇なのか。そんな彼の疑問を解消するように彼女は続けた。
「私がここにいるのは、そのために作られたからだ。悪魔と戦うために、兵士として。そして私は教団に引き渡された。つまり、私を作った研究所と、教団は繋がっていて……だから君もそうかと思ってたんだ。だけど違うみたいなんだな」
「研究所と、教団が。……資金援助とかをしてくれていると聞いたことがありますが」
「ああ、正確には、研究社ピコは教団のパトロンだ。技術において深く関わっている。傀儡のようになっているつもりは無いが、実際あそこが機材や技術を渡してくれなければメルデヴィナ教団はここまで力を持っていなかっただろう。……あそこからやってきた人物で馴染みがあるのはシュウ・クルスあたりか。彼の父の代からここにいるが、知識欲に従い研究を進めることを第一とする彼の考え方は研究社のものだろうな」
「へえ……」
「思えば、私はアレンとアレス以外にもグレヴォラという魔魂武器を使っていた。三つも適合するなんて、過去に一例しかない。……もしかすると、こういうのも造られたエクソシストの特権なのかもしれないな」
少し寂しそうに、サクヤは手のひらを見つめてそう零した。そんな彼女を見て、ふとアンリの脳裏に浮かんだのは、自分が武器を手にした時の状況。自分がティテラニヴァーチェを使えると知った時、それはほほ事故であり偶然であった。サクヤの話で、すとんと腑に落ちるものがあった。
そんなことより、とサクヤはアンリの目を見る。
「君は何であるだなんて、訊かない。過去のことなんて、大した問題じゃないだろう。君がなんであれ、私は君を信じているぞ。今の君自身のことを」
「サクヤ隊長……」
そう言うと、彼女は不器用に笑い、「じゃあ見張りは任せたぞ。おやすみ」と言い、寝床へと戻っていった。
「おやすみなさい」
一人呟いた小さな声を、聞いていたのは一人だけだった。
◆◇◆◇◆
「へえ……ここが、カナソーニャ・ロヴァイ研究所」
翌日、目的地へと辿りついた一行。その外観を見てアルモニカが素直な感想を零す。
確かに静かで、悪魔が巣食っていると言った印象は受けないが、ただ森の中の廃墟という言葉が似合うように、白い壁には蔦が走り、窓ガラスなどは一部割れている。すぐ近くの海からの塩風で、鉄部分は腐食していた。だが建物の構造自体はこの森に全く似つかわしくない、文明の香りがした。
アルモニカはゆっくりと、入口の戸に近付く。手を触れた時、静電気でも起きたような感覚がしたが、それも僅かで何でもないこととして頭から抜け落ちていった。スライドガラスをこじ開け、一行は中に入っていった。
建物の中は暗闇。先頭を歩くのは、サクヤ隊長。剣の先に自らの炎を灯らせる。自分たちの足音だけが響く静かな中を、注意深く進む。
沈黙を続けていた暗闇の底から、不意に生暖かい風が吹いた気がした。サクヤはそこに混ざる殺気を感じ取った。
「気をつけろ!これは――」
叫んだのも意味が無かった。気がついた時には、各々の意識は暗闇の中。いや、悪魔の匣の中。
◆◇◆◇◆
……
「いけない!起動に電気が足りません!」
「きゃあ!」
「停電か?!」
「大丈夫、すぐ予備電源に切り替わります」
「あれは無事か!」
「ダメです、制御不能です!」
「室長!培養槽のカバーが!」
「予備電源はどうなってる!」
「ええい、いい加減にしろ!なんとかしてみせろ!」
耳につく警戒音と、人々のやかましい声。目覚めた時にはもうその感想くらいしか残っておらず、自分の手を見た時には既に抜け落ち、何の夢だったかもよく思い出せなくなっていた。その曖昧な感情と共に、手のひらを握り込んだ。
起き上がりあたりを見回す。青白い照明のついたその部屋は、全体的に白かった。壁も、床も。振り返ると、自分がさっきまでいたらしい椅子のような物。仰々しい装置があるものの、それは物の見事に破壊されており、床に飛び散った破片は幾らか掃除されているらしい。と言うのも、床に撒かれた黒い血の跡が、何かで掃いたのような筋を残しているからだ。
これが何を意味するのかは分からない。ただ本能的に、アンリは部屋を出て何処かを目指し歩いていく。
◆◇◆◇◆
少年は、薄暗い部屋の中で膝を抱え、一人座り込んでいた。どこからか、ゆらりとした白いものがふわりと目前に降り立つと、彼は少年を責め立てた。
「私は悲しい。お前が、あの人の種族……悪魔を殺しているなんて」
(何が悲しいだ。俺を、母さんを苦しめたのは、お前のくせに)
そう言うと、白いものは少し悲しい顔をして煙のようになったかと思うと、今度は女に姿を変えた。その表情は怒りそのものだった。
「ああ、可愛かった我が子は、悪い子になってしまったのですね。わたくしだけが苦しんで……恩を仇で返すおつもり?ああ、お前も死んでしまえばいいのに」
(母さんはそんなこと言わない。誰だ、母さんの姿をするな)
白い女はくるりと少年の周りを回ると、煙となって、薄暗い部屋から出ていく。何処からともなく声が響く。
「こっちよアーサー。こっちへいらっしゃい」
嫌だと思っても、体が彼女に引っ張られる。そっちに行ってはだめだと分かっているのに、体が勝手に動くようなのである。そんな時、ふわりと体を包み込むものがあった。
「違うでしょう?わたくしはここ」
美しい女は微笑んだ。
「あなたは目覚めなくては。愛しい我が子よ」
――
「ッは!」
ざぶんと水が音を立てる。息を切らしてあたりを見回すと、どうやらここら一帯は水没しているようだ。薄暗くほぼ何も見えない場所だが、天井が陥落しているようで、遠く、階段の上で一応点いている蛍光灯が、チカチカと点滅している。水の深さは膝の辺りくらいまでのようだが、危うく溺死する所だった。ただの水にしてはベトベトとした違和感があり、恐る恐る舐めるとどうやら僅かに塩気を帯びているようだ。あと、妙な味がする。
それにしても見心地の悪い幻だったとアーサーは思う。だがそんなことを考えている暇は無い。寒気を覚えつつ、ここはどこだと辺りを見回し、適当にざぶざぶと水を掻き分け進んでいた時、突然何かに激突してアーサーはまた水の中に沈んだ。
「ったあ!今度はなんだ!?」
起き上がって見ても何も無い。薄暗くてよく見えない。そっと手を出すと、それは透明な壁のようだった。それは一部分の話ではなく、かなり広い範囲にあるようだ。
「こっちじゃねえってことか……」
見えない壁を伝いながら、アーサーは進み始めた。
暫く進むと水からやっと上がることができた。どうやら階段が続いている。蛍光灯の真下に行くと、ようやくしっかりと辺りが観察できると思い後ろを振り返った時、アーサーは色々と後悔することになる。
「なんだ……これ……」
僅かに赤みを帯びた濁った水、そしてそこに浮かぶのは、瓦礫と、人のようなものだった。
湧き上がる吐き気を何とか抑えながら、アーサーは無心でただ体を動かした。
「くそ、悪趣味な悪魔だ……」
そう吐き捨てた言葉を聞いたのは、物言わぬ死体だけ。真実を知るのも、彼らだけ。
◆◇◆◇◆
どうやらアーサーがいたのは一番下の階層だったようだ。上に登るにつれ廊下は綺麗になり、明かりもしっかりついている。二階ほど上がったところで階段は途切れたが、行けるところは限られているので仕方なくそちらへ進む。
「アーサー!」
不意にサクヤの声がして、そちらの方に顔を向けると、サクヤとレイがいるのが見えた。
「隊長!それからレイ!」
そちらの方に走っていったアーサーだったが、手前でまたもや透明な仕切りに派手にぶつかり、彼は頭を抱える。心配そうな二人の声が上がった。
「やっぱり誰にでも認識するものは同じだな。幻覚なんかじゃなかった」
サクヤの呟きに、アーサーは首を傾ける。彼女達は何を見てきたのだろうか。
「無事かアーサー。こっちは私とレイだけだ」
「俺は大丈夫です。……あの二人は?」
「それが分からないのですよ。ボク達は運良く近くにいたのですが、やっとアーサーに会えたくらいで。しかも、またあいつに会ったらと思うと……」
「あいつ?」
レイは赤い目を伏せ、先程見たものを語る。
「真っ白な、子供だったのです。でも目は金色。人の死体を食べていました」
「……」
「今まで見た悪魔の中で一番気持ち悪い相手なのですよ。何故なのか、分からないのですが。ボク達には興味が無いみたいにまたどこかに行っちゃったですけど、ボク、恐ろしくて声も出なかったのです」
自信家で、一人で戦場に突っ込み、恐ろしい悪魔も薙ぎ払う豪快なレイにしては珍しい態度。それほど邪悪な相手なのだろうか。
「壁に遮られて私たちはここから動けない。だがあいつは自由に動き回る。この謎の壁の正体は彼だろう。この建物に巣食う悪魔というのも」
「けれど一匹だけって言うのも少し変な所っすね。高度な知能を持った人型のニ型悪魔にしては、まるで中身が一型や三型のような……」
「そこなんだ。……でも、心当たりが無いわけじゃない」
そう言い、サクヤは目を伏せた。声は僅かに震えていた。
「恐らく、あれは元々人だったものだ」
「……??」
サクヤの言葉に二人は驚き顔を見合わせた。
「さっきは黙っていてすまない、レイ。私は、彼のことを知っているかもしれない」
「サクヤ、」
「ちょ、ちょっと待ってください。なんで、隊長が?」
サクヤは目を閉じたまま、首を横に振った。
「すまない、すまない……」
「隊長!」
うずくまり顔を覆ってしまったサクヤ。部下の声は届かなかった。
その時、ペタリペタリと別の音がした。嫌な予感がして振り返ると、口のあたりを真っ赤に染めた、痩せた白い子供が立っていた。目は金に爛々と輝いている。
「ふふ、エーネ、久しぶり、また会えたねエーネ、」
口を開くとその生臭い吐息と、途切れ途切れの拙い言葉。口角はにいと高く上がりその表情は歪んでいた。頼りない足取りで、壊れた機材が散乱する汚れた床を、ゆっくりと歩いていく。
「ふふ、あ、あはあああああ」
「ま、まじかよ……!」
不気味に笑うと獣のように走り出し接近していく白い子供、慌てて武器を構えるアーサーとレイの後ろで、指の隙間から覗いたサクヤは、震える声で口にする。
「レル、君はどうしてしまったんだ……」
レルと呼ばれた化物は、にたりと笑ったままアーサーに飛びかかる。剣を薙ぎ払おうとした時だった。
「やめろ!」
空を震わすような叫び。サクヤの声だった。突然の命令に驚き、反射的に慌てて避けて逃げるアーサーだったが、軽い身のこなしで白い化物は方向転換し、またアーサーを追う。
「サクヤ隊長!」
どういうことかと叫んだアーサーに、彼女は髪を振り乱し必死に叫んだ。
「やめてくれ!レルを傷付けないでくれ!」
這って手を伸ばすも、ぺたりと見えない壁に触れただけだった。悔しそうな右手は力無く地に落ちた。
「んなこと言ったって!……っ!」
武器で流し避けるも避けきれず、それはアーサーの左腕噛み付いた。ああ!と痛みに顔を歪めた彼は、勢いよく振り切ると、白い化物は地面に叩き付けられた。軽いのかよく吹き飛ばされた。剣で顎が切れ、床との衝撃に化物は呻く。サクヤは悲痛に訴え続けた。
「やめてくれ、レルは人間なんだ!私たちと同じ!」
「違うでしょう!無理ですよ隊長!」
アーサーだって命がかかっている。呆然としていたレイがはっとしてサクヤの元に降り、彼女の肩を支えると、振り返りアーサーを見た。今サクヤは使い物にならない。声こそ出さないが、そう口が言っていた。
起き上がり、狂気に震えながらもまたも襲いかかる白い化物に、アーサーはしっかりと剣を向け、戦いを始めた。
「レル……」
「サクヤ、あれはもうサクヤのレルじゃないのです」
優しく諭すようなレイの声。堰を切ったように、サクヤの目からボロボロと涙が溢れてくる。
「う、うう……」
泣き始めた彼女の肩を、レイはただ抱いていた。
◆◇◆◇◆
アルモニカが目覚めた時、そこは薄暗い廊下だった。窓も無く、暗くて、冷たい。指で撫でるとつるつるとした床だ。体を起こすと、青白い光がふんわりと、遠くの空いたままの扉から漏れ、廊下を照らしていたのが分かった。起き上がった彼女は吸い寄せられるようにそちらへ歩いていく。
水のコポコポした音。低く唸る機械音の中、アルモニカはただ目の前の景色に圧倒されていた。
「……綺麗……」
その感想は些か不適切であっただろう。何故なら、目の前に広がる青い世界は、ただの美しい景色ではなかったからだ。
中で人の眠る、大きな縦長の水槽がそこにあった。それも一つではない、ずらりと並んでいる。ライトが青なのか水が青なのかは分からないが、その青と人間……年端もいかない子供が光に照らされ肌は白く、髪は透けているように見え、そのコントラストがとても美しかった。
眠る子供たちだが、急に視線を感じて見ると一人、目を開いてアルモニカを興味深そうに眺めている子供がいた。気が付いた時アルモニカはかなり驚いて悲鳴を上げそうになったのだが、ガラス越しに眺める彼女の人懐っこい表情、碧い瞳を瞬かせ手を振ったその様子に、アルモニカは場違いな程拍子抜けし、彼女もまた手を振り返した。
「見えるのね、聞こえる?」
そう声をかけると嬉しそうに笑い、「あーえうー?」と喃語だけを返した。アルモニカは暫く不可解な表情をしていたが、やがて言葉を知らないのかと気付いた。
彼女は液体の中、様々な管に繋がれながらもその生命をとどめていた。彼女の瞳は完全なる好奇心。アルモニカが物珍しいのだろうか。
ふと足音が聞こえ、そちらを見ると、この部屋の出口から見覚えのある人物が遠くを歩いているのが目に入った。
「あ、アンリ!待って、」
そうだ。別に忘れていたわけではないが、アルモニカ達は三番隊でこの廃研究所の悪魔を倒しに来たのだ。廃研究所……確か随分前に稼働は停止している筈で、……なら何故電気が通り続け、あの子は生きている……?
アルモニカは考え事をしていてしばらく異変に気づかなかった。ある音に。
はっとすると、ガラスを叩く音がやたらとうるさく響いている。気付かなかった。見ると、先ほど手を振った子が、ガラス越しに、苦しんでいる。
「えっ、どうしたの!?」
慌ててガラスに張り付く。青にライティングされていた筈だが、そこだけライトが切れており、どうやら、運悪く酸素の供給が止まってしまったらしい。……実は、眠りこけている周りの培養槽は酸素分圧を調節するシステムが異常をきたしており、それにより起こされた酸素中毒で眠っていただけであり、彼女の水槽は逆に酸素の供給が失われるという形で異常が現れた。しかし、アルモニカにはそんなことは分からない。とにかく、救わねば、それだけが彼女を突き動かしていた。ナイフを取り出し大きく振りかぶるとその柄を突き立てる。だが、安易にそれは弾き飛ばされナイフは宙を舞い落ちた床を滑っていった。
「ああ、もう!」
今度は何歩か後ずさると、最低限の助走で大きく跳ねると鈴絶歌(りんぜっか)を発動させる。音の微細な振動で触れたものの表面を破壊させるその技で、ガラスは割れ、そこから水が勢い良く噴き出した。しかし、人一人出られる大きさには及ばない。アルモニカは落ちたナイフを拾い上げると、怪我することもいとわず必死で穴を大きくしていく。
――嫌だ!お願い、間に合って……!
最後のひと振り。大きく割れた穴から大量の生温い水と、水流に呑まれた少女がずるりと出てきた。アルモニカは水を被るも慌てて少女を抱え上げる。
「息、して……!」
「……あ、あっ……う…………っ……」
彼女の願いも虚しく、少女は口をパクパクとさせ、声にならない呻き声を上げる。
「どうして!?」
少女は苦しみもがき、アルモニカの腕を掴んだ。その力は弱く、その意味もアルモニカに重くのしかかる。蘇生術を試みようとするも、時既に遅かった。
「……そんな」
自分の腕の中で、冷たくなっていく少女。さっきまで動いていたのに。手を振って、笑っていたのに。どうして?そもそも、この残酷な場所は何?そんな思いが溢れて彼女の頬伝う。
「どうして、どうして?こんなの酷い。なんなのよ……どうなってるの……」
彼女は泣いた。名前も知らない少女の為に。言葉も知らないまま、死んでしまった彼女の為に。
項垂れて涙を零し随分と経ったように感じる。ふと人の気配を感じて顔を上げると、すぐ目の前にしゃがみこんで腕の中の少女を見つめていた人物がいた。こんな近くに来るまで気付かなかったのだ。暗い瞳をしたその人物とは、同じく同時にこの建物に入ったアンリであった。彼は左手の白い手袋を外し腕を伸ばすと、そっと少女の顔に触れ、開いたままだった瞳を閉じさせた。そして、ぼそりと呟いた。
「僕の、兄弟なんです」
「え……?」
そう言うと立ち上がり、「進みましょう。ここでは立ち止まる事は許されない」と言った。
アンリの歩く少し後ろをアルモニカは追いかけた。
先程のショックが大きく、現実と幻の狭間を揺れていたようなアルモニカの頭では、自分達は悪魔を倒しに来たのだと再確認することで精一杯だった。一方アンリ、彼の表情は伺い知れず、だが、こんな場所だから彼もまた何かあったのだろうと思いアルモニカは口を噤んでいた。否、喋る気力が無かったのである。
段々頭の霧が晴れてきた頃、アルモニカは辺りを冷静に観察し始めた。通路には何かが転がっており、その上に布が被せられているようだった。そしてアンリを見た時、彼女はアンリの様子がおかしいと確信した。彼は何故行先を知っている?どこへ向かっている?何も言ってくれない。
「アンリ……?」
その時、アンリはゆっくりとした足取りから、やがて遠くを見つめたまま走り始めた。
「まって、待ってよアンリ!」
不安と焦燥が胸を焦がす。アルモニカの声は届かない。彼は一体何を見ているのだろうか。
◆◇◆◇◆
暗闇の中を走る、走る。恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら、死体の山の転がった暗闇を、ただ素足で駆ける。
ずっと昔に知っていた。ここを知っていた。
行く宛もなく、ただ逃げるように駆け抜けた先にいたのは、椅子に座った白く濁った目をした白衣の女だった。彼女のことは、よく知っている。
「大丈夫よ」
彼女は微笑んだ。しかしその目の焦点は合わない。
「私が守ってあげる」
今なら分かる。彼女が何と言ってるか。だが、気が動転していて、彼女の言葉など耳に入らなかった。
ふらつきながら立ち上がり、彼女は腕を広げる。
「大丈夫よ、いらっしゃい。私の愛する――」
今なら分かる。抱きしめてくれようとしている。自分を守ろうと、落ち着かせようと。ただあの時は、捕まると思ったのだ。運悪く手の中にあった鋭利なナイフが内臓を引き裂いたのは、ほぼ反射的なものだった。直後、彼女は彼を崩れるように抱き締めると、震える声で言った。
「――ルクス。……あなたは、生き、なくちゃ」
彼女は最後の力を振り絞り、彼を突き飛ばした。部屋の出口を指差すと、彼女は這い、ボタンを押した。閉まりかけたシャッターの隙間から見たのは、微笑む彼女が、白い何かに襲われるところだった。