23話「悪魔」





 がやがやと騒がしい繁華街の路地裏を、一人で歩いている酔っ払った男は千鳥足。ふらふらとご機嫌で歩く彼の正面に、音も無く現れた人影があった。
「ふふ。こんばんは」
 なんだあ?と赤い顔の男が女をまじまじと見る。可愛らしい声。暗くてよく見えないが、きっと可愛い顔をしている。
「ねえ、お兄さん。ちょっと、試したいことがあるの……」
 そう言って彼女は男に近付く。男はなおご機嫌だったが、かなりの至近距離になってやっと違和感に気が付いた。
「あ……人間じゃ……ない……?」
 身構え後ずさると、トンと壁にぶつかる。そのまま腰を抜かしてずるずると座り込む。
「なわけないよう。ほら、触ってみて?」
 可愛らしくも、妖艶な声。彼女は睫毛の長い瞳を弓なりにして、手を差し出した。男は言われるがまま、そっと震える手を伸ばした。

 その直後、路地裏に男の悲痛な悲鳴が響き渡った。

「うーん。おかしいなあ」
 近くの塔の上。先程の女が右手をまじまじを見つめ、そして膝を抱えてため息をつく。
「私、人間に触れるようになったと思ったんだけどなあ。気の所為かもだけど」
 月明かりに照らされた彼女の頭は銀に輝いており、額には小さな二つの角が生えているその様はよもや人とは思えない。
 彼女はヴァルガと言う名の悪魔であった。整った顔に愛らしい見た目。惚れっぽい性格が災いして、組織、という程立派なものでもないが、共同体から破門されてしまったのだ。そのうち東へ東へと放浪するうちにここに辿り着いたのだが、こうして夜は街で自由奔放な行動をとっていた。

 冷たく眼下の小さな死体を見下ろしていた彼女の金の瞳だったが、ふと視線を上げた時に、遠くに何かを捉えた。はっと立ち上がると、しゅるりと細い尻尾が揺れた。
「……悪魔?」
 前方に見える背の高い建物の一つ、その窓辺に一人の人物がいた。
 人間の建物の中に悪魔がいる。彼女にとっては不思議で仕方なかった。気になった彼女は、死角になりそうなところ選びつつ建物から建物へと飛び移っていき距離を詰めた。相手は悪魔?いや待て、違う。
「なあんだ人間かあ」
 わざとらしいくらいのため息をついたヴァルガ。
 暗いと細かい色の判別ができないのはこの時も例外ではなかった。しかし、悪魔じゃないと分かっても、他に彼女には何か気にかかることがあった。それを確認することも出来ぬまま、人間はカーテンの向こうに行ってしまった。
 普段なら明るくなってから、などと悠長なことを考えていただろうが、今日の彼女は違っていた。

             ◆◇◆◇◆

【アリア・レコード】

「ようこそいらっしゃい。私の愛するアリア・レコードへ」
 暖炉の火が燃えている。パチパチと鳴る音の中、エメラリーンの頬はオレンジで照らされていた。
「エメラリーン、今日は……」
「なんですか?」
 部屋は相変わらず本でいっぱいだったが、本当にただの部屋という感じがした。彼女は彼の正面にロッキングチェアーに座り、自分は暖炉の前、絨毯の上に座っていた。空間は暖かいオレンジで包まれており、真っ白なエメラリーンはその色で淡く染められていた。
「ううん。なんでもない……」
 そう言い、足を崩した。さわりと、毛の長い絨毯が置いた手の指を包んでいる。懐かしさなどはあまり感じなかったが、心地の良い夢だと思った。
 暖炉の炎が白く、明く、揺らめいている。それを見つめていた。エメラリーンが何か言っているが、頭には入って来なかった。その炎が、大きく揺らぎ、笑った、ように見えた。その瞬間。その炎は大きくなり、部屋は炎に包まれた。
「エメラリーン!」
 慌てて立ち上がり辺りを見渡すも、彼女はおらず、また、部屋の壁は燃える写真のように、穴が開くように赤と白に侵食された。
 やがて真っ白になった部屋。空間というべきか、むしろ何も無い。だが床があり、足元がしっかりしている。それだけが、混乱していた彼が理性を辛うじて保てている理由だった。
 そんな白い空間に、水の上に絵の具を垂らしたかのように、ぽん、とそして、じわりと色が広がった。
 色付いたのは、彼の過去。

「そうだ、」
 昔から白は嫌いだった。


 部屋の隅で泣きじゃくる、その小さな姿を見ていた。

『うっうっ、うえ…っひっ……』

 自分は、どこで生まれたとか、誰から生まれたとか、忘れるも何も元から知らなかった。
 物心ついた時から施設にいた。友達もいたが、仲良くなった子はみんな、いつの間にかいなくなった。やがて自分は悟った。ここは大人たちの“モルモット”の部屋だと。
 どこの部屋も真っ白で味気なかった。
 泣いていても仕方ない。だけど、どうすることも、今の自分にはできない。自分を憐れむように、時に責めるように、その冴えるような白は見えていたのである。

 泣いている小さな自分に、近付く子供がいた。大きな緑の目に、ふわふわとした金の長い髪。この子は、
「ミクス」
「もーまた泣いてる」
 彼女はそう言い、首を傾けにこりと笑った。

 彼女はずっと自分の側にいた。初めて声をかけてきた時は、彼女は「どうしたの」と優しく声を掛けてきた。そして言ったのだ。世界はこんなにも美しいのだから、泣いていても仕方が無いと。
 彼女の心の中は、同情でもなんでもなく、ただの興味だった。だからこそ、自分は心を開いたのかもしれない。ミクスは唯一の友達だった。彼女はいなくならないような気がしていた。いつまでも。

 彼女が僕の手を取り微笑みかける。
「君は悪くないよ」
「ミクス……」
「でもね、許せないの」
 彼女は更に近づき、しゃがみ、至近距離で僕を見た。恐ろしい顔をしていた。

「あなたは人殺しだから」

「ミクス……?」
 俄に、真っ白なミクスが赤く染まる。白い部屋も赤で汚れる。
 目の前にいるのはミクスのような何かだった。否、ミクスの姿をした、何か、であった。
「罪は消えない。例えどんな理由であろうとも。そして過去は消えない。お前は、逃げられないよ」

「アンリ君!アンリ!」
「!」
 激しく揺さぶられて覚醒する。白い天井が見える。ミクスは?いや、“あいつ”は?
「しっかりしなって」
 そうして頬を軽く叩かれる。はっとして見ると見覚えのある顔。チトセだ。夢だったようだ。
「すごいうなされてたよ。こいつのせいだと思うけど」
 彼が見せてきたビンの中には、オタマジャクシのようなものが入っていた。白と黒の模様に、目が爛々と光っている。それは狭いビンの中でチョロチョロと動き回っていた。
「うるさいから起きたら貼り付いててさ。どこかに本体がいるだろうから気を付けないとね……大丈夫?見たところ拒否反応は出てないみたいだけど」
「あ、ああ、大丈夫です。悪夢を見ただけですから」
 上の空で返事をして、目線を逸らす。汗ぐっしょりで薄寒かった。
「シャワー浴びてきます」とだけ言ってアンリはふらふらと部屋を出た。チトセは、少し不安げな表情をしていたが何も言わなかった。


「あーんもうちょっとだったのにい」
 その宿の屋上で、ヴァルガが悔しそうに地団駄を踏む。
「あのぱっつんめ!次こそは邪魔されないようあいつからやっつけてやる!」
 下の部屋から誰かのくしゃみが聞こえてきた。
「あまり大きな声を出すとバレてしまうよ」
 ふふんと笑ったのは、隣にいた小柄なもう一人の悪魔。ヴァルガは慌てて口を押さえた。
「あなたの射程距離の貧相な技をわざわざ遠くまで飛ばしてあげたんだから、分かってるわね?」
「な、なに……?」
 元々糸目の彼女が更に笑う。ヴァルガは後ずさりながら彼女の顔を見つめる。しかし彼女の口から出たのは意外に拍子抜けするような言葉だった。
「あそこの店のネイル、すごくいいのよ。一回使ってから忘れられなくって……。あんた盗ってきなさい」
「んもーーそうやってまた私をパシリにして!」
 頬を膨らませて抗議したヴァルガだったが、変わることのない糸目の笑顔に気圧され、渋々地面へと降りていった。

             ◆◇◆◇◆

 アンリとチトセが支部に帰還した後、作戦会議が開かれた。集められたのはエクソシスト隊だけでなく、東方に属する全ての隊の代表であった。それくらい大規模なものになるということだ。
 会議室から帰ってくる我らが隊長を待つ四番隊のミーティングルームには、アンリも初めて見る面子がいた。

「ワタシはツァイです。ちょっと外の任務に出てて会ってなかったですね。よろしく」
 どこか訛っているような口調で、そう言ってにこやかに右手を差し出したのは、中華風の男性。がっしりした体型で背に長い棒のようなものを背負っている。
「で、こっちはユハ」
 彼の隣にいたのは小柄な女性。少女と呼ぶのが正しいのかもしれない。つり目がちな瞳で、しっとりとした黒髪は後ろでリボンのような不思議な形に結われている。落ちついた雰囲気の人物かと思えば、気が強そうで、開いた口から出たのは特徴的な訛りだった。
「私はユハ・リーや。よろしくな、おチビさん」
 うっと言葉の刺さったアンリを見てか、隣のツァイがフォローを入れる。ついでにかぺしぺしとユハの頭を軽く叩く。
「ユハ、いじめちゃだめですよー。ユハの方が小柄なんですから」
「あ、あほ!虐めてないわ!というか、女の子と比べられるってどうなん!?あんたそれでいいん?!」
「えっええ……」
 強い、つっけんどんな口調と剣幕で圧すユハと圧されるアンリとフォローを入れるツァイ。三人がぎゃあぎゃあと騒いでいると、「うるさいよ」と後ろから声がした。振り返れば、ソファーにチトセが寝ていた。あくび一つして眠たげな目をこする。
「人が寝てるのに関わらずにねえ。もうちょっと気を使ってほしいよ」
「仕事中やろがああああ」
 ユハがチトセに噛み付く。もといツッコミである。

 彼らを少し離れた場所で見守るアンリとツァイ。ツァイはアンリに耳打ちする。
「ユハはね、ああ見えてうちの全連絡式神の相手をしてるんですよ」
 連絡式神。この前チトセが支部への連絡に使っていた紙のことだ。つまり、
「チトセさんが言ってたシャーマンってあの人のことなんですか」
「シャーマンなんて言ってたか……端的に言うとそういう魔魂武器が使えるだけなんですけどねー。隊長や副隊長とは違って武器に対戦時にできることが物理攻撃だけだから、戦闘には向いてないんですけどね」
 彼女の腰に下げてあるのは、恐らく畳んだ扇子。
「そう言えば、ワタシ聞きましたよ。本部にも最近通信専用の武器使用者が現れたらしいですね?」
 言われて思い起こしたのは、あの女の子のこと。きらきらとした笑顔が浮かぶ。
「トーレのことですね」
「へえ。トーレって言うんですねー。まさに塔です」
「はい。……僕にとっては、妹のような存在です」
 冬の始め、初めてトーレの塔の目が起用されてから、彼女は度々任務に参加していた。彼女は文字通り、司令部と戦場を繋ぐ目であった。かく言うアンリも春に遂行した任務で一度彼女の力を体感している。
 絶大な力を持つ塔の目に、彼女を塔に縛り付けようとする勢力も現れたものの、「力も体もまだ未熟であるが故に長く効果は持続しない」という理由からそれは実現していない。しかし、それもいつかは……
「クリューゼルさん?」
「え、はい」
「この世界は、理不尽でできてるんですよ」
 シンプルな言葉だが、アンリの心には深く染み渡ったその言葉に、彼は思わず目をそらしたが、しっかりと前を見据えた。
「……分かってます」
「そう」
 この世界は理不尽で出来ている。理不尽で溢れている。それを、アンリは何となく感じ取っていた。流れに流され身を任せ、今こうしているのは自分の選択によるもののはずだが、それ以前にこうせざるを得なかった何かはある。しかし思えば、彼は一度たりとも自分の意思で道を歩んだことは無かった。……いや?
「違う」
「?」
 自分の意志が無いなんてことはない。自ら選んだことがある。はっきりと決めたことがある。それは、自らの過去を取り戻したいということ。そしてそれを受け入れること。どんな過去であっても、自分の過去なのだから。たとえそれが、親も無い哀れな子供だったとしても。自分は自分なのだから。

「さて」
 ばっと、テーブルに地図を広げてグレイヤーは言う。
「作戦と任務について説明します」
 みなが目配せしてこくりと頷くと、彼は始めた。
「今回の作戦は長期に渡ります。彼らの根城はこの、」
 すすーと指をすべらせ置いたのは、大きな森だった。
「樹海の中。場所は分かっているのですが、少し問題があります。それは、相手もしっかり対策をしているようなのです。故意なのか偶然なのかは分かりませんが」

 彼の説明によると、あの悪魔の首領は、傘下の悪魔たちを森の中に住まわせているが、それぞれに守りを担当させており、容易には中心部に踏み込めないようにしているという。ある意味少々親切であるのか、普段誤って人の子が迷い込んだ時は弱い悪魔にしか遭遇しない。つまり強いほど中心部にいると推測された。悪魔の中でもヒエラルキーがあり、強いもの程安全な中心部に居座れるのだろうか。あくまで教団側の人間の憶測に過ぎないのであるが。また、古人が使ったと思われる術、結界が張られており、その杭となる部分から順に攻めないといけないということだ。結界、などと、人智を越えるものではあるが、この件に関して東方支部は強かった。この手の術は魔魂武器によるものと、東方支部の持つ風土研究チームの過去の資料の読解・研究から把握しているからである。長らく行方不明であったその魔魂武器を奪還する契機でもある。

「その杭は擬態しているので気付きませんが、以前から知っていたと思われる人間を偶然見つけたので問いただし調べました。そしてあれは破壊したら暫くは直せないとのことでした。少しずつ攻めていきましょう」
 そうして細かい各々の作戦を聞いた。

 四番隊に任されたのは、数個の杭の撃破。目に見えて既に壊れかかっている杭は一般隊に任され、それ以外にある擬態したものは四番隊に任された。
「例えばここ、ここにあったのは灯篭で、壊しても特に問題無いと彼女が言っていました。こういうのは優先的に一般隊に出向いて壊してもらいます」
「彼女?」
 興味無さそうにマシュマロを口に入れていたが、グレイヤーが自然に出した人物に疑問符を浮かべるチトセ。知ってか知らずか狐はふふんと笑う。
「また分かりますよ。ああ、明日の今頃は彼らも森の中です」

             ◆◇◆◇◆

【ユリーカ 樹海】

 じめじめとした森の中、厳しい空気を出して闊歩する集団がいた。白と黒を基調とした制服に身を包んだ彼らは教団の人間であった。彼らの前方を歩くのは、全体的に黒い和装の女。そのテイストに似合わない、目立つ大きな魔女帽子を被っていた。
 彼女の名はサナ・トマリ。自称魔女として山で暮らしていたが、ひょんなことから今は教団の犬のような真似をさせられている。彼女の胴には大きな鎖が巻かれており、いくらか遊びを持たせたその先は、教団の一人の男にしっかりと握られていた。
「ふええもうだめーもう歩けないよー」
 弱音を吐いた魔女帽女に、鎖を持った髭の男はほほうと言った。
「君が真っ直ぐ歩けば良かったものを。君は分かっているかな?ここで逃げることも出来るかもしれないが、次捕まったらもう道士じゃいられない。本物の魔女の扱いを受けると言うことを。……それから、山に住んでいるから足腰は強い筈だ。弱音は空耳だと思えとかの上司に言われていてな」
「あ、あの狐ェ!」
 彼女はそう叫び、くっと一度目を閉じてから、腹を括って踵を返した。教団員たちも後に続く。
「すぐそこに地蔵がある。まずはそれ」
「ほう、心強い」
 彼女はこの森の悪魔達全部の味方ではないが、少なくともボスとの面識はある上なにより拾ってもらった身だ。だが仕方ない。棲家を脅かす裏切りだがこの時ばかりは諦めるしかなかったのだと、心の中でボスの悪魔に謝っておいた。
 その時、彼女は思いがけず彼の声を聞いた。
「トマリ。謝ることはない」
「……!」
 どこから声がしているのか分からず自分だけに聞こえているのかと思ったが、教団員たちがにわかに騒ぎはじめ上を向いているのに気付いてそちらを向く。すると、なんと崖の上に彼が立っていた。悠々とした空気を纏い、ふふんと笑う。
「僕から恩を受けたなど、君は何か勘違いをしているよ」
 教団員たちは、「上級悪魔だ!」と一気にどよめき立っているが、当の悪魔は全く彼らなど見えていないようだった。真っ直ぐ、トマリだけを見下ろしていた。
「僕は悪魔の道を。君は人間の道を全うするだけなんだよ」
「……」
 トマリは、背を向けた彼の姿が見えなくなるまでじっと睨めつけていた。

             ◆◇◆◇◆

【東方支部】

 杭破壊の任務は漸次遂行され、四番隊の彼らは時々一般隊に混じって任務に出ていたものの、未だ大きな敵に遭遇するような進行状況では無かった。

 別の日、教団東方支部の二階のとある部屋。そこから、何かが激しくぶつかり合う音と、床を蹴る音、そして荒い息遣いが聞こえてくる。
 お昼にと、やたらと大きなおにぎりを片手に廊下を歩いていたユハは、その音に気付くと、ちらりと[訓練室使用中]と書かれたその扉を一瞥した。
「なんや、まだあいつらやってるんやなあ」

 ガキン!

 響いたのは鈍い音。刃物ではない、木製の剣と剣がぶつかる音。その直後、二人の剣士は間合いを取り体勢を整える。
「どうしたの。そろそろ疲れてきた?」
 へらりと笑ったのは、四番隊副隊長のチトセ・ルイナー・チャン。彼の問いかけに、対する人物は「まだ、」と汗を拭う。彼はアンリ・クリューゼル。ぐっと剣を握り直して立ち向かう。
「まだ今日は死んでません!」
 駆けた勢いそのままに、右後ろからの突きを繰り出すも、それはチトセの剣さばきにより下方に流される。
「脇が甘い」
 続けて繰り出した攻撃も、上手く躱され弾かれその反動を受けたアンリは逆に押され始める。チトセの剣を受け止めることが精一杯だ。そのうちに、剣を絡め取られて飛ばされる。そしてそれはチトセの背後、派手な音を立てて床を滑った。獲物を無くしたアンリはなす術もなく、すぐ側まで迫ってきていた壁に追いやられ、切っ先を喉元に向けられる。
「はい、一回死んだ」
「くっ」
 さて終わりだと言いたげなチトセだったが、アンリはいつものように「はい」とは言わなかった。
 突然に、自らに向けられた剣を左に避けて体勢を低くする。驚いたチトセの足を掴んで軸にし床に半円を描き滑るとそのまま床にあった剣を取り、振り返ったチトセの剣を力強く弾き飛ばし、丸腰の彼の喉元に剣先を向ける。
「……師匠、一回死んだ」
 しばらく沈黙していたチトセだが、ぼそりと呟いた。
「君、負けん気強いね」
「それは師匠じゃないですか」
 少し考えたチトセだったが、不意に剣先を掴みぶんどると、体勢を崩したアンリに足を掛けて転ばせた。チトセはしゃがみ、彼の顔をのぞき込む。派手に転んだアンリの頬を、ぺちぺちと木製の剣の平たい部分で叩いた。
「考えてもご覧よ。死人が動くなんてないよねえ」
「でも以前、すぐには諦めるなと師匠は言いました」
「甘いね。死んでも生き返るルールを持ち込んだのなら、アンリ君は永遠に俺には勝てないよ。第一、喉元に剣を向けられたら終わりなんだよ」
 ふと、アンリは何かに気づいたように、チトセを見上げた。
「……もしかして悔しがってますか」
「な、なわけないでしょ」
 心なしか赤くなった彼は立ち上がり、アンリを余分に2、3回転がした。

「もう終わったんか」
 ユハの声だ。二人がそちらを向くと、扉の辺りに立ったユハがこちらを見ていた。大きな鞄を背負い、手にはなにやら色々と持っている。
「あ、ユハ。ああ色々と悪いね」
 彼女から投げて寄越されたものをそれぞれ受け取る。タオルとボトルに入った水と、そしてやたらと大きなおにぎりだ。まじまじと見たアンリは思わず思ったことをそのまま口にする。
「お、大きい……」
「はあ?なんか文句ある?」
 すごい形相で食ってかかったユハに気圧され、アンリは「いいえ」とだけ苦笑いで返した。

 訓練室の端の地べたに座り、アンリとチトセはユハの特製爆弾おにぎりを食らう。
 やることの無いユハがまじまじとアンリを見ていると、アンリが気付いて「なんですか?」と尋ねた。
「いや、結構髪伸びたなと思って。邪魔やろ?」
 驚いた様子でアンリは後ろ髪を触る。「あげるわ」と、ユハが髪を結ぶ紐を差し出すと、彼は礼を言って、頭の後ろ、低い位置を結んだ。まだ結ぶには長さが足りていないのかばらばらと髪が落ちたが本人はあまり気にしていないようだった。「よく言ってくれたよユハ。俺も言わなきゃーと思ってて忘れちゃってたんだよね」などとチトセが言った。
 アンリは少し照れくさそうに言う。
「髪を結べなんて、昔先生に言われたっきりです。……なんだか嬉しいですね」
「そうなん?変わっとるな……」
 何か有機的な物を代償とするのが彼の武器、ティテラニヴァーチェの性質だった。初めて武器を使用して、先生からそれを聞かされてから、髪が大して伸びなかったのは気のせいではなかったのだ。……それよりも、先生のことを想起させたのが彼にとっては大きかった。

「ところであんたらずっと武器使わん練習しかしてないみたいやけど、それはええんか?魔魂武器ってどれもかなりアク強いはずやけど」
 鍛えてやる。そう言ったチトセの言葉通り、彼はアンリの特訓に付き合っていた。そのうち、時々こうやってユハが声を掛けてくるようになった。
 彼女の質問に、チトセは口に入れたまま返す。
「あーひょふはね、ふぁふぁむふぁふは――」
「何言っとるんか全然分からんのやけど……」
 チトセを横目に呆れ顔のユハ。隣のアンリが代わりに答える。
「魔魂武器は基本変質するものみたいなんです。だから、武器の能力に頼りすぎないようにしなくちゃいけない。僕の場合、それに加えて基本がなってなかったらしいので、そちらの強化をメインに」
 ユハは、ふーんととりあえず納得したようだ。早くも一つ目を食し終わったアンリに、ユハはあっと後ろを探る。
「あっそうや。アンリ君はそれやと足りんやろ」
 そう言い彼女は持って来ていた大きな鞄から、また一つおにぎりを取り出した。「ありがとうございます」とまたかぶりついたアンリ。チトセは「え?俺のは?」とユハの顔を見た。ユハは意地悪そうに笑った。
「おにぎりで餌付けできると聞いて。ちなみに副隊長はこんなん二個も食べたら食べすぎや。太るで」
「わーひどーいアンリ君だけ贔屓?」
 ユハは「違うわ」とつっけんどんに言ってアンリから少し目をそらした。そして少しの間を挟んでから、
「成長期の少年はな、沢山食べなあかねん」
「なるほど」
「ひどい」

 身長に関してアンリの扱いは、どこでもほぼ一緒なのであった。

             ◆◇◆◇◆

【執務室】

 ある昼下がり。書類仕事をしながら、狐の面を被った男グレイヤーが、目の前に立つ男に語りかける。
「今回の件は、あなただけに負担を掛けて、本当に悪いと思います。本来面倒なことは嫌いでしょう」
「まあね」
 後手のチトセは足の重心を置き替えた。グレイヤーはなおも書類に書き込む手を止めない。
「少々強引に決定しましたから、あなたが不満そうなの分かっていましたよ」
「けど、」
 チトセは悪戯っぽく笑う。
「俺が断るわけないって分かってるんでしょ」
「だからこそ、私はあなたに本意無く思っているのです。またあなたに借りを作ってしまいました」
「その心配には及ばないから」
「?」
 チトセの言葉にグレイヤーのペンの手が止まる。言葉の真意を汲み取ろうと、グレイヤーが顔を上げた時、チトセはくるりと背を向け「失礼しましたー」とゆるい声をあげて退出しようとする。
「待ちなさいルイナー、」
 狐の制止も聞かず、チトセは「そろそろ時間なんで」と言い手をひらひらとさせると本当にそのまま退出してしまった。
 一人取り残されたグレイヤーの寂しげな声が部屋に響く。
「最近とんと構ってくれなくなりましたねえ」
 そう言い暫く考えると、ペンを置き彼は立ち上がった。部屋のプレートを不在に置き換えると、そのまま部屋を後にする。書類仕事を放棄して、それより先にすべきだと思ったことを実行しに行ったのだ。

「……なるほど」
 物陰からこっそりと、剣の鍛錬に励むアンリと指導するチトセの姿を見たグレイヤーはそう呟くと、ひっそりその場を後にした。







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