26話「恋想」





「申し訳ありません!」

 悲痛な声が、静かな森に響いた。

 所在無さげに下を向き立っている人物の名はアネ。向かいに座り、肘掛に体を預け、機嫌悪そうに扇子をぱちぱちと手の中で鳴らし続けるのはツボミという名のここらを取り仕切る悪魔であった。
 ツボミの社は薄暗い森の中で一層暗く、近くに置いた蝋燭の灯りが彼の顔を不気味に照らしていた。一つ溜息をついて、ツボミはゆっくりと語る。
「対象を間違えるなど、考えもしなかった。もっとしっかり僕が確認を取るべきだったんだろうね」
「……っ」
 俯き唇を噛み締めるアネ。
「ヴァルガも可哀想な奴だ。一命は取り留めたものの、痛い思いをした。……ああ、君はもう下がりなさい」
「……」
「アネ、」
 ツボミが彼女の名を呼んで、子供に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「下がりなさい。……畢竟、我々には時間が無い。集会の準備を――」

 本当は、褒められる筈だったのに。悔しそうなアネの姿を、双子の片割れはこっそりと社の外から眺めていた。

             ◆◇◆◇◆

 エメラリーンは言った。まだその時ではないと。来るべき時が来れば、それを共に開くと。

――ここはアリア・レコード。

「その時が、やってまいりました。あなたにこれを」
 エメラリーンは微笑んで、閉じたままだった本を開く。すると鍵が現れた。そのままスと右手を後方にやる、そちらを見遣ると扉があった。
「後悔など、致しませんように。開けないこともできますが」
 エメラリーンの声は優しかった。アンリはゆっくりと首を振った。
「……もう、知らない過去に怯えるのは嫌なんだ」
「全てを受け入れると?」
「うん……。それに、自分でももう何となく分かっているから」
 エメラリーンは目を細めて微笑んだ。
「――私はあなた、あなたは私。恐れることはありません。ここから先も、ここも。全てあなた自身なのだから」

 鍵を差し込むと、重い音がして手に振動が伝わる。鍵が開いたのが分かった。ドアノブに手を掛け、扉をゆっくりと開く。視界が光で満ちる。

 夢を見ていた。

 その内容は、予想できたものだった。何しろ、今まで幾度となく見てきたものが、感じてはいたが、そのピースがしっかりと埋まって一つの絵になったようだった。けれどその一角に全く知らなかったものが加わり、絵は、白かった自分の過去は、一気に色を持った。
 見たい絵だとは、決して限らない。けれど、向き合うと決めた。それでも色は、深く暗く滲んでいき、心に深く根を張ったのである。

 いつもの部屋の中で、いつもと同じように座っているエメラリーンに問う。
「エメラリーン、あなたはずっと僕のことを――」
「いいえ。いつも言っているでしょう?私はあなた、あなたは私。感謝すべきなのは己自身、この優しさもまた、あなた自身のもの。あなたはあなた自身をもっと愛さなくては」
「残酷なことを。……そんなの――」

(はっ)

 ここは現実。とりあえずの確信はそれだけで、まだ混乱の中にいた彼は、ゆっくりと己の置かれた状況を理解していった。

 暗がりの中、所々穴の空いた天井から光が漏れてやけに眩しい。自分が寝ているのは、粗末な藁敷の上。視線を上げると鉄の棒が立っているのが何本か見える。……いや、これは牢屋の鉄杭だ。動こうとした時、硬い金属音がして、自分に枷がされていて動けないことを知った。
 記憶を遡る。確か、悪魔との交戦で受けた術に掛かってしまったのだ。そのままこうして……

 ふと、複数人のバラバラとした足音と、甲高い声が聞こえた。息を殺していると、その一人が姿を現した。金の単眼を持った、白髪の少女の姿をした悪魔。大きな目玉が、牢屋越しにアンリをぎょろりと睨みつける。そして鍵を開けたかと思うと、そのまますたすたと彼女は彼に歩み寄る。真意は分からないが、彼女から滲み出る殺気にアンリは体をこわばらせた。彼女がアンリの眼前に立つと、しばらく彼を睨みつけた。直後、彼女の右足が閃きアンリは強く蹴飛ばされた。鳩尾に入った一撃で、こみ上げる吐き気。しかし苛付いた様子の彼女は息が上がるまで何度も蹴り続けた。

「あーもうお前のせいだ!紛らわしいんだよ!くそ、モネもアネもっ!褒めてもらえなかったのはお前のせいなんだぞ!」
 理不尽な暴力。体に痛みが走る。しかし、アンリには抵抗する術がなかった。そんな時、また別の声が聞こえた。

「モネ、その子が例の?」

 息を切らしながらモネと呼ばれた単眼の少女が振り返る。背後には、多眼、単眼、女の姿、また半分だけ人間のような姿をした様々な悪魔がいた。モネは一度深呼吸をし気分を落ち着かせてから、横になったアンリの後ろに回りしゃがむ。ぴくりとアンリは身構えた。
「見ての通り、」
 モネはぺちぺちと彼の頬を叩く。
「触ったくらいじゃ壊れない、変わった人間」
「あ、ホントだぁ。ピンピンしてるねえ」
「面白そう。俺も触っていい?」
「キャッキャッ」
 苛ついたモネと対照的に、他の悪魔たちは嬉しそうだった。その喜びは、新しいおもちゃを与えられた時のそれとよく似たものであった。しかし、彼らにとってのおもちゃとは、自らの持つ破壊衝動を解消するためのサンドバッグでしかなかった。
 ただ癇に障る高い笑い声を上げながら群がる悪魔たちを、少し離れた場所から、息を潜めてそっと窺う人影が一つあった。

 しかしそう経たないうちの出来事である。彼らだけだと思われたその空間に、別の声が響き渡った。

「モネ、滑稽だ」
「この声……!」
 途端にざわつき始めた彼らに、声の主……モネの双子の片割れが、ずんずんと近付いてくる。
「アネ、どうして、」
「そんなことしたって何も変わらないのモネ。私達、本物の悪魔になるつもり?」
「……」
 周りの悪魔達はハッとして、気まずそうに俯くものもいた。
「集会、ツボミ様が呼んでる。みんなも行くなの」

 アネに続く仲間達に、モネは不服そうであったが、舌打ちをして彼女もまたここを去っていった。

 ほとぼりが冷めた頃、様子をうかがっていたその人影は動き始めた。開いたままになっていた牢に侵入する。ぐったりとして気を失っているアンリを、引き摺るようにして牢から出す。そしてそのまま闇の中へと消えていった。

             ◆◇◆◇◆

 自分が弱いから。
 そう、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。

 リィンリィンは、自分の大切な人物がどんな目に遭っているかを知りながら、それを目の当たりにしながら、助けることができなかった。無論、自分は悪魔。人間を助けるような行動を取るのはおかしいだろう。ただそんなモラルとかの話ではなく、自分が気にしたのは同胞の目だった。悪魔集団の中でタブー視されていること、そうでなくても敵の味方をするなんて、リィンリィンが周りに敵だと思われても仕方が無いだろう。彼女は前々からそんなことを気にする自分が内心嫌だったが、今回特にそれを実感した。痛々しい傷を見る度そう思うのだ。

 彼女が彼を連れ出したのは、あの拠点からかなり離れた森の外れ。山の麓で、木々が茂り水棲の木も生えた小さな湖のある場所である。少し前に彼女が見つけたお気に入りの場所である。静かで美しいし、何しろうるさい悪魔がやってこない。

 眺めのいい所で座り、未だ気を失ったままの彼を寝かせて、持ってきた薬(何かあったら困ると、よく効く薬草などを配合して作って持ち歩いているのだ)を傷に塗る。リィンリィンは心が傷んだ。なんて痛々しいんだろう。可哀想に。そして同時に自己嫌悪に陥って涙が出そうになるのを、ぶんぶんと頭を振って今は応急処置に専念するのだと自分を奮い立たせた。

 やがてできることも無くなり、彼女は呆然と湖のゆらぎを眺めていた。静かな水面。日が傾きかけている。

 ふと、空気の漏れる音がして、リィンリィンは膝の上の顔を見る。彼は穏やかな表情をして眠っていたようだったが、開いていた瞳に、少しどきりとした。彼の口が開き、ゆっくりと呟くように、リィンリィンに語りかける。
「ずっと……悪魔は敵だと、思っていました。でも、あなたのような悪魔も、いるんですね」
「喋らないで。……傷に障りますわ」
 目を逸らし、少し突き放すようなことを言ってしまう。
「ふっ……あはは」
「なっ!?何笑ってるんですの!」
 突然笑った彼に戸惑いつつ、リィンリィンは真っ赤になってそっぽを向く。

 暫くして動悸が治まってからそっと窺うと、彼は目を閉じていた。深い呼吸。眠っている。リィンリィンはほっと溜息をついた。

 顔の傷に触れないように、そっと触れる。温かい。少し腫れて熱を持っているからであろうか、それだけではないだろう。

 思えば、追いかけていた人がこんなに近くにいたことは無かった。こんなに触れたことはなかった。そう思うと心に嬉しいような悲しいような、複雑な感情が渦巻いた。心拍数が上がる。そんな時、彼女の頭にふとある思惑が生まれる。その考えは、普段の彼女であれば思いとどまっていただろう。だが、今回は違っていた。いうなればそう、ほんの出来心。そんなことを言い訳にしながら、リィンリィンは、ペリドットの眠る瞼にそっと唇を落とした。

 何か、変わった音がした気がした。

 直後である。心拍が上昇して、目まいがした。

(これは一体……?)

 胸の高まりが治まるまで、彼女は胸を押さえたまま暫くじっとしていた。

 しかしこの時彼女は知らなかった。過度な干渉を受け揺さぶられた種が、芽吹くその決定打を与えてしまったことを。

             ◆◇◆◇◆

 柔らかい、優しい手つきで誰かが触れる。その心地よさに微睡んでいた。そんなぼんやりとした感覚の中で、不意に眩しさを覚えた。白、白だ。いや、これは天井だ。それと、誰かが呼んでいる?……この人は……

「チ……トセ……さん?」
「ああもう、すごく心配したんだから」
 上司は溜息をつき、どかりと隣にあった椅子に座り込み、乱れた髪をかき上げた。

 どうやらここは教団の医務室の一角のようだ。白い天井。個室とまではいかないようだがカーテンで仕切りがされている。ということは……自分は助かったのだ。その事実に安堵した。
 アンリはふと、先程まで感じていたものについて言及した。
「連れてきてくれたのは誰ですか?……僕を、ここまで」
「え、ああ、運んだのは俺も含め色々だけど、見つけたのはユハだよ。彼女が船でいつも巡回するコースがあるんだけど、そこで君を見つけたってわけ。ちゃんとお礼言っときなよ」
「そうですね」

 アンリは頬に手を触れた。
「手当てもしてくれたんですもんね」
「……」
 チトセは少し間を開け、目を細めてから、「そうだね」とだけ言った。

             ◆◇◆◇◆

 後に病室に見舞いに来たユハにより、アンリは自分が湖の畔に置き去りにされていたことを知った。彼女によると、とても見つけやすい場所だったらしい。そしてアンリは彼女が手当てしたものとばかり思っていたが、ユハは首を振った。
「アンリ君は怪我しとったけど、丁寧に応急手当は済ませてあったんや。誰か、優しい人がおったんかもしれへんな」
 優しい人。ぼんやりとした感覚しか思い出せなかった。考え込むアンリに、ユハは「それよりも……」と続けた。
「その、先日、えっと、」
「?」
 ユハは気まずそうにもぞもぞとしていたが、「あ、やっぱ何でもないわ!」と手を広げて笑って見せた。そして、不自然に会話を繋げる。
「さっき、看護婦から目を離した隙にどっかに出歩いとったとか聞いたけど、あんた、連れ去られたんやで。ほんまに大丈夫なんか」
「看護婦さん大げさなんですよ。精密検査してもらったんですけど、特に異常は無いそうです。怪我だって治り良いですし、チトセさんが言ってた三日後の任務にも行けそうです」
 ユハは表情を曇らせる。
「別に大丈夫やろ、あんたが寝とる間に、ほぼほぼ森は攻略しとる。相手の勢力も僅か。頭の首取るだけに病み上がりを連れ出さなあかんほど、うちも戦力が無い訳ちゃうで。それともなんや、本部はそんなにガラガラやったんかあ?」
 ふざけて意地悪っぽく冗談を言ったユハであったが、アンリは顎に手を当て極めて真面目そうに「割と」と言ったものだからユハはずっこけた。
「役に立ちたいんです」
 そう零したアンリを見たユハは、アンリの顔をまじまじと見て少し考えたあと、腕を伸ばし、精一杯のデコピンをした。
「いたっ!」
「か弱い女の子のデコピンでのたうち回るような軟弱者なら、寝とった方がましや!寝とれ!」
 じんじんと痛む額を押さえて、ユハを見上げると、彼女よりもそれまで無かったもう一つの顔に驚いた。
「!チトセさ――」
「全くー、ユハは不器用なんだから」
「は!?副隊長……ってなんでここに」
 チトセは仕切りのカーテンからニコニコしながら顔だけを出していた。
「負い目なんて感じることないよ。それに心配しなくても」
 ユハは、悪魔たちに狙われていたのは高度な通信手段を持つ自分であって、アンリは間違って連れ去られたのだと分かっていた。そこそこすぐに解放されたから良かったものの、それゆえに少し負い目を感じていたのだ。チトセはユハのそんな内心を見抜いていた。
「アンリ君なら心配無いよ。あれだけ起きなかったから心配かもしれないけど、本人元気だし」
 ユハは、ふんと腕を組んで鼻を鳴らす。
「あんたやってクマ作っとったくせに」
「ん!?」
 図星、と言わんばかり。笑ったまま少し赤くなったチトセは、誤魔化すよう一つ咳払いをしてから、「はいはい睡眠の邪魔だから帰ろうねー」とユハの首根っこを掴んで本当に去ってしまった。

 静かになった病室で溜息をつく。あのように構ってくれるのは嬉しい反面、こんな僕なんかに……と心の中で黒く渦巻くものがあった。

             ◆◇◆◇◆

 翌日、アンリは医務室から出て東方支部を徘徊していた。安静にしていろと言われたものの、やることが無いのだ。しかしながら前々から思ってはいたが、ここの設備は独特だと思う。作りもあるけれど、例えば、宿舎近くに温泉の大浴場があったり、進入禁止の中庭があったりするところである。今までそちらの方面まで用がなかったので来なかった庭園。ガラス越しに覗けば、空間に石が置いてあるばかりで何も無い。ただ、白い砂に線が引かれている。興味深そうに眺めていたのか、通りがかった妙齢な教団員はアンリの顔を見るなり、一番よく見えるとのおすすめスポットまで引っ張られた。

「これは枯山水と言うのです。砂と石などで山水の風景を表しているのですよ」

 彼女はユリーカの郷土研究をしている文官で、ついでにはまった独自の文化を支部長であるグレイヤーに提案して一部取り入れて貰っているらしいが、この枯山水の庭園もその一つであり特に彼女のお気に入りらしい。この良さが分かるなんて素晴らしい、本部でも是非とも取り入れてくれればだなんて彼女は言ったけれど、アンリ自身この地域の文化に疎く、その上自分にそんな権限無いのになと少し思った。
 そんな時、ふと思い出したかのように教団員の女性が目を伏せ、ゆっくり切り出した。

「そう言えば……もうお聞きになりましたよね。そう、あの人は、こちらに来るのは嫌がるような口ぶりでしたが、この庭園はお好きだったんですよ」
 アンリにはよく分からなかった。ただ、彼女の表情を見たら口を挟むのも野暮な気がして、「そうなんですか」と無愛想な相槌を打つだけにとどまり、再び彼女と共に庭園を眺めた。

             ◆◇◆◇◆

 ツボミと呼ばれるユリーカの悪魔たちを統べる悪魔を倒す、最後の任務となるであろうこの任務への参加の有無を確認したところ、アンリは首を縦に振った。
 そうして四番隊全員での任務となった。

 いざ彼の砦へと踏み込む。ここに来るまでの道のりもそうだが、森はひっそりとしており悪魔達は見かけない。彼らは最大限の警戒を持って、ツボミがいるとされる社に踏み込む準備をした。

「変わった相手です。一体一で話がしたいと言ってきました」
 数日前、作戦を立てている途中に、ユリーカの悪魔集団を統べる者から文が届けられたそうだ。
 何の変哲もないただの文であることを確認したグレイヤーは、その文を懐にしまい込んだ。その様子を見ていたチトセが問いかける。
「で、どうするんです?そんな要求飲んで多数でやられたらたまんないでしょ」
「当たり前ですよルイナー。ですが一人で来いではありません。話をする相手が一人なだけなのですから」
 楽しそうに返した狐に、話を聞いていたユハとツァイが加わる。
「でも隊長、そんな屁理屈ほんまに通ると思てるん」
「通るも何もー。端からそんなつもりないですよね。ワタシでも分かりました」
「くっ……馬鹿にしとるよな」
「してませんよユハー、全く自意識過剰なんですから♪」
 唸るユハの頭をぺしぺしと撫でユハをなだめる。グレイヤーはこほんと咳をして、「全員分かっていることと思いますが、」と続けた。
「それぞれ指定の位置に配備してもらいます。いいですね」
 みなこくりと頷いた。

 戸を叩いたのはチトセであった。中から入室を許可する声が聞こえる。彼は躊躇無く戸を開け踏み入った。
 中にいたのは白い髪の、中性的な見た目の男。だが彼の額から伸びる角や尖った耳が、彼が人ならざるものだということを物語っていた。肘掛にもたれた彼が、伏せていた目を開く。暗がりの中でもよく分かる、金の瞳だった。
 彼自身からは感じなかったが、チトセは彼以外、襖の奥や物陰から、複数の強い殺気を感じ取った。しかしそれにも動じることなく、チトセは冷静なまま口を開く。
「一対一のお話ということで。参上致しました」
 ツボミは金の目を細めた。
「よく来てくれた。では、お前の仲間で一番話が上に通る者を呼んできなさい。そこにいるのでしょう?」
 チトセの後ろ、開いたままの出入口の闇から、ぬっと狐の面が頭を出した。
「よくお分かりで」
「ふふ。外にいるのも中にいるのも変わらないよ」
 彼の近くの燭台の灯が、彼の顔を照らし金がいたずらに輝いた。
 呼ばれて彼の正面に正座したグレイヤーは、やはり彼も、ツボミの背後から刺さる殺意を感じていた。いつ謀るつもりだ、そう思案していた彼らなど他所に、ツボミは真意のわからないことを言う。
「残念ながら、僕に秘策などないよ。本当さ。あと、残念ながら仲間はいない」
「では、あなたの背後にいる方たちは一体どういうことでしょうか」
 切り込むグレイヤーに、ツボミは軽快に笑いながら扇子を鳴らした。
「まだいたのか……僕は来ないよう言ったのだけれど、困った子達だ。僕は和平の道を示すつもりなのに」
「……投降すると言うのですか」
「そこまで言うつもりではなかったのだけれど、君はそう受け取るのかな?まあいい。――君たちは我々悪魔の殲滅を掲げているようだけど、それは大変でしょう?今まで通り大人しくしておくから、僕達のことは放っておいてくれると嬉しいな。僕たちは居場所が欲しいだけなんだからさ」
 グレイヤーは何か言いかけたようだったが、背後からの影に口を閉じる。今まで黙って後ろで立っていたが、ずかずかと踏み込んでいくのはチトセだった。彼が口を開く。
「ホントにそんなことできると思ってる?」
「無理だと言うことかな?」
「……言いたいことはそれだけ?大人しくしていた?今まで散々暴れておいてそれは無いんじゃない」
 ツボミはチトセを見上げ、表情を固くした。
「度々粗相をしていたみたいだけど……そんなに――!」
 チトセはツボミの襟首を掴み上げ、冷たい表情で詰め寄る。
「いつまでしらばっくれてる?死ぬまで?」
「ルイ、ナ――」
 予定していなかった彼の劇的な行動に、止めようと立ち上がろうとしたグレイヤー、しかし突如響いた轟音と振動に少し動きを止める。

 バラバラと奥の屋根が崩れ落ち、白く埃が舞った。視界が悪く状況が掴みにくいが、なにかの割る音や悲鳴などが聞こえてくる。やがて埃が落ち着いた頃、前方、ツボミのいる場所より奥、屋根が無くなりそこからユハの白い式神……武器が見える。手前、へりに立っているのはアンリ。右手を伸ばしている。黒いものが何本も伸びるその先には、屏風の裏、壺の中などに隠れていた複数の悪魔たちが彼の武器に絡め取られて動けなくなっていた。
「邪魔はさせません」
 彼はぐっと引き上げるように右手を強く引く。その時、隣にいたユハの式神ヤゴロウが彼の武器に手を掛け持ち上げるのを手伝ったため、社の悪魔たちは一斉に外に放り出された。外では他の四番隊員が悪魔と交戦している。やかましく怒号が聞こえるのだ。
 絶望的な表情をしているツボミだったが、ぎっと唇を噛み、チトセを術にかけようと口を開きかけるも、それより早く、畳み掛けるようにチトセは武器を展開した。
「啼剣!食せェ!」
 彼の声と同時に、ツボミの視界が揺らぐ、そして劈くような不快な音とめまいが襲う。悪夢のような啼剣の能力に、ツボミは一瞬で崩れ落ち頭を抱えてのたうち回った。悲鳴を上げる彼を、チトセはそのまま蹴り飛ばす。
「ぐ、お、まえ……僕になんてことを……っ!ああ!」
 苦しそうに息をし、血走った目を向けながらツボミは毒を吐くも、彼には効かなかった。
「小うるさい君の言い訳を聞きに来たんじゃない。俺達はお前の首を取りに来たの」
 そう言い啼剣を持ち上げる。それに応じて効果の切れたようで、ツボミは荒い息だがなんとか動きを止めるも、その時には首筋に刃を当てられていた。状況を把握すると吹っ切れたのか彼は笑っていた。
「は、はは、いいのか?僕の首などくれてやる、いつでも持っていけ、安いものだ。だけど、本当に、いいのか?元々多くの派閥をまとめてきた。僕を殺すことが一体どんな意味を持つのか。いつか、僕が従えていたあの子達が――」
「うるさいな」
 命乞いもかいなし。チトセの刃が思いっきり振り下ろされた。


 ずっと黙って座っていたグレイヤーが、ようやく口を開いた。
「気は済みましたかルイナー」
 転がった首を眺め突っ立っていたチトセだったが、何テンポか遅れてくるりと振り向いた。
「はーいたいちょー任務終わりー。思ったよりらくしょーだったですねー」
 いつもの飄々とした返し。眠たげな表情。浴びた返り血が、白い煙を上げているのがアンバランスだった。

 ツボミを倒した直後、必死に戦ってきた社周辺の悪魔たちがほぼほぼ一斉にばらばらと引き上げ始めた。中にはまだ残っていた悪魔たちもいたが、自分たちが明らか劣勢だと悟ると彼らもまた夜の森の深い闇に消えてしまった。
 これはツボミの能力、似た言葉を使うとカリスマであった。熱い人望、多くをまとめ先導する能力。催眠タイプの技である。それらを使い相手の脳に直接影響を与えることで、擬似的に再現するものであったからである。こうして、ユリーカの悪魔たちは組織と統率力と秩序を失い、ばらばらになってしまったのであった。

             ◆◇◆◇◆

 ツボミの死を知り、更に情報を集めたリィンリィンは一度西部に帰ることを決めた。
 ある日の夜、準備していた帰りの足の乗り場にと決めたあの湖畔に出てきたリィンリィン。手配してあったものは見つかった。
 それは、彼は、巨大な三型悪魔であった。丸々とした黒い体に、大きな目。その周辺に小さな目という目が全面にまだらに存在し、多くの人には不快感を与えるであろう見た目をしていた。両サイドに伸びた透き通る何枚かの羽は、着地している今は後ろに畳まれている。
 しかし、それよりも彼女はその隣に立った奇妙なものに気づいた。それはまた、懐かしくもあった。

 それは真っ白なもの、否、真っ白な人。……いや、悪魔であった。シロウまたは人間としてはジュディと名乗るひょうきんな男。普段西の王国テトロライアの街で人間の振りをして時計屋をしていたと記憶しているが、なぜこんなところにいるのだろうか。
 彼女の疑問などよそに、ジュディはニコニコとして帽子を上げて挨拶をした。
「久しぶりだね。母の御娘よ」
 俺のこと覚えてるかい?そう近付いたジュディに、リィンリィンはこくりと頷いた。リィンリィン達のいた砦によくふらりと現れるこの男は、用事があるのか無いのか、みなに話を聞いてまた街へと帰ってしまう。リィンリィンに対してはお土産と称して様々なものを与えられていた。

「この子の使用申請が出てたから、ついでにと思って俺が持ってきたんだよ、最後に使ったの俺だから。そしたら、君だったんだね」
「ジュディはどうやって帰るんですの?」
「はは、嫌だなあ。一緒に乗せてくれるんでしょ?それとも、俺に歩いて帰れと言うわけ?」
「……そんなこと一言も言ってませんわ……」
 軽い冗談を言うジュディにため息をつき、リィンリィンは先に乗り込む。悪魔の腹部に籠のようなものが取り付けられているのだ。先先進む彼女の様子を見て苦笑いしたジュディもまた乗り込むと、ゆっくりと離陸し、黒い体は夜の闇へと溶け込んだ。

 途中、リィンリィンはふと思ったことを口にする。
「あなた血の匂いがしますわ」
「そう?」
 彼は白いマントをすんすんと嗅いだものの、首を傾げて笑ってみせた。
「分からないなあ。それより俺、君の方が気になるよ」
「?」
 鼻をひくつかせ、うっとりとした表情を浮かべる。
「ああ、君、やっぱりいい香りがするよ。ほら知ってるでしょ、これが種の香りだよ」
 種。その言葉にリィンリィンは思わずハッとした。

 種、それは花の前段階。悪魔たちの希望。人間に滅びをもたらす存在。元来ひ弱な悪魔たちは、人間に住処を追われ、自分たちの生きる場所を失っていっていた。そんな中現れたとまことしやかに囁かれた種という存在は、まるで救世主。概念的な存在だとも思われていた。事実リィンリィンも、それがどんなものかよく知らない。だがそれを見つけ出し、種が芽吹き、育ち、花を咲かせるその時まで、種を守り続けるのが西方悪魔集団の掲げた使命であった。

「どうして君からするんだろうね」
 詮索をしているふうには感じない、ただのジュディの呟きに、リィンリィンは極めて淡白に返す。

「…………そう、どうしてかしらね」

 嫌な予感がしたという。







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