15話「さよならエーネ」





【サクヤの回想】

 私にとって、グレヴォラとは、私の一番だった。グレヴォラだけが常に私の頭の中に響いていた。武器の声が加わっても、やはり私の一番は変わらなかった。
 完全無欠の魔人グレヴォラ。実体を持つわけでもないが、彼の低い声は時に他人にも通る。そして私の髪を私自身の意思で動かす力をくれた。
 過去の記憶は実に曖昧で、施設での暮らしと教団でエクソシストとしてこの身を戦いに投じていることだけが私の全てだったが、特に疑問は持たなかった。過去のことはよく分からなかったが、昔からいるグレヴォラの声が聴こえるだけで良かったのだ。人を支える過去の役割を、グレヴォラが担っていたのかもしれない。
 魔魂武器の二人の剣には、お前は操り人形だと諭されたが別段構わなかった。私のグレヴォラ。グレヴォラが私を好きに操るのなら、それはそれで構わない。むしろ本望とさえ思える。

 しかしなんだ。唯一無二の存在は、こうも容易く私の前から姿を消してしまった。

             ◆◇◆◇◆

 真っ暗な空間に放り出されている。

「ここは……?」
 やたらに響く自分の声。そして、重力など無いかのように、ふわふわと宙を漂う体。
「私は、死んだのか?」
 サクヤはただただ、悟ったようにそう呟く。
「いや、そうでもないぜ」
 突然、聞きなれた乱暴な声が後方からした。振り返ると、揺らめく赤と橙の焔が人の形を成している。彼は魔神と言われたモノ。
「グレヴォラ!」
「よおサクヤ。元気か?……ってなんだその顔」
「……何がだ」
「自分で解ってねえのか。泣きそうな顔してるぜ」
 はっとして、サクヤは少し考える。そして、
「グレヴォラ。私は、お前と離れたくない。お前が居なくなったら……」
「なあに言ってんだよぉ。元々赤の他人じゃねえか。それに、頼れる相手が俺しかいないみたいな言い方しやがって」
「グレヴォラしかいない」
「お前なあ……」
 焔は、半ば呆れたように首を振る。そして、燃えてしまいそうな程サクヤに近付いた。温かい、赤と橙が、サクヤを包み込む。
「覚えてるか、随分と昔になるんだが。……髪だけはダメだって言ったろ?」
「ごめんなさい。でも魔人のグレヴォラなら……」
「それが傷付いた今、契約は破棄されたも同然なんだ。仕方ねえ」
 そして悪戯っぽくにやりと笑い、
「――と言いたいところだが違うな。魔人なんてもんじゃねえ、俺はちょっと変わった魔魂武器みてえなもんさ。お前の毛先と同化した、な」
 サクヤはグレヴォラの話を聞きながら、終始不安げな表情をしていた。
「ま、そんなところだ。じゃあな。お別れだ。サクヤ、いや、エーネ」
「ま、待てグレヴォラ!」
 伸ばした手は、焔を掴むこともできず、するりと熱も手応えもなくすり抜ける。
「私を、置いて行くのか、グレヴォラ……!」
「エーネ。達者でやれよ」
 薄れていく焔。サクヤは首を振り、涙を辺りに零して叫ぶ。
「グレヴォラっ!!――いやだ、いやああああああああ!!」
 抱き締めた焔は四散し、きらきらと橙が彼女の周りを舞った。
 あっさりとした、“彼女の一番”との別れだった。

【研究所内 解剖室】

 突然轟音がした。
「な、なんだ?!」
 白い煙が舞い、白衣の男は思わず身をかがめ腕で口元を覆う。
 目を細めて見ると、出入り口の扉が破壊されている。どうやら爆破されたようだ、そのための煙なのだろう。
 それ以外に変化はない。……いや違う、扉付近にゆらりと現れた人影が見える。何だ、誰だと確認する前に、その人影が接近してくる。すごい速さで走って、近付いて、…………彼の意識はそこまでだった。そしてもう二度と覚めることはないだろう。

 肩で息をするレインは、真っ赤に染めた右の拳から赤を滴らせたまま呆然と立っていたが、暫く息を整えると、顔の潰れた白衣の研究員の脳天に刺さったナイフを力任せに引き抜いた。
「汚い……」
 彼はすっかり赤に染まった右の手袋を脱ぎ捨て、左の手袋を脱ぎ、比較的汚れていない部分で顔の血や眼鏡やナイフの血を拭い、乱雑に地面に放る。そして制服の腰の布を取り外しサクヤの上に掛ける。そこまでしたところで、彼はへなへなと座り込んだ。
「こっ……怖かった!」
 レインが纏う空気がガラリと変わる。そこにいたのはいつものレインだった。
「けど、」
 涙をうっすら溜めた瞳で、しっかりとサクヤを見据える。
「サクヤさんをここから出すまではしっかりしないと」
 立ち上がり、大事そうにサクヤを両腕で抱えると、彼は走りだした。

             ◆◇◆◇◆

「トーレ!?」
《事情は後で説明します!取り敢えず今は私の指示に従ってください》
 頭の中に響く、この聞き覚えのあるこの声の主は、つい先日入団した幼い少女だ。アンリといると何故か高確率で出会うのだが、こんな小さな女の子だからエクソシストなのだろうが、一体どういった能力を持っているかアーサーは全く知らない。
「どうしたらいいんだ」
《そのまま壁沿いに進んで……そう、そこで待機です》
 言われた通りに移動して、その地点で建物を見上げる。窓がいくつかあるが、よく見ると人が血を流して倒れているのがいくつも見えた。
「誰があんなこと……」
 トーレは説明を始めた。
《これはかなり面倒な事情なんですが、私は今本部の司令塔からお兄さん達を見てます。ただまだ時間に限りがあるようなんです》
「良く分からないが……また本部で聞かせて欲しい」
《アーサーお兄さんの頭が追い付かないようならそうします》
「何だろう。馬鹿にされてる気がする……?」

 その時、二階の建物の上に人影が見えた。それは跳ねるように迷わず飛び降りた。ちょうど、アーサーの真下である。
「は……?」
 その直後、鈍い音と共に彼は下敷きになった。
 警戒し殺気立つ間もなく、彼は下敷きになったまま、頭上から聞き覚えのある声を聞く。
「エルフォード君!」
「レイン!?」
 教団の制服は白と黒である。しかし見上げたアーサーが見た彼は湿った黒と、鮮やかな物とくすんだ物が斑に混在する赤だった。そして何かを抱えている。
「お前……レインか?」
「酷いなあ俺だよお!うっうっまさか疑われるなんて思ってなかったあ」
「泣いたからレインだな」
 失礼な、だがしかし的確な判断の仕方に、エルフォード君酷い!などとぐずる血まみれの青年。アーサーは気味悪さを覚えずにはいられなかったが、取り敢えずどけと背から立ち上がらせる。そして自らも立ち上がり濡れた衣類に付いた砂を払った。
 そして、遂に抱えていたものを知る。
「副隊長!……髪は」
「糞研究員に切られたんだよ」
 気を失ったままの、元の姿とは違ったサクヤの顔を眺めるレインの声は冷たかった。……そしてアーサーは今気付いたがよく見ると腕がある。彼女には両腕が無かった事をレインは知らないのか。
《救出できただけでも良かったんです。そうでしょう?》
 今迄黙っていたトーレの声が降ってくる。レインが「そうだね」と呟いた。どうやら彼にも聞こえているらしい。
 レインはサクヤを地面に横たわらせ、装備として持っていたベルトなどを使って布をしっかりと巻き付けた。そして、よく見ると血で濡れている痛々しい彼自身の拳の手当を始めた。

《それからアーサーお兄さん、窓から飛び降りたのはいい判断でした。この建物、地下は広いですが地上は二階までしかない。そしてゲートは全て閉まってましたから》
「違えよ。……逃がしてもらったんだ」
 自らをクローンだと名乗るあの少女がその後どうなったかは知らない。少し、嫌な予感がする。
《あ――お兄さん達!――そろそ――間――――》
 ノイズが入った不明瞭なトーレの声。レインが、長く持たないんだと言った。心配することはないと。

「それにしても追手が来ないな。視界の悪い森で不意打ちを食らうよりここで受けた方がいいと思ったんだが」
「そりゃみんな俺が潰したからね」
 レインが涼しい顔でさらっと恐ろしい事実を口にする。アーサーは引きつった口元のまま言う。
「……レイン、お前だけは敵に回したくねえな」
「酷いよエルフォード君!その言い方は無いよお」
 声を上げると同時に、巻き付けた包帯をぐっと縛る。そして、「わああいたぁい……」と情けない声を上げた。
 レインが派手に動いたおかげでアーサーは敵と遭遇しなかったのか。それにしても末恐ろしい。苦笑いで彼を眺めていたが、急に何かを感じ取ったのか正面を見据える。
「おい、なんか変な感じしないか」
「……?」
 アーサーが低く呟く。そして剣を構えた。不安げにレインは辺りを見回す。しかし何も起こらない。
「……エルフォード君?」
「音が――」
 地響きが、何かが嫌な予感と共に近付いてくるようだ。
 その時土が盛り上がったかと思えば、地中から巨大な黒いミミズのようなものが姿を現した。しかしただの大きいミミズではない。表面は柔らかそうであるが、頭にあたる部分に大きな口があり、人一人丸呑みできそうである。
「さっさっあっ3型悪魔……知ってる、サンドワームって本に書いて、あった……」
「サンドワーム?!……それは砂漠の話じゃねえのか」
「そんなの知らないよお!」
「って、おい最悪かよ……」
 明らかにこちらに敵意のある悪魔は、目の無い頭をこちらに向けると、体の太さそのままの口を大きく開いて威嚇した。同時にレインは情けない叫び声を上げる。
「副隊長は任せた、逃げろ!」
 振り返って叫び、そのまま左から飛びかかってきた獣のような形をした悪魔を薙ぎ払う。見渡すと、雑魚も沢山いるようだ。爛々とした目玉がこちらを睨み付けている。
「そんなこと言ったって、俺もう結構腕が限界!うわあああやめてえ許してよお!」
 泣き叫びながら、ふわりと飛んできたほぼ無害な悪魔を腕で払い除ける。それを見てアーサーは「本当にさっきの施設潰した奴かよ……」と純粋に呆れてしまった。
「そういえばお前、武器は――」
「銃は弾が無くなったから捨ててきちゃったしナイフも脂でべとべとになってて使い物にならなかったからどっかに置いてきたよお」
 彼の拳が血塗れだったのは、敵を殴って来たからだったのだ。素手で殴るという行為は、相手だけでなくこちらも傷付く。手袋もしていないようで、よく見ると満身創痍だ。腰に剣を二本携えているように見えるが、それはサクヤの武器だった。
「気を付けろ!この状況で二人も庇う自信がない!」
 そう叫んで、二人に覆い被さるように近付いてきたサンドワームに、コールブラントを大きく薙ぐ。薄く切れた表面からサラサラとした赤い血が降り掛かった。サクヤに掛からないよう咄嗟に覆い被さったレインは、もろにそれを浴びる。もちろん悪魔に耐性の無い彼にとっては血さえ毒だ。首筋に当たった赤は白い蒸気を上げる。
「わあああ熱っ!!」
「ちょっ!大丈夫か!」
 レインの悲痛な声に思わず振り返る。その時レインの目は、怒り狂い大きく左に頭を振る悪魔を捉えた。エルフォード君!と声を上げたが間に合わず、彼は横から強い体当たりを受け、真横に吹き飛ばされた。
「!」
 レインはアーサーの心配などしている暇はない。立ち上がりサクヤを守るように前に立つと、ほんのすぐ近くに立ち直ったサンドワームの大きな口が迫っていた。
 しかし武器を持たず対抗する手立てはない。
「く、そ……」
 アーサーは身を起こすことができず、不安定ながら技を発動させようと必死にコールブラントを引き寄せようとしていたが、固まって動けないレインと彼に飛びかかるサンドワーム以外のものを揺らめく視界に捉えた。

 白閃。肉を裂く音と悪魔の叫び声、熱いものが掛かるのを感じた。レインは一瞬何が起きたのか分からなかった。
 閉じていた目を開くと、ほんの目の前でサクヤが双剣をサンドワームに下から上に突き立てていた。そしてそれを左右に強引に払う。
 悲痛な声をあげて下がり、身をよじるサンドワームに、サクヤは一歩近付いた。
「部下が世話になった」
 そうして、二本の魔魂武器、アレスとアレンを左右に広げて構える。
「これは礼だ!」
 それを高くキンと打ち鳴らせると、煌々とした大きな焔が彼女の腕を覆い、そのまま伸びた焔はサンドワームを包み込む。炭になった大きな悪魔に戦いたのか、下級悪魔達は姿を消していた。

 敵を片付けたサクヤが振り向くと、レインは泣いていた。
「泣くことなど、無いだろう」
 その声が優しくて、彼はもう言葉を紡ぐことができなかった。
「副隊長」
「アーサー!」
 脇腹を抑えながらふらふらとやって来たアーサーを支える。
「ありがとう。アーサー、レイン。お前達がいなかったら、私はこうしてここにいなかった」
 後ろめたさのない、穏やかな笑みだった。
 彼女は、自分の世界はグレヴォラだけではないと、しっかりとそう思い出した。
 もう大丈夫だグレヴォラ。
 そう静かに語りかけた。

             ◆◇◆◇◆

【森の中】

 村から少し離れた場所。まだ森の中で、メリゼルは本部にいる人物と連絡を取っていた。
 ノイズの混ざる中聞こえる声は、昔から教団の中では彼女と馴染みの深いレイクレビンである。

「――まさか……知らない振りをしろとでも!?」
《知らなかったのか》
「は……?」
《とにかくだ。こちらで新戦力『塔の目』を試験的に導入した。結果が分かるのも時間の問題だ》
「結果!?」
 声を荒上げてメリゼルは通信器に怒鳴る。
「レイクレビン、お前には失望した!人の命が掛かっているのにそんな」
《組織にとっては手駒が減るかどうかだ。確かに、武器使いの駒は、失うとかなり痛いが》
「……」
《しっかりしろ》

 勇気付けたように聞こえる言葉は、むしろ彼女を突き放す。
 通信を切った後も、彼女は森に立ち尽くす。
 そして消え入りそうな、弱気な声で呟いた。
「私はどうすればいいんだ……」

 暫く呆然と立ち尽くした後村へ帰ると、レインがいなかった。表情の冴えないフレッドを見つけ話を聞くと、彼は更に顔色を悪くした。
「やっぱりだ。レインのやつ……」
「レインがどうしたんだ」
 目を逸らしたフレッドから詳しく話を聞いたメリゼルは大いに狼狽した。そして豪傑な彼女が普段見せない表情を見せた。それを隠すかのように、弱々しい声色でああと呟き顔を覆った。
「班長っ……」
 顔を上げた彼女の目は濡れていた。
「今回ばかりは私にはどうしようもない。フレッド、お前は、心配じゃないのか…?どうして送り出したりなんか――」
「あいつは大丈夫です」
 食い気味に答えたフレッドの目は真剣だった。ぐっと拳に力を込める。
「レインが出来ると思ったから行ったんです。出来ないと思ったら、行かない。そんなの無謀、だからです。奴だって、馬鹿じゃない」
 そう言う彼の手は震えていた。まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。しかし目は彼女に合わせることもできずに伏せている。
 レインは抜けたところがあるし、何かと泣きわめいてはいるけれどやる時はやる男だと、フレッドは自身を勇気づける。昔一度似たようなことがあったのだ。その時はそう、不思議と顔を上げれば……

 顔を伏せたメリゼルは、視界の端のフレッドがふと吸い寄せられるように駆け出すのを感じた。その先にはサクヤ、アーサー、レインのみならず、いなくなっていた村の子供達までいるのである。全て無傷、というようでは無いようだが。
 ああ。とメリゼルは呟く。
「心強い奴らだ。まるで……」
 へらへらと半泣きで戻ってきたレインの首を腕で絞め、心配掛けさせやがってと彼女は泣いていた。

 まるで主人公のように、まるで世界の中心のように。絶望などこちらに少しも向いていないと錯覚するように。


 その後、本部から使者が来たことで村は慌ただしくなった。

 地理的には実は北部の方が近く、そちらから来てもよかったのだが来たのは本部からだった。そして遠征隊が帰ってくるよう緊急召還されたので、彼らは全てを放り出して帰るしかなかった。
 結局のところ今回の任務、「調査」は果たしたのである。そしてメリゼルの勘は当たっていたのだ。その結果遠征隊の彼らは今まで知りえなかった存在について知ることになったが、何か大きなものの尻尾を見ただけに過ぎない不気味な感覚があり、また村に長く留まることを許されなかったことがそれについて詳しく語ることを躊躇させていた。
 その上この感覚は一部にとって初めてのことではないのだ。

 帰りの列車の中、疲労している班員を労り、困惑している班員に個々に話をしたメリゼルは、戻る際廊下でばったりとアーサーに会った。目を逸らし、道を譲る彼を引き止める。調子はいつもの通りである。
「ちょっといいか?チェスの相手が欲しかったんだ」


 ルールをよく知らないというアーサーに逐一手を教えながらコマを進める。不思議そうに、そして若干いたたまれなくそわそわとするアーサーに、メリゼルはやっと口を開いた。
「君は確か、私が教団本部に来る前からいたね」
「ええ。……七年前になりますか、団長が変わった直後だったようっすね。メリゼルさんは元々何処の所属だったんですか」
「南方の支部さ。君は結構長い間いるから本部の空気は何となくだが良く分かってるだろう。私は外を知ってるから、この異質さが良く分かるのさ。以前フィルグラードのを見ただろう」
「あそこは自由な空気でしたね」
「南方もだ。本部は本部と名が付いてる通り、そして位置的にも全支部の総括的立場だが、本来は西方支部と言ってもいいくらいのものなんだ。テトラールキの持つ力は同等の筈だからな。ああ、ナイトはそこへは行けないぞ」
 アーサーのナイトの進むべきマスをちょいちょいと指して教えてから、彼女は座席に背を預けまた続ける。
「話が逸れたね。君はずっと、何かを感じながら知らない振りをしてたんだろう?」
 アーサーの動きが止まり、ゆっくりとメリゼルの顔を見あげた。彼女はいつもの通り、気のいい陽気な調子のままだ。
「話すのも御法度な気がしてたんだ。でも良いだろう?少し考えたんだ」
 にこっと笑ったメリゼルに、アーサーは一度視線を落とす。そして、再び顔を上げる。
「……何だかんだ言って、俺がいられるのはここしかないって思ってるからです。実際のところよく分かりませんし」
「そうか。なら同じなんだな」
 メリゼルはすっとポールを持ち上げ、とんとんとんとボードを叩いた。
「私は舐められてるんだよ。何も知らない振りして踊ってろってな。まあ知る手も無いし、今の環境が脅かされる可能性もある。全てを知ることがいいことだと思って止まなかったんだが、そうでもないな。その中で私はこっちを選んだんだ。私にとっては何より班員の安全が最優先だからな」
 そうしてポールを一つ前へと進めた。

 実に意味のない試合はやはりメリゼルの勝利で終わったのだが、彼女は実に満足そうだった。
「一度君とは話をしたかったんだ。そろそろ君も遠征が多くなってきてるだろ。機会が無くなるんじゃないかって思ってな。まだ若いんだから、頑張れよ」
 そう言いにこりと笑い、アーサーの手に飴玉を握らせて帰した。

             ◆◇◆◇◆

【残された村】

 よくしてくれたエクソシスト達が村からすぐに出て行ってしまい戸惑うメルフィス達だったが、新しく来た教団員に大人しく従っていた。彼らもまた信頼すべきエクソシスト様なのだ。

 夕暮れ時、メルフィスは少し部屋を離れていたが、戻ってくるとあのシスティーナが部屋の隅で蹲っていた。
 嫌な空気を少し感じ取りながら、しかし彼はただ、純粋に心配する気持ちで近付く。
「システィーナ……?」
 ゆっくりと近付くと、彼女ははっと顔を上げた。今にも泣きそうだ。絞り出すように彼女は話す。
「あのね、あのね、私、顔が変わってしまったの」
「え……?」
 どう見ても彼女の顔は変わっていない。元から金髪碧眼である。けれどシスティーナは恐怖に表情を歪める。
「さっき外に出た時、水に映る自分を見て気付いたの。髪も、目の色も、違うの、違うのっ、何もかも私じゃないの!」
「落ち着いてシスティーナ!」
「ううっうっ……」
 彼女が目覚めた時、彼女の反応は常人のそれではなかったし、母親を探すこともしなかった。それに記憶が曖昧だったのかもしれないし、何かのショックで通常の反応ができなかったのかもしれない。けれど今になって常人の感覚が戻って来たのだ。そしてシスティーナは重大なことに気付いてしまったようだ。頭を抱え、苦しそうな声で何度も繰り返す。
「ゆめ、夢。これは夢、そうに決まってる。早く目覚めて、おねがい……」
 ふらりと部屋から出ようとするシスティーナを、メルフィスは追いかけようと身構えたとき、にわかにシスティーナがずてんと派手に倒れた。そのまま暫くぴくりとも動かなかったが、ふっと魂が宿るような生気を感じた。
「システィーナ……?」
 むくりと上半身を持ち上げたシスティーナに近づいて顔を覗き込む。メルフィスの顔を見て、彼女は無表情のまま大きな瞳を瞬かせる。その口から出た言葉は衝撃的なものだった。
「誰……ですか、システィーナって」
「!?」
 驚き声も出ないメルフィスなど他所に、目の前のシスティーナであってシスティーナではない少女は立ち上がる。そして、呆然としたメルフィスに以前までの天真爛漫な彼女とはまるで違うトーンで言う。
「私はミクスシリーズM-06-10。テンと呼ばれています。此処はどこですか」

             ◆◇◆◇◆

 遠征から戻ってすぐに、メリゼルはレイクレビンの元を訪れていた。

「君が無事に帰って来て何よりだよ。全員無事だったと、その方を喜ぶべきかな」
 作業していた書類を机の端に乱雑に除け、手を組みメリゼルを見上げ口の端を持ち上げる。対してメリゼルは至極真面目な顔のままだ。
「あのことかい。……かつての団長たちなら問答無用で消されただろうけど、今の団長はそうには見えない。むしろ気付かせるように仕向けてる節があるからね。けれど、僕は君のために口を割るつもりはないね」
「勿論だ。私はお前に話さないでくれと頼みに来たんだ」
「おや、突っかかって来ないのかな?」
 不思議そうな顔をしたレイクレビンにメリゼルは続ける。
「今の環境と部下とそして自分自身が可愛い私は、それを瓦解させないために目を覆うと言ってるんだ」
「……そうか。なら何も言わん」
 ああ、とそれだけ返して部屋を出ていこうとしたメリゼルを、レイクレビンは引き止めた。
「南部に帰る気は無いんだな」
「ああ」
 数秒、または一秒にも満たないかもしれない。そうして彼は掴んだ腕を離した。
 数歩歩いたところで、固まった空気を壊すように、メリゼルは突然いつもの笑顔になった。
「なんだ?もしかしてあれか?ほらよ」
 ポケットからおもむろに取り出した飴菓子の包み紙を下から放り投げて渡す。突然のことに驚かながらも、受け取ったレイクレビンはしばらくして楽しそうに笑う。
「酷いな君は。僕はもうそんな歳ではないよ」
「はは、貰っておけよ。仕事してると糖分減るだろう?まあ昔はお前への餌付けみたいなもんだったが、いつぞやかそう言ったのはお前じゃないか」
「そういうこともあったかもしれないけど。……部下にも配ってるのかい?本当におばさんになってしまったね」
「私がおばさんならお前はおじさんだろう?同い年だったことを忘れたか?」
「全く君は失礼だなあ」
「お前が失礼なんだよ」

 陽気に笑ったメリゼルは、じゃあなと部屋を出ていく。レイクレビンは座り、ため息を一つつくと包み紙を開け始める。
「自ら目を覆うことを選ぶ、か。そんなやり方もあるんだな」
 そうして飴を口に放り込む。



閑話「雨は其を受け止める大地にだけ降る」


 これはフレッドとレインの遠征帰りの列車での会話である。


「なんでレインはロヴェルソン副隊長のこと、下の名前で呼んでるんだ」
 フレッドの質問に、レインはうーんとしばらく考えたのち、話し始めた。
「サクヤさんとは教団で初めて会ったわけじゃないんだ。俺の命の恩人で、教団で再会した時に思わずレインって呼んでくださいって言っちゃったんだ。そしたらサクヤさん、なら私のことも下の名前で呼べって言ってくれて……」
「マジかよそんなもんなのか。……思ったより変わってるな……」
 口ではサクヤの性格について述べたものの、その心の内はレインに見透かされてしまっている。
「何か気になることでもあるのフレッド?言っていいんだよ?」
「……いつもお前は副隊長のことを命の恩人って言うけど、いつ助けてもらったのかなって思ってな」
「俺は奴隷だったんだ」
「!?」
「珍しくないよ。この世界に奴隷商人が蔓延ってて、奴隷が暗黒地帯で働かされてるの知ってるでしょ?」
「……」
「あんまり知らないの?」
「……その、ごめん」
「謝らなくていいよお」
 レインの口から出た言葉はこの社会の闇の部分であって、普通に暮らしてきたフレッドにとって全く縁のないものだった。その分、いつもつるんでいる親友がそんな存在だったとは夢にも思わなかったのである。

「それで、搬送されてる時に突然サクヤさんはやって来た。真っ暗だった馬車に光が差し込んだかと思うと、白と黒の服を着た人影が、操舵手の首を飛ばしたんだ。残酷な光景だったと思うけど、あの時は本当に、サクヤさんが神様みたいに見えたんだ。俺は、またサクヤさんに会うために教団員になろうって決めたんだ」
「そっか」
「でもその道は厳しくて厳しくて大変だったよ。対人格闘技とかばっかりでさ、今年やっと訓練生から上がれたけど、なんでか悪魔とはほとんど当たってないからあ……フレッドがいなかったら俺死んでたよお。うっうっ……」
「思い出し泣きすんじゃねえよー。そんな壮絶な人生を送ってたんだったらお前、泣きすぎてそれこそ大変だったろ」
「……フレッドがいるから泣けるんだよ」
「なんか言ったか?」
「ううん。なんでもないよー」
(俺が何だから泣くって……??)

 心から信頼出来る、弱音を吐いても受け止めてくれる存在がいるからこうやって弱みを晒せるのだ。大事な彼の告白は、フレッドには届かなかった模様。

 雨は其を受け止める大地に降る。そこだけに降る。







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