【夢・記憶と幻想】
白く、美しい花を切り裂き、差し出された手を取り掬い上げる。
優しい人は、木漏れ日の落ちる燦々とした森で、叱りながら諭してくれた。
赤い夕暮れに染まる、他愛も無い戯れ合い。
夕陽を背にして振り返る影は、強く、眩しかった。
青く、深い海の底に沈んだ白い手を、温かい手が引き揚げる。
あなたは、青い海に素足を浸して泣いていた。
ひんやりと冷たい空気が、熱を持った皮膚を刺す。
「お前は最低だ。あいつの気持ち考えたことあんのか」
分からない。あの人がどう思っているかなんて。
「あいつが、どんな気持ちでお前を待っているのか知ってんのか」
分からない。分かりたくない。
「わたし、絶対お母さんを殺した悪魔を殺す。まだいるかなんて分からないし、どんな奴かも分からないけど、倒して、倒してっ……」
傷付けたくない。これ以上、関われない。
綺麗な月夜。甘美な音楽と雑多な話し声が、煌びやかな輝きの魔法に溶け込む。
白いドレスの彼女は、長い髪を揺らして振り返る。
「どうして?」
その表情は悲痛。
「どうして……?」
消え入りそうな声で俯く彼女を振り向きもしなかった。
「酷い、どうしてこんなことをするの」
ごめんなさい。
「私から、大切なものを奪ったのはあなただった」
ごめんなさい。
「憎い、憎い……ずっと私は、世界で最も憎いものと一緒にいたなんて」
ごめんなさい……
心に刺さった棘は抜けない。大事に思っていたからこそ、深く深く刺さってその心を傷付ける。
これ以上巻き込むことも、関わることも許されない。……なのに。
運命はどこまでも残酷だ。
【シリスの研究室】
残り二時間と聞いていた。視界が狭くなった時は、もう目が覚めないとさえ思っていたのに。
「おはよう。朝だよ。それにしてもよく寝てたよねえ。あんなことやこんなことをしても起きなかったんだもん。まあちょっとうなされてたけど。――最近寝てなかった?彼女との熱い夜のせいで眠れてなかった?」
どこまでもにこやかな白衣の男に嫌悪感を抱く。
「……は?」
「意味分かってるか分かってないのか知んないけどさ」
「……こんな時に冗談やめてくださいよ」
「流石に分かるか……。まあ、昨夜は寝てないし怪我もしているみたいだしね」
注射を打たれた時はシリスを呪ったものだが、彼はいつも嘘はついていなかった。いつ抜いたのか分からない血を少し試験管に入れる。彼はその反応に夢中だ。
「あと二時間しか無いのに、流石に送り出せないからね。これで、少しは伸びたんじゃない。どれくらいかは僕にも分かりかねるけど」
「じゅ、寿命が……?」
「君ってば図太くなってきたよね。まあ要するにそう。開花時間を少し遅らせたよー。これ、本当に大変だったんだからね。こういうこともあろうかとエネミさんの燃える前の研究室に忍び込んで設計図の一部を云々――」
「シリスさん、ありがとうございます」
「そうそう感謝しなさい……は?」
シリスは眉間に皺を寄せた。
「何言ってるのー?君被害者だよねえ?」
「そう、ですね……でも、僕の時間を伸ばしてくれたのは、事実ですし……」
「何だろう……いつも打算的な人達とばかり関わってるから非常に調子が狂う」
「僕が本当に嫌いだった人は、死にました。……もう、誰も憎みたくないんです。悲しい自分を、認めるみたいで」
シリスは溜息をついて、両手を挙げた。
「あーやだな全く。もっと嫌な子だったら良かったのにー」
「良いのですか?本当に行かせて」
シリスの後ろから声をかけたのは、先ほど武装していた研究員の一人だった。彼女は、普段はこの奔放な社長の代わりに会社の運営をしていた優秀な秘書だった。
「ああ、うん。――僕いい人でしょ?」
振り返ってにっこり笑った彼の笑顔は、全く裏表の無い……
「さっきので、僕が全力で作った解毒剤は効かないことが分かったから。やっぱり、エネミさん本人の作った薬が無いと、レコードが完成しても意味無いね。僕達死んじゃうもの」
「怖くないのですか……?」
「もうすぐ死ぬかもしれないし、生き残れるかもしれない。大概の人はそうでしょ、君もそう。だけど、夢が叶う瞬間と、叶わないかもしれない瞬間、僕はね、そのどちらかしか見ていないから」
肘を付く。静かな部屋に、ペンの先でテーブルを叩く音が響いた。
「みんな帰っちゃったよね?モニターも映んなくなっちゃって、暇だな。……ねえ、君はババ抜きは得意?」
◆◇◆◇◆
アンリは地下通路を走る。
この広い地下通路、研究社が資源調達に昔使っていた通路でもう閉鎖しているらしい。
シリスによると、花守ことアルモニカは近くにいるらしい。しかし東の方向と言われただけで、実際どの辺りにいるのかアンリには見当もつかない。シリスは何もしなくても向こうから来るから大丈夫だと言いたげである。
しかしアンリは、このひっそりとした通路の天井が騒がしいことに気付いた。
「上で何が……?」
その時、天井が崩落し、上から人が降ってきた。しかし助けるにも、距離がありすぎる。
「!」
髪の長い女、彼女は綺麗に着地すると辺りを見回す。アンリに気付くとパッと表情が明るくなった。
「ああ、やっと見つけた!もう会えないかと思っちゃった!」
「ア、アルさん!?」
感動の再会と言いたいが、彼女が落ちてきた穴からボトボトと1型悪魔達が大量に落ちてきた。
「ごめん、私、何故か分からないけど追われてて」
「とにかく逃げましょう!」
アンリがアルモニカの元へ駆け出そうとした時、大きな獣のような声が通路に響いた。
「おおい!追いかけっこはもう無しだぜ!」
「!?」
声のする方を見れば、それは人型の悪魔だった。白と黒のツートーンの髪に、大きな角を生やした変わった悪魔は、腕を組んで二人を睨みつけていた。彼女はシンシン。西方悪魔集団の幹部三姉妹の次女である。彼女はアルモニカを挑発していたが、アンリに気付くと目の色を変える。
「……ああ、ずっとしていたこの匂い、お前が花か。――始末する手間が半分になったな!二人まとめて殺してやる!」
大きな声で叫ぶとシンシンは穴から飛び降りる。同時に、彼女の連れていた悪魔が飛び出しアルモニカを狙う。
「邪魔よ!」
アルモニカが、飛びかかってきた小型の1型悪魔を蹴散らす。しかしその背後から、シンシンが飛び出した。
「まずはそこの女!」
「っ、間に合わな――」
シンシンが振りかぶった円状の武器は、アルモニカの前に飛び出したアンリの黒い剣に受け止められる。
「――ッ!クソ!」
シンシンは顔を歪ませて飛び退いた。その手は震えている。アンリの追撃を躱しはするもののが、武器は構えられない。
「お、お前……なんなんだお前!ムカつくんだよ!お前のこと、憎くて仕方ねえのに、何でか斬れねえ!」
シンシンは泣いていた。それもその筈、悪魔にとって花は絶対に傷付けられないようになっている。
しかしアルモニカは違う。そのことをアンリも理解している為、確実に狙われている彼女を庇うように抱き寄せ、右手では剣を構えて牽制していた。
「あなた達は、花守を狙っている、違いますか」
「花守……?」
アンリの言葉に、アルモニカは息を呑んだ。
「……ああ……」
シンシンは仕方なく頷く。
「そう、そうだよ……。そいつを殺せと姉貴に言われた。それから急いで花を守りに行けとも言われた。でもな、俺はお前も殺したい」
赤い目でシンシンは語る。
「姉貴は言った、花を守れと。けどな、俺はお前を許せない。花だろうが何だろうが関係無い。お前のせいでリィンリィンは死んだんだからな!」
シンシンの悲痛な叫び。アンリは首を振る。
「違う、リィンリィンさんは死んでない」
「お前の前ではな!」
「!」
あの時、リィンリィンは瀕死だった。ルニという仲間に預けたが、彼女は確かに救えると言った。けれど、その後を知らないのも事実だ。
「確かに、あの人は治せると、言ったのに」
「さっき聞いたんだ……。お前のせいで、俺の妹が……。お前みたいな酷い人間に殺されたんだ!」
アンリはショックを受けているようだった。
「そんな……僕を、守ろうとした人が、死ぬのはもう嫌だ……」
アンリの言葉を間近で聞いて、アルモニカは黙っていることしかできなかった。しかし、彼女は一つの可能性に気が付いた。
「それは、人伝?」
「……は?その女、何を……」
シンシンは怪訝な表情をしていたが、少し考え込み始めた。
「気を悪くしないで。直接見たわけじゃないなら、誤解をしているかもしれないわ」
シンシンがその情報を得たのは、確かに伝言である。西方悪魔集団の情報伝達をしていたのは、三女であるリィンリィンの手下の一つ、ミィが主にその仕事を担っていた。今回シンシンが伝言を聞いたのは、メイメイの手下からであった。メイメイの手下は、ミィに聞いたと言った。……しかし特徴的なのは、シンシンやメイメイが従えていた手下達と違い、ミィはリィンリィンの影からできているという点と、それを知る者は少ないという点である。ミィから聞けるということは、リィンリィンは生きているということだ。
「誰かが嘘をついている……?」
暫く考え込んでいたシンシンであったが、突然あー!と頭を掻き毟った。
「姉貴に直接聞くしかねえ!行くぞお前ら!」
シンシンのあまりに勝手な行動に目を丸くした彼女の手下達であったが、「うるさい付いて来い!」と彼女は強引に引っ張った。呆気に取られた二人をシンシンは振り返る。
「今は、姉貴を信頼できない。戦うのは好きだが、お前が相手じゃ話が違う!全然面白くねえ。でも心配すんなよ、誤解が解けたら殺しにきてやる!」
そう叫ぶと彼女は、人間離れした身のこなしで穴に戻っていった。
「行っちゃったわね……」
「ええ……」
嵐のようだった悪魔の襲来の余韻は長かった。しかしハッとしたアルモニカは、勢いよくアンリの両手を掴んだ。
「!?」
驚いてアンリが肩を跳ねさせると、アルモニカはすっと手を離した。
「何でもないよ」
「アルさん……?」
「だって、本当は、会えただけで嬉しいんだもん」
涙ぐみながら微笑むアルモニカ。アンリにとっても嬉しいことだが、彼は心から喜べなかった。彼女の愛した母親を、殺してしまったのは自分だから。それを知ったあの日からずっと、正面から向き合うことを恐れていた。アルモニカは、「それにしても良かった」と呟いた。
「アンリのこと、ちゃんと味方してくれた人がいたんだね。どうしようかと思ってた。ずっと、一人だったら」
「あの人は僕を助けてくれました。……強い人なんです」
でも……と暗い表情を浮かべる。
「僕が殺したも、同然です……こんな僕を、守ろうとしたばっかりに。守る価値なんて無いくらいの、」
「失礼よ!」
アルモニカは叫んだ。
「そんなのアンリが決めることじゃない。それに、勝手に死んだことにするのも酷い!」
彼女の言葉にアンリははっとさせられた。確かにそう、リィンリィンの姉を名乗る悪魔は、身内にも関わらずその情報源を信じられないと言ったのだ。大丈夫、そう言った、彼女が信じた人の言葉を信じよう。
「ありがとう」
「え?」
小さな声は、物音に掻き消されて聞こえない。音と共に落ちてきたのは天井の欠片。
「さっきの衝撃で……」
「ここから出ましょう。使用されなくなって時間が経ってますから、いつ崩壊してもおかしくないのかも」
「そうね」
二人は急いで出口を探す。程なくして、アルモニカが非常出口を見つけた。
「ここから抜けられるよ」
湿っぽい暗闇の中、階段を登ると光が見えた。草木のカーテンが、疎らに出口を覆う。
そこは花畑だった。
森の中、人が住んだ為に部分的に崩壊したバイオームが、これからまた始まろうとしているかのような姿だった。
人の営みは僅か。崩れかけた小屋や風車がある。アルモニカは、ふらふらと歩き出す。
「……」
眩しさに目を細め、出口で立ち止まっていたアンリを振り返る。仕方なく彼も彼女を追いかけるように、風車まで歩き始めた。
木でできた小屋は、どれも長年の雨風に晒され朽ち果てていた。
「人が、住んでたんだね。どこに行ったんだろう」
アルモニカはそう呟くと、振り返りアンリを見た。
「私、アンリに言わなきゃいけないことがあるんだけど」
アンリはびくりとした。一体何を言い出すのだろうか。
「地べたで悪いけど、そこに座って。怪我の手当てをするから」
アンリの予想は見当違いだったようだが、無意識にマントの中に右腕を隠した。
「怪我なんて……」
「いいから!」
風車の前の石畳には、花は咲いていない。アルモニカに促され、彼はおとなしく花を踏まないよう腰を下ろした。
固まった血が服と患部にこびりついている。
「これ、放置してたでしょ。こういう時は、無理に剥がさないで……」
少しの怪我なんて関係無い。どちらにせよもうすぐ死ぬのだから。アンリにはそんなこと、絶対言えなかった。
「あの、アルさん、」
「うん?」
無言に耐えきれなかったアンリは、少し気になっていたことを口にする。
「甘い匂いがしませんか?」
「ここ、花畑だから?でも、うーん……しないかな」
「そうですか……」
「それより、血の匂いがしてたの。怪我してるって、分かるんだからね。隠してるつもりだった?」
アルモニカは医者よろしく背負っていた鞄から道具を取り出し腹部の傷を消毒し、てきぱきと薬を塗って包帯を巻く。上手くなったでしょうと彼女は笑う。暖かい春の陽射しに照らされて、微笑む彼女はまるで花のよう。その時、アンリは初めて彼女の髪留めが無くなり髪を下ろしていることに気が付いた。先程の落下の衝撃だろうか、それ以前の交戦によるものだろうか。
「こうすると、昔のこと思い出すね」
「昔……」
「うん。黒の森で、こうやって応急処置をしたの。忘れちゃったよね。私だけが憶えてるのかも」
「……」
アンリは忘れてなどいなかった。否、よく憶えていた。たまに思い出す程だ。
『アンリが自分に価値を見いだせなくても、私がアンリに価値を見出す。アンリが自分を大切にできないなら、私が大切にする。自分のために大切にできないなら、私のために大切にして』
どこまでも尊大で傲慢な精神。同時に、恥ずかしいほど真っ直ぐで、優しい心。そのことにアルモニカも気付いていたのか、自分から話題に出したくせに軽く咳払いをして誤魔化した。
「はいできた」
包帯の端を金具で留め、彼女は満足げだ。
「それと、これに着替えてほしい」
鞄から黒い布の袋を取り出した。
「だって、ぼろぼろなんだもん」
彼女は泣きそうな顔で呟いた。
彼女の手渡した物、それは教団の制服だった。
「私服、無かったでしょう」
「全部、回収されてて持ってこれなかったの」
悲しそうにアルモニカは口にする。
「それから、これを返したくて」
アルモニカの差し出した両手の中には、懐かしくも見慣れた物だった。緑の石がはめ込まれた金の装飾に、赤と白のリボンの付いた、教団のエクソシスト章。それを見た瞬間、流れてきたクラシックの音色と泣き声がフラッシュバックして、アンリの息が詰まった。
「受け取れません。あなたに酷いことを、しました」
彼は手を出すことができなかった。
「仕方無かったもの。酷くないわ。こうやってまた会えたんだし。それに、アンリが私に酷いことをしたことなんて、一度も無いよ」
アンリは首を横に降る。アルモニカは別れ際のことを言っていて、アンリの懸念していること、自分がずっと憎んできたものの正体を知らないのだろう。
「誤解だって、知ってるよ。本当はみんな知ってるよ。アンリは巻き込まれただけだって、利用されただけだって。だから、気に病まないで。みんな、信じてくれているから」
「そう、ですか……」
問題は、そこではない。
「何か、悩んでいるんでしょう」
言えない。言えるはずがない。
「悩んでないようには、見えないよ。……ずっとアンリは、一人で暗闇を見ていた。誰にも、私にも、打ち明けてはくれない。でも、寂しいじゃない。信用されてないみたい」
アルモニカは目を伏せた。
「言えない……」
俯いていたアンリは、小さい声で呟く。
「言えません。あなたにだけは、どうしても。――あなたには話したくないんです」
その瞬間、乾いた音がして、アンリの頬に衝撃が走る。アルモニカはアンリの左頬に平手打ちをかましたのだ。
完全に嫌われた。最悪の事態が起こってしまったことに茫然自失のアンリに、アルモニカは怒鳴りつける。
「私が知らないとでも?あんなことで、私があなたを嫌いになるとでも!?私、そんなに弱くない!」
訳が分からなくなり唖然としているアンリに、アルモニカはゆっくりと続ける。
「知ってる。知ってるよ、私」
「知ってる……?」
彼女は頷いた。
「どうしてそうなったのか、理由は分からない。でも、あの時研究所で見つかった日記と、アンリの夢で見た世界と、避けられてる事実、そういうことだって、本能が言ってたの。……ごめん、ごめんね、本当は心の中なんて、覗くつもりなかった。見られたくないものを見られるなんて、こんな嫌なことは無いって、ずっと、昔から分かってた、のに、」
「アル……さん……」
彼女は泣いていた。
「私が酷いことをしたわ。ごめんね、ずっと、ずっと……。きっと、私が過去を引き擦っていなかったら、アンリはこんなに悩まなくて済んだ。もしかしたら、目の前からいなくならなかったかもしれない」
アルモニカは知っていた。自分の育ての母親が死んでしまった原因は悪魔には無かったということを。研究所に勤めていた母は、何か事件に巻き込まれたのだということを。そのことに、アンリが関係していたということを。
真実を知られても、拒否されなかった安堵。
「アルさんは悪くない。ごめんなさい……。あなたに嫌われたくなくて、ずっと黙っていました」
絞り出すように言葉を紡ぐ。
「ちゃんと向き合わなかったから、あなたを必要以上に傷付けた。それなのに、あなたはこんなところまで来てくれた。……でも、僕はどちらにせよ、いなくなる運命なんです」
彼は俯いて目を閉じた。
「……怖いです。何もかも。すぐその時が、迫ってる。でもあなたの無事を確認したくて、今ここにいるんです」
アルモニカは堪らず彼を抱きしめた。ふわりと優しい感覚にアンリは戸惑う。
「私は、アンリに会う為にここにいるよ」
「アル、さん」
「私が花守だなんて関係無い。花が咲く、最後の瞬間まで一緒にいたい。私はもう、後悔したくないの」
アルモニカは花のことを知っている。そのことを、アンリはようやく知った。彼が抱え込んできた花、誰にも言えなかったステラのこと、彼女は全て、知っている。
「もう、何も隠さなくていいの。独りで、苦しまなくていいんだよ」
優しい声に、胸の奥から突き上げるような感覚と熱さ。自然と涙が溢れる。
「僕はきっと、臆病でとても弱いんです。傷付けることも傷付くことも恐れてる」
「それは、優しいって言うんだよ」
苦しみが、浄化されていく。
「ずっと、伝えたかった。アンリに、」
優しい眼差しは少し悲しげに。
「でも、いいわ。こうして会えただけで、嬉しいもの」
もう時間が無い。そう知っているみたいに。
「アルさん……」
明るく、暖かく、鮮やかで、穏やかで。美しい空間は、皮肉にも花の墓場としてこれ以上ないくらい相応しかった。
「最後に見ましょう。彼女の過去を」
アルモニカの申し出は、アンリが逃げていたもう一つの真実。レディに渡されてから、ずっと逃げていた、ステラ……アルモニカの育ての母の過去。
「怖いんです。過去に向き合うことが。真実を知ってしまったら、より苦しくなるかもしれないって、怯えてるんです」
「いいえ、きっと、そんなことないわ」
それでも手の中には小さい瓶があった。
「そんなに嫌なら、私が飲む」
アンリが身じろぎすると、アルモニカの腕の力が強くなる。
「泣いてる顔を、見られたくないわ」
「……」
「だから、目を閉じていて」
言われた通り、アンリは目を閉じた。そっと離れたアルモニカは、アンリの手の中の瓶を拾い上げる。彼はすぐ手を離した。
「綺麗」
灰色の瓶は、太陽の光を浴びて、キラキラと七色に輝く。それは何色でもあり、何色でもない。
「大丈夫よ。あなたも、私も、彼女に愛してもらったから」
彼女はピンを抜き捨てると、それを一気に煽った。
そっと身を寄せて、瞳を閉じて佇む彼の頬に触れると目を閉じた。
「……?あ――」
苦く甘い液体。毒薬のようなそれは、嚥下するとほぼ同時に、強烈な眠気として彼らを襲う。
空の瓶が、カラリと音を立てて転がった。