37話「静かなる戦い」





【数日前 某所】

 メルデヴィナ教団本部所属の三番隊が研究所の任務に着手するより少し前の話。いつも静かな部屋は、珍しく暖かい音と光に満ちていた。ぐつぐつとお湯の沸く音がする。
「シリスさんっていうのはね、父上……エネミ・リラウィッチの会社にいた変わり者、の中でも一番ぶっ飛んでいた人間なんだ。でも、頭が良くってねえ。エネミを食わんとする勢いだったよ。まあ、結局会社はシリスさんの物になったし、特別顧問なんて、形式的には役職は貰ってたがシリスさんは来るの嫌がっていたしね」
 温かい食事を前にして、ぽいぽいと口に運んでいく男。彼の名はジュディ、またはシロウといった。正面に座った男が己の顔をじっと見ていることに気付いたシロは口を開く。
「なんだいその顔。毒でも気にしているのかい?なに大丈夫さ。クロは用心深いねえ」
 すると横からカップを持った男が割り込んできて、皿に盛られた揚げ物を一つ、手で摘んで口に放り込んだ。熱々の揚げ物に苦戦しながらもごもごと咀嚼し飲み込んだ後、彼はやっと口を開く。
「心配する必要は無い。何しろ独り身の男が作った飯だから味の保証はできないが、宿を求めた鳥達に毒をやるほど俺は野暮じゃないね」
 そう語る男は、酷い寝癖……いや癖っ毛の、黒猫のような男だった。服装も実にラフ。切るのが面倒くさかったと言わんばかりの前髪はうざったい程長く、目の色までは分からない。無精髭が何とも言えず彼の性格を如実に表している。
「そうだね!見た目は悪いけど、空腹時には味はそこまで悪くないよう感じる」
「おい、白いの、お前は失礼すぎる」
「シロウって呼んで欲しいのです主よ、ちゃんと名前で呼んで頂きたい。俺はこの名を気に入っているのだから」
「ああそう……ったく面倒なやつだな。それを言うなら俺の名前もちゃんと呼んでもらいたいもんだな」
「あはは、何て名だったかな」
「お前な……」
 シロと男は仲良さげに話してはいるが、ベルガモットにとって彼らの様子は奇怪に写っていた。何しろ出会ったのはつい先程だからだ。


【回想 その半時前】

 ジュディこと、シロとベルガモットは、日を跨ぎつつ黒い瓶で何度も移動した。長距離移動ができるとされている黒い瓶とて、実はさほど大きな距離は移動できないのだ。……どうやら、目指す所は随分と遠くにあるらしい。
 最後に移動した先は、静かで美しい場所だった。壁に囲まれた小さな街で、まるで楽園のようだ。だが、人間がいる気配がしない。綺麗なまま、まるで人がいなくなって時が止まったままのような不気味さを覚えた。
 シロは、その中心にある、とある木造建ての家の戸を叩いた。すぐに出てきたのは、ボサボサの黒髪のみすぼらしい男だった。二人を見て笑みを零した。
「思ったより早いな。髪を整える時間が無かったぞ」
 緩い調子のまま部屋の中に招かれ、ソファーに座らされたのだが、シロはその調子に飲まれないよう意識するかのように立ち上がった。
「全て分かっておられるのでしょうが、敢えて宣言させていただく。我々は、あなたの意志に賛同する者。あなたの手となり足となり、時には鷹になることも厭わない」
 お湯を沸かしていた男は手を止め、シロの方に顔を向けると口元を歪めた。
「……ほう。リューシュカのカラス達が、俺の鷹になるというのか」
 こくりと頷いたシロの顔を見て男は溜息をついたあと、チラリと後ろのベルガモットを見る。
「そちらの寡黙な黒いのはそうではないみたいだが?」
 楽しそうな表情になり、シロはベルガモットを一瞥してから言う。
「そんな筈はない。クロは全面的に俺に賛成してくれると言っている」
「ふーん。ところで……」
 男はゆっくり近付くと、まじまじとベルガモットの顔を見て首を傾げた。
「お前、昔俺に会ったことがあるか?」
 ベルガモットは男の目をまっすぐ見たまま、ゆっくりと首を横に振る。
「ふーん。そうか」
 まあいいやと身を戻し、男は二人に手を差し伸べた。
「俺はオウミだ。よろしく。あとお前達は、鷹に成るべからず、今まで通り烏のままで構わないから」
……

 オウミの比喩に飛んだ不可解な言葉の数々が、ベルガモットの頭の中で巡っていた。だが空腹には勝てず、無意識の内に食事を口に運んだ。
 しかし、ベルガモットはこの男の正体に気付いていた。だからこそ生まれた数々の謎に、彼は静かに頭を悩ませていた。

◆◇◆◇◆

【教団本部 早朝】

 早朝。皆がまだ起き出していない、廊下も薄暗くしんとした時間。そんな早朝に、一人手の中の物を見て溜息をつく者があった。
 水道の蛇口を締め、持ってきていたハンカチで水滴を拭う。血がこびりついていたあの例のプレート(……先日研究所内で見つけたネームプレート)はすっかり綺麗になって、その下に隠されていた文字も、今やはっきりと読み取れる。
 文字を何度も確認するようになぞり、その名を呟く。決心したように目を閉じると、重い足取りの彼は、それを持って本棟三階の医務室へと向かった。

◆◇◆◇◆

【メルデヴィナ孤児院】

 昨晩は雪が降った。朝、窓辺に僅かに積もった雪を見て、メルデヴィナ孤児院の子供たちは大はしゃぎで飛び出していった。はしゃいでいたのは年少組だけでなく、比較的年上の少女もまた例外ではなかった。
「わあーすごい!綺麗だねえ!」
 早速ベッドから飛び出し、キラキラと輝く雪を眺めて、トーレの頬は紅潮した。隣で眠たげに目をこするのは、トーレと同い年ほどに見える金髪の少女、テンである。寝起きで無防備のまま、ずれた寝間着にふわりと乱れた髪。彼女は大きなあくびをした。
「確かに綺麗。それは認めます。でもあんなに寒そうなのに、よく外に出れますね」
 外見の割りに冷めた反応をするテンを、トーレは不安げに見つめた。
「そ、そうだね!寒いよねー」
「まさか出ようだなんて」
「……」
「トーレちゃん?」
 テンが振り返ると、トーレは目を逸らした。テンは溜息をつく。
「私、雪初めてなんです。暖かい装備を貰えたら、一緒に遊んでくれませんか?」
 テンの譲歩とも言える言葉に、みるみる顔が輝いていく素直なトーレ。
「うん!後でお兄さん達も誘おう!」
 そう言い楽しそうに駆けていくトーレの背中を見て、「素直な子」と、テンは少し微笑んだ。

 その後、コートとマフラーと手袋を貰った二人は、本部の中庭に座り込み、雪だるまを作っていた。作ろうと言い出したのはトーレで、テンは完成図を知らないようだった。
「お兄さん達、どこにいるか分かんなかったけど、忙しいのかなー」
「そうですね。昨日帰ってきたばかりのようなので、無理もないでしょう」
 そう言い、ポンポンと雪の玉の表面を叩いた。
 彼らがカナソーニャ・ロヴァイ研究所に行ったこと、そしてあの場所がアンリにとって故郷のような場所であることを、テンは知っていた。無事に帰ってきた知らせを聞き安堵したものの、一度顔を見たいものだ。
「ねえテンちゃん」
 トーレが口を開く。手は忙しそうに雪を掻き集めている。
「最近テンちゃん元気無いよ」
「……そう?」
 意外だった。彼女にそんなことを言われるなんて。心当たりはあるけれど、あなたに何が分かるなどとは到底言えない。テンにとってトーレとは、見た目こそ同世代に見えるが、生きた時間は違うのだ。しかしこれこそが、テンの悩みの種であった。
 無言となってしまったテンをちらりと見て、トーレは少し余計なことを言ったのかもと思い口を噤んだ。固めた少し小さな雪玉を、そっとテンの作っていた雪玉の上に乗せた時、テンは徐に口を開く。
「……私は、本当に私なんでしょうか」
「テン、ちゃん……?」
 その瞳は暗かった。
「時々、私は私であって私でないと、思う。鏡を見る度、何故生きてるのって、責められる」
 小さな女の子を殺してまで、あなたはのうのうとその体で生き続けるの?ずるい、そう責められている気がする。
「誰にそんなこと言われるの?テンちゃんはテンちゃんだよ!生きてて当たり前だよ!」
「……そう?」
「うん」
 その時、周りの子供たちがにわかに騒がしくなった。小さな悲鳴と共に、気付けばテンの顔面が雪まみれになっていた。突然何が起こったのか把握しかねているテンとは対照的に、トーレは立ち上がると「こらー!謝りなさい!」と、雪合戦をしていた子供たちを叱った。
「良いんですよ。おかげで頭が冷えました」
 彼女は顔に付いた雪を払う。睫毛に器用に雪を乗せていた。
「冷えたって……テンちゃ――」
「きっとどんな姿であれ、あなたは私のことを良き友人だと思ってくれているようです。……どちらが年上なんだか分かりませんね。身長も、気付けばあなたの方が大きい」
「あっホントだね!でもテンちゃんもすぐ伸びるよ!」
「いえ、この体は培養体なので、きっとそんなに大きくはならないでしょう」
「……?」
 テンの難しい言葉に困惑するトーレを他所に、テンは足元の雪を掻き集めて小さな雪玉を作ると、振り返り、トーレに笑いかけた。
「私達もしましょう、雪合戦」
「……うん!」
 大きく頷いたトーレもまた、輪の中に入っていくテンの背を追いかけていった。

◆◇◆◇◆

 同日。まだ日の高い頃、報告書を書いていたサクヤの元に、アンリがやってきた。
「すみません。資料室第四領域の閲覧カードが欲しいのですが」
「閲覧カード?あ、ああ、ちょっと待ってくれ」
 班に一枚配られた、中々使われることのない物の名称。だが、サクヤは戸惑うことはなく、また、どこにあったかなどと迷うことも無かった。彼女もついさっき使おうと思ったばかりだったのだ。サクヤは、デスクの二番目の引き出しの箱の中からそれを取り出す。
 礼をして退出しようとする素振りを見せたアンリを、彼女は呼び止めた。
「何に使うつもりだ?」
「何って……調べ物です」
 ああ、確かにそれはそうだろうなとサクヤは笑ったが、ふと真面目な顔になった。
「調べ物、か……偶然、私も使おうと思っていたんだ、そのカード」
「サクヤさんが、何故……?」
 少し俯くと、彼女はキイと、椅子を回して座った。報告書をファイルごと退けると、丁度目の前には、紙に何やら色々メモ書きがされている。
「……私は、少し考えるようになったんだ。私は何の為に、何と戦っているのかと」
「……?」
 サクヤは続けた。
「アーサーにも言ったんだが、あいつは私に何かを誤魔化した」
 悔しそうに、下唇を噛み締めた。
「誤魔化さずとも、私は見つけてやる。そう思って、色々調べていたんだ」
「……サクヤ隊長は、何の話をしているんですか」
「ああ、すまない。少し考えすぎて、説明を忘れていた」
 いつもの真面目な表情で、思い出すように彼女は話し始めた。社長を名乗る男との邂逅、生まれた謎、レイの言葉……。
「――つまり、組織内部の腐敗の可能性についてですか?」
「ああ。私には隊長と言えど大した権限は無いから、実情について深くは知ることはできない。そこで第四領域の閲覧だ。教団の歴史が記された資料のある書庫なら、何か見つかるだろうとな。そう言えば……君の目的は、何だ?」
 彼女に問われ、昨日ローザに言われた言葉が蘇る。
『もしかすると、マザードールの居場所を知っているのに動いていない可能性があるわ。悪魔を討伐する専門機関である筈のメルデヴィナ教団がその力を発揮しきれていないのは、中に内通者がいるから。情報を操作している者がいると考えるのが妥当。あなたにはそれを探してほしい。あなたにしかできないこと、頼むわよ』
「まあ……同じことです」
「そうか。……否が応でも感じるだろうな。今回で、我が組織体系に疑問を抱くのは。考えていたんだ。教団の組織図から考えるにあたり、大きな権限を持っているのはそれぞれの地区のテトラールキ。しかし本部には団長がいるから、西部地区のテトラールキは大した権限は持っていなかった」
「確かに、東国に行った時、本部の存在はあまり感じず、グレイヤー隊長のワンマンで通っていたように感じます。……ベルガモットさんは、違うんですね……?」
 彼女は頷いた。
「しかしベルガモットがいなくなった現在、本来各エクソシスト隊の隊長が務めるべきテトラールキの役職は、私には与えられていない。現在三番隊は圧倒的な実力不足、と言われたんだ。北部から異動してきた者を隊長に据える案が出ているくらいにな。笑えるだろう?……そしてテトラールキの役職は今空座になっていると思っていたんだが、よくよく調べてみるとどうやら、現団長が兼任しているらしい」
「つまり、西地区及び三番隊は、完全に団長直属の組織になったと」
「ああ。そもそも本部は権力者が二人もいて、二重体制だったのが良くなかったらしい。これを機に改革すると。……まるでベルガモットが邪魔だったみたいな口ぶりでな」
 怒気を強めて言った。
「あの人の為にも、私は真実を突き止めなければならない……」
 ベルガモットの人物像は、はっきり言ってアンリにとってはよく分からない。だがサクヤやアーサーから聞く彼の姿は、まるでアンリの知っているものとは別の人物のように語られる。一体何があったのだろうか。だがそんなことより、今自分がしようとしていることは、サクヤの思いとも一致する。これは、少し話した方がよさそうだ。
「サクヤ隊長と、僕はほぼ同じ思いです。その為にも、少し調べ物をします。……できれば、内密に」
「ああ。誰が味方で誰がそうでないかについては少し慎重になる必要があるかもしれない。……憶測だがな」
「……それでは、失礼します」

 サクヤはこの一日、ミーティングルームやその隣の仕事部屋に篭っていた。ミーティングルームにはレイやアーサーがたまにやって来たくらいだったが、夕方になった頃であろうか、眼鏡の文官が書類を持って訪ねてきた。それをサクヤに手渡したあと、彼女はこんなことを言ったのである。
「あのう……ベルガモット元隊長は、なされてました。本部のほとんどの仕事」
 ゆっくりと顔を上げたサクヤ。はっとした眼鏡の女性文官は、慌てて捲し立てる。
「や、あ、あの、昼前にここ通った時に聞こえた話が気になって、あの、ベルガモットさんの話だったから……聞き耳を立ててしまった、わけですけ、ど……」
 真っ赤な彼女は両手を振り回していたが、やがて落ち着いて、両手を前に重ねた。そして小声で話した。
「……私、気になって個人的に調べて分かったんですけど、現団長はテトラールキをまとめるくらいで、本部だからと言って第三テトラールキの力が無かったわけではないんです」
 この眼鏡の文官、名をシャルロット・ラグランジェという。彼女は分かりやすい程ベルガモットのことを敬愛していた。そのことは、他人に無頓着なサクヤでさえ何となく知っていた。
「そうか……でも、どちらにせよ今は違う」
「そうですね。それより……」
「?」
 彼女の眼鏡の奥の瞳が翳る。暫くの沈黙。サクヤが眉をひそめると、彼女は意を決したように口にした。

◆◇◆◇◆

【地下書庫第四領域】

 棚がずらりと並ぶ資料室。その中でもここ地下書庫第四領域は、普通の書類や書籍ではなく、機密事項となる書類が多数保管された場所だ。ここには専用のカードが無ければ入ることはできない。
 歴代団長の資料を見ていたアンリは、あることに気付いた。それは、彼らの出身についてだった。

 そもそもメルデヴィナ教団とは、元々テトロライアで力を持っていた宗教団体だ。ある時から武力を持ち、悪魔に対抗する術を身に付け始めたのだが、本来神の世界に生きる聖職者であるべきであるのに、神を見ずにそちらにばかり力を注ぐ者も現れ始めた。そのことをよく思わない者達と内輪揉めを起こし、分裂してできたのが今のメルデヴィナ教団だ。その独立を先導した初代団長も武器使いであったが、当時彼らは敬遠されることが多かった。そんな武器使いにエクソシストという大義名分を持った名称を与え、各支部長、又団長は武器使いから選出されるという決まりを作り、彼らに明確な立場を与えたのもこの男だ。
 このことはこれまで守られてきたことの筈なのだが、現在団長の経歴は、教会聖職者であり、元枢機卿ということになっていた。……つまりこれは、守られてきたはずの武器使いの立場が危うくなっている証拠だった。

 不審に思い一つ前の項を調べたアンリは、とある見覚えのある顔を発見する。
「……先生」
 サズ・ホリー。過去最年少で団長となった男。東のグレイヤーに聞いた話によると、彼は若年で団長の座に就き、その行動から教会の聖職者などからの反感を買い、平均就任年数を大きく下回る形でその座を引きずり下ろされた。しかも、その理由は彼が魔女であったとされている。
「反感、どころじゃなさそうですね」
 少し残る、ページを破りとった跡を指でなぞりながら呟いた。余白には、彼が謀反を起こしたことや、その後行方をくらませたことが明らかに後から書き込まれており、赤インクの「特定指定魔女」の判が目立つ形で押されていた。資料には「正しいこと」が書かれているはずだが、少なくとも最初はそうであったのだろう。この破られたページには一体何が書かれていて、そして今何処にあるのだろう。

 ふと何かの視線に気付き、顔を上げた時、目の前には室内にも関わらずマントを着用した教団員の男が立っていた。誰もいないと思っていたためどきりとしたアンリは反射的にページを現在団長のページに戻した。
「おや、調べ物かい?その資料、奥まった所にあって、探すの大変だっただろう。戻す時は、別の場所の方がいいな」
 そうフランクに話しかけてきた上級官の男。名を何と言うんだったか……アンリがそう彼の顔をまじまじと見ていることに気付いた男は、「ああ」と笑った。
「僕の名はレイクレビンと言う。君のことは知っているが、君は僕のことは知らないだろうからね、失礼した。――本部一般隊第四班の班長であり、三番隊と仕事をすることもあるが、君とはまだ無かったね」
 レイクレビンはアンリの手元を覗き込んだ。何か話さなければ、そう思い、アンリは口を開く。
「団長は、代々テトラールキから選出されるんですよね。今はどうして違うんでしょうか」
 アンリの問いに、彼はふうむと顎に手を当て暫くしてから答えた。
「君は知らないだろうが、先代が事件を起こしてね。それ以来この制度は見直された。エクソシストという随分限られた少数から選出された実力者四人、その中の一人が次期団長になるという方法はあまりに乱雑であるとね。今はお試し期間みたいなものさ。さしずめ、団長はお飾りで、スポンサーや教会のご機嫌取りの為だけの形式的なものだけどね。要するに、以前と大して変わらないよ」
 納得のいく答えだったが、アンリの探していたものはここには無いようだ。書類を仕舞おうと席を立ったアンリに、レイクレビンは意味深に微笑みかけた。
「おや、どこへ行くんだい?僕の話はまだ終わってないぞ」
「なっ」
 突然呼び止められたことに酷く動揺した。だが彼の口から出たのは意外な言葉だった。
「君には、本当のことを教えようか。なんせ、君の父親のような人物についての話だ。気になるだろう?」
 彼の言葉に、アンリはゆっくり瞬きをする。
「父……親……?」
「邪心、もしくは言い過ぎかもしれないが、君にとってサズ・ホリーは、父親のようなものではなかったか?大事な人だっただろう。君が何を調べようとしていたかは知らないが、その書類から消されたページ……サズ・ホリーのページの在り処は私が知っている」
 そう言って近付くと、そっと耳元で囁く。
「団長室の奥の本棚は隠し扉になっている。スイッチは青い聖書だ」
 離れると、周囲を見渡し、誰もいないことを再度確認したようだった。
「余計なお世話かもしれないけどね、僕だったら知りたくて知りたくて仕方ないと思って」
 彼は悪戯っぽく笑って見せた。
「僕の父も教団員だった。僕がこの地位に就いた時には既に故人だったけどね。影を追いたくなってしまうものだ。君もその口だろう?」
 本当は、その為に調べ物をしていた訳では無い。だが、言えない理由の為にこそこそと嗅ぎ回るより、何かそれらしい理由の為に動いているということにしておいた方が何かと都合が良いだろう。目の前のレイクレビンという男の言うことは、使えると思った。
 先生……サズ・ホリーのことを調べるのは、この組織の中では褒められたことではない。存在自体、組織が隠蔽したいことだからだ。だが、このレイクレビンや東のニルス・グレイヤーのような、「組織的にはタブーと理解しているが個人的には容認している」人間がいることもまた事実。そんな状況だが危険な橋を渡ってでも、父のような存在のことを知ろうとする少年という構図。それは本来の目的とほぼ危うさは変わらないが、目を瞑られる可能性は上がるかもしれない。
「……本当は、大きな声で言えることじゃないと分かっていました。こんなに隠されているんだから。ですが、あなたのような立場のある人間が、僕にそんなことを言ってもいいんですか」
 真っ直ぐ目を見つめると、ははと彼は笑い、瞳は弓なりになった。
「はは……言っただろう?僕も父を追い、真実を知ろうとした身だ。君の気持ちは分かる。なにかねその顔、僕の言葉を信じていないのかい?」
「いえ……そういうわけでは」
「……まあ自由にしたまえよ。僕のことが信じられないなら、行かなければいいだけなのだから。僕は嘘をつかないし、僕自身は何もしないよ。ああそう、この本は私が仕舞っておくよ。元あった場所にね」
 ひょいと卓上の資料を取り上げ、小脇に抱えてその場を離れた。本棚の森の中、まさに消えたと言うのが相応しかった。足音は遠くなり、やがて部屋の扉を開閉する重い音が聞こえた。

◆◇◆◇◆

【???】

 彼女の刻は、ゆっくりと過ぎていた。

 アルモニカはアンリに手を引かれ、白い世界にできた裂け目へと歩を進める。消えたアンリを追いかけ、アルモニカも今に踏み込もうとした直後、後ろ髪を引かれる思いがして彼女が後ろを振り返ると、そこには懐かしい顔があった。
「……!」
 足を止め、思わず手を離すと、目の前にあった裂け目は消えて、一人だけになっていた。だが、それよりどうしても背後にいた人物のことが気になってしまった。真っ白な世界にぽつんと置いてある木の椅子に座った女性。駆け寄り、彼女は膝を折った。
「お母さん!」
 椅子に座っていたのは、柔らかい雰囲気を纏った女性だった。長く、淡いブロンドの髪。白衣を着ている。アルモニカ自身は知らないが、この女性はエメラリーンに酷似した女性。同時に、アンリの記憶の中にいた研究員の女性、ステラであった。微笑んだ彼女は黙ったまま、アルモニカの頭を撫でた。懐かしい感覚、心のどこかでずっと待ち望んでいた感覚に、アルモニカの瞳は潤む。しかし、ふとあることに気づく。
「その目、どうしたの……?」
 彼女の瞳は白く濁っていた。ステラは首を横に振った。
「何をしているのですかフリィベル隊員!」
 突然声がして、振り返ると真後ろに狐……先程先陣を切って世界の切れ目へと抜けていった筈の、狐の姿をしたグレイヤーが立っていた。彼はアルモニカを急かした。
「ここに留まるのは危険だとどうして分からないのですか、全くあなたは、ああもう、説教をしている時間はありません。いいですか、もし彼があなたから離れたら、あなたは永遠に帰れなくなってしまうかも知れないのですよ、私の力でもってもね!」
「アンリは、私を置いていくような人じゃないわ。……あ、じゃないです」
「ああもう!これ以上は距離の離れた私には無理です!先に行かせていただきますよ」
 そう叫んだ白い狐は、アルモニカの返事も待てないと言った風に背を向けて走り、白い世界に溶け込むように消えた。
「アルモニカ、」
 優しい声。顔を向けると、ステラは微笑んだ。
「誰も恨んではいけないわ。人も、悪魔も、運命も」
「お母さん……」
「そして、私のことを忘れて」
「嫌だよ、なにそれ、そんなの嫌だよ!」
 流れ落ちそうな涙は、首を横に振った時に左右に散った。
「……嫌だよ、お母さんのこと忘れるなんて……!」
「いいえ。あなたは、あなたの為に生きなくちゃ」
 その言葉にはっと顔を上げる。「でしょう?」と悪戯っぽくステラは笑った。
「自分のことを大切にしなさいと、私はあなたによく言ったものよ。忘れてしまったの?そんな訳ないわよね。……私はあなたの苦しむ姿は見たくない。あなたが、私のことを忘れられず苦しむ姿も」
 彼女の言葉に、アルモニカは思うところがありじっと俯いていた。
「あなたこの人に言ったわよね。自分のことを大切にしてと。他人には言えるのに、自分のことになると、分からなくなるの?」
 ステラの優しい声に導かれ、己の矛盾に気付いていく。アルモニカはぽつり、ぽつりと素直に吐露し始めた。
「本当は分かってた。無意味なことだって。やめようと思うんだけど、敵討ちを掲げていなきゃ、苦しくて。……でも今回でね、終わりにしようと思っていたの。ちゃんと生きようって、思ったの」
 顔を上げたアルモニカの頬に、ステラはそっと手を当て微笑んだ。
「そう。偉いわね。……大切なものは何かしら。少なくとも私ではないわね。過去ではなく未来を見なさい。アルモニカ、今生きているあなたの世界が全てよ」
 アルモニカは頷いた。
 母が死んだこと、それは受け入れ難い事実であった。けれど、そのことを受容し、新たな憎しみを生まないことが、彼女の言う忘れるということなのだろう。
「ああ、最後に一つ、お願いが。この人のこと、見ていてあげてほしいの」
「この人……?」
 ステラはええ、と微笑んだ。アルモニカが辺りを見渡しても、やはりだだっ広い白が広がっているばかりで、何もいるように見えないが。
「この人。この部屋の主」
「……もしかして、アンリのこと?」
「そう。とても危なっかしいから、あなたに見てて欲しいの」
 危なっかしい。そう形容された、彼の姿。記憶の中で、彼は怪我をしていたり、また、弱々しい微笑みを浮かべた。
「そう、そうね。……何か抱えているのに、私に話してくれないの。私には何も出来ない……でも、このままじゃ本当にどこか遠くに行ってしまいそうで……怖いの」
 そう不安げに零すと、ステラはその濁った白い瞳でアルモニカを射抜く。
「本当に何も出来ない?」
「だって、前だって結局私には何も話してくれなかった。私じゃ、力になれなかった」
「伝えることは大事よアルモニカ。相手が頑固者なら、こちらとてしつこくしなくちゃ。それとも、愛想を尽かしたの?」
 アルモニカは大きく横に首を振った。
「それなら、」
「でも、しつこくして、嫌われない?」
「……嫌われて、欲しくないの?」
 ステラの言葉に思わずはっとした。やがて自分で認めるように、確認するように、口にした。
「……私、やっぱり好きなんだ。きっと、ただお節介焼きたいとかじゃない。嫌われたくないと思ってる。どこにも行って欲しくない……ずっと」
 立ち上がったアルモニカの両手を取り、ステラは言う。
「大切なものは見つかった?」
 アルモニカは頷いた。
「やるべきことにも気付いた?」
 この問いにも彼女は頷いた。
「じゃあ、迷うことは無いわ。行ってらっしゃいアルモニカ。夢の世界でなく、現実の世界へ」
 微笑んだ母の姿は、真っ白な光に包まれ、やがて見えなくなった。


◆◇◆◇◆

【本部第一棟 一階】

 眼鏡の文官……シャルロットの話を聞いたのち、サクヤは急いで書庫へと向かっていた。その途中、人気の少ない区画の一角、その廊下で、見慣れぬ人影を見つけた。
 白と黒の教団制服ばかりの本部だが、その姿はまさに奇怪に写った。赤い服、いや、ほぼ色違いの教団制服だ。赤と黒を基調とし、金糸がワンポイントで入っている。そして左腕には白い腕章。数字は無く、恐らくアルファベットのN。それを着ているのは、艶のあるストレートの黒髪、そして切れ長の目を持つ女性。まるでこの建物に昔からいたかのように我が物顔で闊歩しているが、こんな人物、またそんな服装の部隊は、サクヤは見たことがなかった。そのことが、強烈に違和感を覚えさせた。
 だがそんなことはお構いなく、赤の彼女はサクヤと目が合うと、ずんずんとこちらに歩いてきた。サクヤの目の前で立ち止まると、こう口にした。
「こんにちは。サクヤ・ロヴェルソン」
 なぜ名を知っているのか、なぜこのタイミングで話しかけてきたのか。呆気に取られていると、彼女はお構いなしに続けた。
「あなた、妙なことしようとしてるんじゃないかしら」
「……それは、一体」
 そう答えるのがやっとだった。そんなサクヤに、赤の女性はふふふと優雅に笑った。
「忠告しようとしたのに、ふふ。あなたの部下、どうしようもない所まで行ってしまうんじゃないかしら。ふふ、可哀想に」
「……行かせてください」
 彼女を避けて進もうとしたサクヤの前に、彼女は腕を伸ばしてバンと壁にもたれ、強引に引き止めた。
「できないの」
「私は、彼を止めようと!」
「ああーら残念!」
 彼女が声高らかにそう叫び、大仰に両手を広げた時、けたたましいサイレンが鳴り始めた。
「もう遅いの。せいぜいあなたは同じ徹を踏まないようにね」
 意地悪そうに微笑んだ赤の制服の女性は、背を向け歩き出すと、角を曲がりその姿は見えなくなった。サクヤの後ろから何人もの一般隊員が駆け抜けても、放送で名が呼ばれても、サクヤの中では、あの赤い女の言葉だけが響き続けていた。







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