「ようこそいらっしゃい。私の愛するアリア・レコードへ」
ここはアリア・レコード。実際には存在しない、夢の中だけの精神世界。
図書館の一角や書斎を彷彿とさせる小さな部屋だが、この部屋には幾つか超自然的な要素がある。その空間には基本的には本棚と椅子しかなく、並んだ本棚は天まで届きそうな程の高さで、天井は見受けられない。その中心にある簡素な椅子には、常に柔らかな微笑みを湛える白い女性が座っていた。白というより、透き通っていて部屋の青色に染まりかけている印象を受ける。
彼女が口を僅かに開くと、止まっていた時間が動き出した。穏やかで優しい声が部屋中に響き渡る。
「あなたはもう、私が誰かを知っている。私がステラだと知っている。私はあなただけれども、あなたはステラじゃない。私はステラだけれども、ステラは私ではないのです。もう、私はあのエメラリーンではないのです」
昔からエメラリーンの言葉は難解だけれども、彼女が嘘をついたことは一度も無い。
「……それなのに、どうしてまた出会えたの?そう思ったことでしょう」
彼女はくすりと微笑んだ。
「さよならを告げても、また出会えることもあるのですよ」
その声に乗って、彼女の膝に置いた本が、突風でも吹いたかのようにバラバラと音を立てて捲れ始める。それは破れて吹き飛び、風は本棚の本をも巻き込んで、一面を真っ白にする。
「さあ、答え合わせの時間です」
◆◇◆◇◆
アリア・レコード。それは、かつてとある研究者が一生をかけて開発しようとしたとされる、大量の情報を記憶できる装置のことだった。
「彼の名はエゼル・ファル・アリア。彼は相当な変人で、晩年は若い頃から夢見た計画に心血を注いでいた。畢竟、取り憑かれていた」
白衣に身を包んだ研究員の男、シリスは目を細めて語る。
「この世の全てを知りたい。それは誰しも思うことだよね。彼もまたそんな研究者の一人だった。僕は、夢を本気で叶えようとした彼の姿に憧れたんだー。
君が研究所の被検体であったことは自分でも気付いているね。君が一体何の研究に関わっていた被検体かは知らされてもいなければ気付きもしなかったろうけど。君……失礼、Lー06通称ルクスは、アリア氏の親族である研究者によって記憶に関する研究に関わっていたんだけど、後に適性が認められてアリア氏の管轄下になったんだ」
まるで物を扱うかのような良いよう。だが、これでもシリスは彼なりにマイルドな表現を選んでいた。
「君がここのところずっと探していた、この世のどこかにあるというブック、全知の書……即ち霊的存在である生命の書は、確かに存在はするけれど、それは霊的な存在に留まり、現実世界に顕現することは無い。アリア氏の夢は、その生命の書を現世に引きずり下ろすことだった。
なんてことは無いよ。この世の情報をできる限り貯蓄し、時に起こりうる未来を計算によってかなり正確に予測する、ただそれだけのシステム。それがアリア・レコード。――それだけなんて言ったけど馬鹿にはならないよ。なんせ完成直後、起動時の消費電力は予想以上のもので研究所全体が一時停電したという程だからねー。本当、僕が当時別の研究所に飛ばされてて良かったよー」
驚いた?とシリスは笑う。それを静かに聞いていたアンリは、おかしい、とだけ言った。
「うん?おかしいって?」
アンリは頷く。
「聞く限り、その装置には僕が必要な理由が無い」
「……そう。そう!そうなんだよー!」
まるで正解と言いたげに、シリスはアンリの両手を取って振り回し子供のように跳ねた。
「アリア氏が作ったのはただの大容量記憶演算機、それに人間を使う必要なんて本当は無い。そうだろう。けれど彼は、そこに人間の意思を組み込むことで、更なる展開を図ろうとした!」
シリスのボルテージは上がっていく。
「真なるもの、無なるもの、全なるもの。それらは、金属から出来た魂のない機械には表層をなぞることはできるかもしれないけれど触れることはできない!霊界を見てきた人間を介することで、時間軸さえも超越し、それは完成するらしい!頭おかしいでしょ!最高だよね!」
シリスは両手を胸の前で合わせうっとりと微笑んだ。
「けれどそのおかしな理論に狂わされたのが僕なんだ。どうしても見てみたい。完成間近に病死したアリア氏の夢を叶えてあげたい。彼が夢見た世界を見てみたい。例え非現実な夢物語だとしても、あのアリア氏が言ったことだ、やってみる価値はある。これは世紀の大発明なんだ。――これは本心。本当だよ。客観的に見て、僕は本当に頭がおかしいんだー」
シリスは両手を広げてくるりとアンリに向き直った。
「という訳だよ。分かったー?」
「……分からない」
「えー?!やっぱり難しい?何が分からない?何から説明し直そうかなー?」
アンリは首を横に振り、溜めた肺の空気を一気に吐き出す。
「理解したくない」
「うん。常人の反応だねー」
落ち着きを取り戻したシリスはあっさりとした様子で、近くの椅子に腰掛けた。
アンリはシリスの語ったことを全て理解してはいなかったが、最低限のことは理解していた。
「霊界とか、そんなもの、無い。そんなの、あり得ない。――でも、謎は解けました。自分のことも、探し物の場所も、世界の救い方も。……エメラリーンが、何故ずっと黙っていたのかも」
「エメラリーン?」
シリスが怪訝な顔をした。その反応に、アンリはビクリとしたが、シリスはあまりアンリのことは気にしていない様子でデスクから適当に紙を引っ張り出すとぶつぶつと独り言を零しながらペンを走らせる。
「別に気にすることは無い。一番中核のセキュリティシステムの名前がエメラリーンというだけだよ。確かに最も破損が大きかったねー」
それでだ、とシリスは体を起こす。
「タイムリミットは花が咲くまでになるだろうけど、僕はそんなに急ぐ必要は無いと思ってるよ。開花時計によると、少なくともまだ三時間はあるみたいだしー?――それまでの間に聞きたいことがあるんだ、さっきエメラリーンって言ったでしょー?それって会話したってことだよね。システムと会話?どういうことなの?どうなってるの?とても気になって仕方が無いんだけどー!」
ペンを持って無邪気に迫るシリスと対照的にアンリの表情が曇っていたのを、彼はしっかり読み取ったようだ。アンリに静かに語りかける。
「君は嫌?僕達の夢を叶えること。受容できない?」
アンリはゆっくりと首を横に振った。
「今まで、僕はずっと分からないでいました。断片的な研究所の記憶、エメラリーンの言葉。あの男に不幸だと言われた意味も。全てが分かった今、寧ろ、事態は好転していると思います……」
「では、不安かい?」
アンリは暫く沈黙を続けていた。やっと開いた口から出た言葉は、まるで絞り出したようだった。
「僕は生きてと何度も言われたんです。過去の大切な人から、今の大切な人から」
命を賭して彼を逃がした女性、ステラの最後の言葉。死んでしまいたいと零した時、泣いて諭してくれた、アルモニカの言葉。これらは、彼にとってある意味呪いのように染み付いていた。
シリスは真面目な顔で首を傾けた。
「レコードへと還ることは死ぬことかい?」
彼の言葉はある意味的確であった。
「寧ろ、対極にあるものだと僕は思っているよ。生を全うすることとは、与えられたその役割を全うすることだよ。……失礼、無論、これが君の役割だとは言わない。僕達が押し付けた役割だから。でも、それ抜きにしてもやっぱりここが終わりだなんて、僕は思わないよ。とにかくね、――待って、」
シリスの懐の通信器が鳴動する。彼は会話を中断させ少し部屋の隅に歩きながら、それを耳元に近付けてそのまま向こうの相手と話し始めた。
その間、アンリは気持ちの整理を試みていたのだが、彼の会話の内容に引っかかる部分があった。
「……ふーんそう、彼女を始末するなんて、僕にはどうでもいい情報だね。何故報告したのか。僕にはレコードがいればいいから。ああそう、切るよー」
通信器をポケットに仕舞い込むシリスに、アンリは眉を寄せた。
「……誰を始末するって」
「君には関係の無い話だよ」
「ステラと聞こえました」
その言葉に、シリスは手を止め苦い顔をした。話そうか話すまいか思案しているようだった。
「ううん……隠すことでもないか。少し長い話になるけれど。――昔、エネミ・リラウィッチが花の種を作った同時期に、種を守る花守の役割を果たす悪魔を作ったんだ」
花守、その単語自体にアンリは聞き覚えがあった。
「花守は、リィンリィンさんのことではないですか」
だがシリスは首を横に振った。
「違う、役職の話ではなくて、生まれ持った能力の話」
要するに花と似たような物なんだけど、とシリスは語る。
「花守は花と共にいて、離れてしまっても花の場所が分かるんだ。……でも失敗したと言っていた。花の種と似たような方法で作られた花守の石だけど、悪魔に定着させようとしたのが良くなかったんだ。結果エクソシストに殺されちゃった。この時誰がこの事件に携わっていただとかは、詳しく調べてないから分かんないんだけども」
失敗作がどのような末路を辿るのかは分からないが、それが仇となり、教団に見つかり排除されたのであろう。シリスがいつの時期の話をしているのかはアンリには分からないが、恐らく入団より以前の話だろうと彼は推測していた。
「花守が死んでから暫くは、君の言う通りの意味が正しかったのだと思うよ。あの悪魔のように、君のことを守る者。……けど今は違う。――花守は生きていたんだ」
「生きて……いた?」
シリスはにやりと笑う。
「死んだ筈の花守が、別の姿を成して見つかった。
……でも考えてみてご覧?花の位置が分かる人間……花守は、その本質を宿しているだけに留まり完全に能力を制御できているとは限らない。己の役職は生まれた時に言い渡されない限り自覚はできないだろう。もし、そんな人間がひょんなことから自分が花守であると自覚したら?君を殺そうとしている人間達に利用されたら?充分可能性のある話だ。エネミ・リラウィッチの管轄下にあることで当時メリットだった花守は、デメリットにしかならなくなった。そうでしょ?だから始末するの」
ぐるぐるとテーブルの周辺を周りながら話すシリス。アンリは嫌な予感がしていた。
「それがステラさんと何か関係あるんですか」
ぴたりと動きを止め、彼はアンリの顔を見た。
「ステラ・フリィベル。確か君達の世話をしていたね。花守は、彼女の戸籍上の一人娘だってだけ。別に君には関係な――」
接近していた彼は思わずシリスの白衣の襟を掴み上げていた。シリスの間抜けな悲鳴と同時に、天井裏から、部屋の外から、武装した研究員数人が飛び出し銃を向けた。
「君達ー、まだ撃たないでね」
掴み上げられたまま出した声は、場の緊張感を打ち壊しかねない物だったが、研究員達の武器はアンリに向いたままだ。対して、アンリの瞳は暗がりで限りなく金に光っていた。
「……さっきの電話相手、誰」
「は、話すから……ちょっと落ち着こう?僕はどっかの誰かさん達と違って暴力的なこと苦手なんだよね……」
シリスは研究員達をちらりと見遣った。それに気付いたアンリはゆっくりと手を離す。解放されたシリスは、咳込みわざとらしく白衣の埃を払い、そして研究員達を下げさせる。
「……君には関係無いだろう?知人?恩人?の娘ってだけで――」
「関係無くない!」
思わず出た大声に、シリスは肩を跳ねさせる。
「……関係無くない。その人も、僕にとっては大事な人なんです」
「かわいそ。……はあ」
溜息をついたシリスは暫く唸ると頭をかいた。
「……オウミさんっていう人がいてねー。あの人がレコードの完成に向けて沢山力を貸してくれてる。電話相手はその人だよ」
オウミ。それはとある神の名だった。だがその由来をアンリが知る由もない。
「僕が君の靴を舐めて行かないでと頼んでも、君は行くんだろう」
シリスは遠い目をした。
「僕は、ただ夢を追いかける人格者だ。……時々、こんな世界生かし続ける意味があるのかと考えてしまうよ。ねえ、世界は哀れだと思わないかい?人間と悪魔が憎しみ合い、殺し合うだけの世界。これはエネミさんが作った世界なんだよ。僕はね、こんな世界変えたいと思ってたんだー」
そう語る白衣の男は、ただの一人の研究員だった。
「ただ少し、最後に少し、僕の話を聞いていって。大事な話だよ」
そう言いゆっくりと近付いたシリスは、アンリの耳元へと頬を寄せる。直後、アンリの視界は大きく揺れ、体が傾いていることに気付く。
「――う」
遅れてやってきた、首筋の刺すような痛みと熱さ。視界の中の白衣が揺れている。
「何……を……」
「君がこれからどこへ行こうと、関係無い。だって、君は何があっても必ず僕の元に帰ってくるんだもの」
霞む彼の視界が捉えたのは、注射器を置き、薄ら笑う白衣の男だけだった。
◆◇◆◇◆
【戦場】
開戦して間もない頃、ガーディの一人の投げた閃光弾の直後に黒の瓶をかけられ、最前線にいたサクヤは戦場の端まで飛ばされた。
戦場は広く、複数箇所で戦いが起こっていた。主に、分散していたエクソシストの周辺にガーディ勢力が群がる形となったのだが。
今すぐにでも中心に戻り、隊長のサポートをしたい。そんな想いで戦場を走るサクヤは、高らかに自分の名を呼ばれているのに気付いた。
「あなたの相手は私よ子猫ちゃん!」
「!?」
よく通る女の声。サクヤはこの声に聞き覚えがあった。
「返事が無いわね!それとも、エーネの方が良かったかしら?」
「誰だ!」
花の香りと共に長い黒髪が揺れる。瓦礫の山を滑り降りてきたのは東の顔立ちをし赤い衣を纏ったガーディ。彼女の事をサクヤは知っていた。本部で声を掛けてきたこと、そして、開戦直後に一度剣を交えたこと。波紋が蒼白く光る美しい刀身の刀を使う女だ。
「何故、その名を」
不審そうなサクヤの表情を見て、露骨に嬉しそうな顔をした和国の女……アンネゲルト・ミカミは、ぶんぶんと頭を振ると、静かに腰の刀を抜き、構えた。
「ふふ、何故?何故ですって?」
彼女はサクヤが一切予想だにしていなかったことを平気で口にする。
「ふふ……何故なら私も被験体だったからよ!さあ、お話ししましょ!」
猟奇的な笑みを浮かべて迫るミカミを見て、腹を括ったサクヤは双剣、アレンとアレスを抜いた。黒髪が、内側から赤く染まっていく。開いた瞳に赤く焔が灯る。
「私は三番隊副隊長、サクヤ・ロヴェルソン!エーネと呼ぶな!」
「分かったわサクヤちゃん!」
激しくぶつかり合う剣と剣。刃の纏う焔と水がせめぎ合う。
「私はね、ミカミって言うの。渾名は忘れてしまったわ、ナンバリングもね!」
ミカミは刀身の水量を上げて何度も斬り掛かる。独特の太刀筋に、サクヤは少々苦戦しているようだった。避けきれなかった切っ先が、彼女の肌に傷を作る。
「私はAタイプ、あなたと一緒ね。研究室からあまり出して貰えなかったからあの建物のことはよく知らないけど、同じ研究室出身だから、あなたの噂は常々聞いていたわ!最初にして最高のエーネ!お陰で私達はいつも下位互換扱いだったわ!別に今はなんとも思わないけれど!」
「過去の話なんて関係無い!私は、今の私はあの頃とは別だ!」
「そう?でも過去と今は地続きよ。あなただって、本当はこっち側に付くべきなんじゃないの?」
「適当なことを……!」
水の蒸発する音がする。熱気に押され、ミカミは飛び退き、距離を取る。だが話すことは止めなかった。
「そうだわ。あなたも、私も、共通点はいっぱいあるのよ。人種、故郷、経歴、でもね、」
ミカミは蒼白い刀身を大きく振る。どこからともなく現れた清流が、彼女の周りで渦を巻き始める。
「あなたに武器が与えられた当時、武器はその適合者しか使えなかったけれど、私の代は違う!」
それを聞いたサクヤは、少しの間の後ぼそりと呟く。
「抗体が、あるのか……」
水量が増え、渦は彼女の背丈の二倍程の高さに達する。
「当時、死んでいたかもしれない私と運が良いだけのあなた。運で生き残ったあなたと違い、私は実力でここに立ってるの」
どんな攻撃が来ても良いように、少し距離を取ってサクヤは身構えた。逃げても無駄よとミカミは笑う。
「唸れ、蒼龍……!」
とぐろを巻いた水の龍が滝のような轟音で鳴くと、曲がりくねりながらサクヤの元へと迫る。サクヤは避けられないと察知した。彼女の周りに上昇気流が起こる。小柄な体から発せられる、地を揺らすような叫び声。
「構わん、来い!」
青い剣と赤い剣、二つの剣を頭上で打ち鳴らす。心地よく響く金属音と共に、業火が彼女の周囲を包み蒼龍を受け止める。だが所詮は火と水。どちらが優位かは火を見るより明らか。
「悲しいけど、あなたにはここで龍に砕かれて貰うわ!」
しかし、サクヤの本気はここで終わっていなかった。静かに武器の名を口にする。
「解き放てアレン、」
異変に気付き、ミカミは思わず息を呑んだ。
「逆巻き狂え、アレス!」
爆発が起きたように炎の渦は大きくなり、それは鎧を纏った戦士に姿を変える。
「な、何よそれ!」
半身の焔の武神アレスは、煌々と燃える両腕で剣を握る。
「運だと?」
迫っていた青龍は、アレスの剣に押し負け始めていた。ミカミは歯を食いしばる。もう冷や汗さえ浮かばない。
「火の勢いが、強い……!」
「運で生き残れる程生易しい世界ではないと、お前も分かっているだろう!私とお前は違う!私は彼らと共にここにいる!」
「……ッ。ああ……」
ミカミの瞳が捉えたのは、業火の中に見える光。
「綺麗ね……」
ミカミが敗北を悟った瞬間、水は一気に衰え四散する。衝撃で彼女の刀は真っ二つに折れ、彼女自身も焔の衝撃を浴びる。サクヤが直前で手を抜いたとはいえ、主に右腕の損傷は激しかった。
水分が熱で気化し、濃い水蒸気が辺りを覆っている。赤い制服を焦がし、腕に火傷を負った女は、折れた刀を片手に呆然と座り込んでいた。
戦意が無いと判断したサクヤは、二つの剣を腰の鞘に収める。赤い髪が、生え際からすっと黒に戻っていく。
「よく知っている奴に、水を使う奴がいてな。お前がどうかは知らないが、どこからともなく水が無限に出るわけがない。ここら一体、よく燃える。それに、あいつにできたんだから、物質のコントロールは、私にだってできる」
「ふん……何言ってるのか、全然分からないわよ……」
ボロボロになったミカミは乾いた笑い声を立て、ゆっくりと立ち上がる。
「ねえ、子猫ちゃん、私達、もっと話したかったわ」
一歩、また一歩と彼女は踏み出した。
「この戦いに勝って、あなた、どうするの?今までみたいな世界が、また続くだけなのに」
「……そんな訳ないだろう、ピコは手を引くと言った」
「そうかしら。でも、人間が醜いのは変わらないわ。あなた、そこにいて大丈夫なの?」
ミカミの言葉に、サクヤはほんの少し動揺した。
「お前こそ、この戦いに勝ったらどうするんだ。何の為に、戦ってるんだ」
サクヤの言葉に、ミカミは立ち止まる。
「何の為?何の為だろう……」
「……」
ミカミは空を仰いだ。
「きっと、ラスボスはもう死んでるの。でも後片付けが終わらなくて、私達、不必要なダンスを踊らされているだけなのよ」
痛みに歪んでいた表情は、笑みを浮かべようとして、次第に奇妙なものになっていく。
「さあ、おしゃべりはお終い。最後の、とっておきよ……!」
体勢を低くし彼女が走り出した瞬間、サクヤは鞘に収めた剣に手を掛ける。ミカミの左手には折れて短くなった刀が握られていた。だが、彼女はそれを高く放り投げる。
「!」
サクヤが呆気に取られた瞬間、視界の端が、すぐ目前まで迫ったミカミを捉える。ミカミは歪んだ笑みを浮かべ、懐から取り出そうとしていたのは、赤い球体。爆弾のようなもの。
「じゃあね、子猫ちゃん」
自爆する。――サクヤは瞬時にそう悟ったが、もう、避けられる距離ではなかった。
刹那、眼前の女の上体が大きく揺らいだ。
「!?」
「ひっ……きゃあああ!」
彼女の左手から、氷塊が零れ落ちる。そして空になった左手は指先から凍り付き、侵食するように氷の華が、腕の内側から咲いていく。
「氷――」
その正体に気付く前に、サクヤの体は宙に浮く。あっという間に彼女は大分安全な場所まで退避していた。
体を地面に降ろされる。サクヤは振り向き、助けてくれた部下の顔をまじまじと見た。
「大丈夫ですか、サクヤ隊長」
「ふっ……全く、遅いぞ」
怒られた犬のようにシュンとした部下……アーサーに、サクヤはふわりと微笑む。
「本当に、ありがとう」
「……はい」
彼は照れ臭そうに笑った。
アーサーはミカミを殺そうとはしていなかった。現に、華の侵食はすぐに止み、棘のような氷もじわじわと溶け始めていた。
しかしミカミの腕は、もう使い物にならなかった。武器を無くし、懐に忍ばせていたとっておきも失くし、彼女はもう戦うことができなかった。彼女は座り込み、折れた自分の武器を見つめていた。
「壊れたっていうのに、なんて声を掛けてあげればいいのか分からないわ……。私、あなたの声も、名前も知らなかったのね……」
ミカミには魔魂武器が使えた。だがそれは研究社の薬の効果によるもの。どんな武器にも適応するが、その本質までは理解できない。そう、本来適合者には聞こえるという、武器の声というものが聞こえなくなるのだ。そのせいか彼女にとって魔魂武器はただの大きな力を持った武器であり、それ以外の何物でもなかった。結局、武器との対話をしながら生き抜いてきたサクヤとの間には雲泥の差があった。そのことに気付いていないと、ミカミ達は勝てない。
「ミクス、どこかしら?――そうだわ、あの子、兄弟をずっと待っていたんだったわ」
カラカラに乾いた喉を震わせ、彼女はフラフラと歩き出す。
「ふふ、一人で泣いてないかしら……」
涙の出ない体で、彼女は大切なものの心配をしていた。
「気になりますか」
サクヤはハッとして振り返る。じっとミカミの背中を見ていたことに自分でも気付かなかったらしい。彼女は首を横に振った。
「いや、……行こう」
歩き出したサクヤに、アーサーはあの、と声を掛ける。
「隊長。隊長の過去とか昔聞いたけど、だからと言って隊長が今敵だとか、そんなの考えたことないですから!」
「……!全部、聞いてたんだな」
ぐっと堪えたサクヤは振り返る。
「アーサー……実は、お前に、」
アーサーはへへ、と笑った。
「遅くなってすみません。俺、真っ先に隊長のとこ行こうと思って来たつもりなんすけど、結局黒の瓶はズレますね。今回だいぶズレちゃって」
「きっちり私の側に来てもらっても困る。お前を燃やしていたところだったんだぞ。――そうじゃなくて!」
「?」
サクヤはずんずんとアーサーの前まで来ると、彼の左腕を掴んだ。
「お前は副隊長失格だ!」
「え!?」
青い顔のアーサーの腕から副隊長の腕章を剥ぎ取る。困惑しているアーサーに、サクヤは彼に自分の腕を見せつけた。そこに光るは星。副隊長を表すマーク。
「ベルガモット隊長が、帰ってきたんだ」
「ベルガモット、さんが……?」
サクヤは頷く。驚いた顔をしていたアーサーは、やがて、歯を食いしばり下を向いた。
「……こんなに嬉しい降格って、無い……」
「ああ……」
サクヤは、自分より大きい部下を、子供をあやすように抱き締め背中を叩いた。
落ち着いたアーサーは鼻を啜り、ふと零した。
「俺、ちょっと考えたんです。この戦いが終わったら、どうなるか。……人間はみんな同じだから、世界が大きく変わることなんて、きっと無いんすよ。俺たちが、どう感じるかです」
「――そうかな」
彼の呟きへの答えは、サクヤが発したものではなかった。すぐ側に立っていた人物に気付き、二人は驚愕する。
「レディ隊長!?」
「やあ、結構派手に暴れていたからすぐ分かったよ。ワタシは目がいいんだ」
いつものピエロのような格好ではないレディ。珍しくきちんと教団の制服を着ていた。だが、透き通るような青い目に銀色のキラキラ輝く髪は、否が応でも存在感があると言える。それに加えて胸元のテトラールキ証が光る。
彼女がこの戦場にいたことそのものを二人は知らなかった。
「き、気付きませんでした……」
「気配を消していたからね。彼が来たからワタシは必要無いとも思ったんだけど」
そうレディは肩をすくめる。
「――一気に変わることなんてない。少しづつ、変化が積み上がっていくんだ」
ここが戦場であると忘れさせられる程、彼女は爽やかな笑みを浮かべる。そうして、東の空を指した。
「ほら、あれも一つの、世界が大きく変わる瞬間の一つだ」
何も無い、淀んだ曇り空。
「アーサー、見えるか?」
「……見えないっす」
レディは二人の様子に分かりやすく溜息をつく。
「ふうん。これだから腑抜けた本部隊は……」
「レディ隊長、あなたグレイヤー隊長みたいなこと言いますね」
「誰から見てもそう見えるということだね」
「……こほん」
茶番はこの辺にして、とレディはサクヤに向き直る。
「君には話がある。……アーサー・エルフォード、君は先に行きなさい」
「そうだアーサー、ベルガモット隊長が一人なんだ。早く追いかけて、サポートに回ってあげてほしい」
頷いたアーサーは、ベルガモットがいると思われる、戦場の中心へ駆けて行った。その背をサクヤは見送る。
「さて、サクヤ・ロヴェルソン三番隊副隊長。第一テトラールキとして、お前に退却を命ずる」
「はい。……え!?」
信じられないと言わんばかりの声だった。しかしサクヤの脳裏に浮かぶのは、先程戦ったガーディの女に言われたこと、そして、以前シリス・レヴァーニャに言われたことだった。
「そんな顔する必要は無いよ。すぐそこにキャンプがあるから言ってるんだ」
サクヤの予想とは打って変わっていたが、彼女は不満そうだった。しかし、と口籠るサクヤに、レディは冷静に続ける。
「あれは大技を使わないと勝てない相手だった。君自身は気付いていないが、そのせいで君の体力が大幅に減っているのを知っているかい?魔魂武器の力は便利な魔法なんかじゃない、個体差はあれど、基本的に我々は精神と肉体を擦り減らし武器と向き合っているというのは君もよく知っていることだろう。君はそれに加え怪我もしているが、第一手が震えている」
「は……」
彼女は自分の両手を見つめた。サクヤ自身、レディに言われるまで気付かなかったのだ。どっと腕に疲労感が現れる。
「ワタシ達は、死ぬ為に戦ってるんじゃない」
その言葉に、サクヤはハッとした。そして、素直に頷き、彼女の指示を受け入れた。
サクヤが去った後、レディは西の空を見つめ、小さく呟く。
「時の巫女……白い光か……」
レディの見た遠い西の方向では、確かにもう一つの戦いが繰り広げられていた。