【???】
「あなたの名前は?」
砂漠の蠍。
「あなたの仕事は?」
ネズミの狩人。
「あなたの主は?」
シエ・カシャ様。
「主に仇なす無礼な敵に、」
蠍の針を刺しましょう。
◆◇◆◇◆
【アガナ砂漠、古い遺跡】
遺跡の中を進むアーサー。
一応ここも管轄は東部であるのだが、地理的な問題で実質共同管轄地となっている。そもそも、人間が住みにくく悪魔が住める暗黒地帯と違ってここは純粋に暮らしづらい。それは悪魔とて同じである。辺境の地であるため、悪魔と人間の問題が起こることは稀で、ときたま起こる事件と言えば盗賊がキャラバンを襲撃すること。しかしそんなことは教団にとっては必要無い情報であって、国の問題である。普段なら首を突っ込む必要は無いのだが、今回、盗賊に取り入った輩が凶悪な悪魔であり、この国が教団と提携を組んでいたことからこの任務がおりてきたのである。
大陸の内陸部であるが故に水分を失って荒野と化したアガナ砂漠。遺跡の中はひんやりとしていた。
時々仕掛けられたトラップを躱しながらアーサーは中央目指して進んでいく。驚くほど誰とも合わず、昨夜捕まえた盗賊たちがほぼ全員だったのだと知る。ふと、後で合流することを約束した仲間のことを考えたが、これくらいの安いトラップに引っかかるようなやつではないなと頭を振った。
そうして通路の奥に目を向けた時、ちらりと動く物が見えた。
(人か……?)
足音を忍ばせそっと近づく。それが消えた角を曲がると、薄汚れたフードを被った男がしゃがみこんでいる。少し近付くと、男は勘づいて顔を上げる。悪魔ではないようだ。しかし、アーサーの顔を見るなり脱兎のごとく駆け出した。
「おい!」
慌てて追いかける。しかし、ある一点に足を置いた瞬間、アーサーはバランスを崩した。
「!?」
あったはずの足元の石が無くなっている。そのまま吸い込まれるように落ちたアーサーは、斜面になった空洞の中を滑り落ちていった。
やがて小さくなった悲鳴と、わずかな砂の音がした頃、戻ってきたフードの男はそろそろと穴を覗き込んでにやついた。
「俺の仕事はやりましたぜ。後は頼むぜロリガキよお」
そう呟き彼は予定の場所へと急いだ。
◆◇◆◇◆
「いっててて……」
本日何度目の落下だ。いやまだ二回か。さっきはアンリの前で強がってみたものの、やはり堪える。それにしても、そろそろ半永久的に腰を痛めてしまいそうだ。下に細かい砂が溜まって柔らかいクッションのようになっていて良かったと彼は僅かながらの慈悲に感謝した。
彼が辿りついたのは、祭壇のような場所。随分と深いが天井は崩れて無くなっており、高くなった太陽の光が直接降りてくるなんだか変わった空間だった。
これは一度アンリに連絡した方がいいかもなと思い、また相手の状況確認も兼ねて連絡しようとポケットを探ったのだが――
「ない」
ポケットにも懐にも足元にも無い。ふと後ろを振り向く。自分が今滑り落ちてきた穴からは、砂がいくつも吐き出され、小さな山を作っていた。慌てて掻き分けるも虚しく、見つかることは無かった。
「やべー……」
帰ったら頭に固定するタイプの通信器を提案しようと逃避的なことを考えた時、こつり、と大理石の床に響く足音が聞こえた。アーサーははっとして振り向く。
「!」
そこに立っていたのは、今自分が連絡しようとしていた相手そのものだった。その姿を見てアーサーは内心ほっとした。
「よおアンリ!今連絡しようとしてたんだよ。お前もトラップかなんかに引っかかったのか?…………?」
にこやかに近付いて行ったのだが、近づくにつれ段々違和感が生まれてそして増していき、アーサーは立ち止まる。緊張が走る。
「お前……本当にアンリか……?」
死んだような瞳はアーサーを一点に睨みつけ、その顔に表情は無く虚ろで、剣を右手にただ立っている。纏う空気が彼のものではない。彼は剣を一度くるりと回すと、走りアーサーに斬りかかった。
「おい!っ!」
反射的にガードするも、その重い一撃に目を丸くした。何度か繰り出された攻撃を受け止めつつ、アーサーは距離をとった。
「どうしたんだよ!アンリ!」
その時、キャハハハと高い笑い声が響いた。見ると、黒い服を着た小さな女の子が、アンリの後ろから姿を現す。そうしてタタと走り、祭壇の端の一段高くなった部分まで行くとくるりと振り返る。
「あたしの名前はシエ・カシャ。ここの王よ!」
そうしてドヤ顔で平たい胸を張る。が、空気が緩むことは無かった。咳払い一つして、彼女は続ける。
「あたし、喜劇を考えたの。登場人物はあなた達。仲間だった二人が殺し合う。どう?素敵でしょ」
ふふんと腕を組み自慢げに笑った女の子ことシエに、アーサーはぎりりと歯を鳴らす。
「何が素敵だ。アンリに何をした」
対してシエは、彼の言葉の一部に反応する。
「ふーんアンリって言うんだー」
「とぼけるな!」
しびれを切らしたアーサーがシエに向かって刃を向けると、アンリが庇うように前に出た。ずっと無言で立っていたのに。
「どうして!」
焦りのこもったアーサーの声に返事をしたのは、シエだけであった。
「この男は今あたしの兵士だからあたしを護るのは当たり前でしょう?――さあ、やっちゃって!」
高く上げた手を振り下ろす、シエの合図を皮切りに、アンリは動き出す。繰り出される激しく重い攻撃。剣の捌きも以前より確実に洗礼されている。それを感じながらも、アーサーは彼の足を止めることを考えていた。剣を払い、隙をついて脚部に氷を当てていこうと思ったのだが……
「?!――ッあ」
隙を見せる行動を取った瞬間、視界の中の彼が突然急接近したかと思うと激しい痛みがアーサーの鳩尾を抉る。アンリの膝が入ったのだ。崩れ際繰り出したアーサーの氷がアンリに直撃し、彼を一度吹き飛ばす。
息を切らし胸の奥のひりつく感覚に冷や汗を掻きながらアーサーは本気でやらなければ彼を止められないと悟った。同時に、そうではないと自分が死ぬかもしれないと。
再び剣を握ると立ち上がり、再び飛びかかってきたアンリの攻撃を己の剣で受け止める。
「アンリ……っ!分からないのか!」
しかし容赦など一切無い、リミッターを外したかのような強い力に押し負け、彼は体制を崩しながら後ろに滑る。
「くそ、あまりやりたくなかったが……」
唇を噛み、腹を括った。剣コールブラントを構え、持つ手に力を込める。紡いだのは美しき技の名。
「咲き乱れ!セッカ!」
彼の剣の表面に、薄く氷の膜が張る。白く美しい結晶の模様を描く。
「あは、それだけえ?」
シエは呆れたように笑い、アンリに指示を送る。彼が再びアーサーに剣を振りかざし、刃が混じりあった時、その時は来た。
パキ、パキ、と変わった音、ハッとその音が氷の音だと気づいた時には華が咲いていた。慌てて引いたがアンリの剣の先から氷の針が咲いていく。
セッカ、氷の華は、触れた先から侵食し、手、腕、胴にまで及び、やがて動けなくなる。湿度の低いこの場所では、水分のある所が影響をモロに食らう。例えば血液の通る、人間の、腕。
「!?」
突然宙に放物線を描くものがあった。驚きの光景に、アーサーは目を疑い暫く呆然とした。そしてぼとりと音を立てて落ちた。……それはアンリの右腕だった。アーサーのセッカに、こんな能力は無い。その惨劇に、腹の底が冷えた。見ると、肘より少し上を残して彼は地面にうずくまっていた。
「おいてめえ!アンリに何した!」
信じられないと、震える声でシエに問うが、彼女は眉を上げて「さあ?」と首を振った。
しかし、すぐに、氷の溶けた腕が赤い液状となり、地面を這って腕へと帰っていく。やがて綺麗に腕は元に戻りその腕には彼の武器が握られていた。凄惨な光景に、アーサーは息を呑む。しかし気付く、彼の武器ティテラニヴァーチェが元々液状だったことを。これは悪魔のせいではなく彼自身の持つ能力だったのだ。アーサーのセッカ、身体が動かなくなるのを防ぐため、侵食を食い止める為に自らの腕を犠牲にした。ティテラニヴァーチェの効果が及ぶ部分は再生はするが、痛みはないのだろうか。しかし、それほどまでに彼はこの悪魔の術中に沈み込み、そしてその身を捧げてしまっているのか。悲しみと怒りが渦巻いた。
完全に回復した彼は、立ち上がり、静かに右手を払う。アーサーは一体何が始まるのかと構えた。アンリの口から紡がれた静かな言葉は、一度彼が聞いた言葉だった。
「八方羂索(ヤホウケンサク)」
アンリの右手の剣が溶けるように液状化したかと思うと、弾けるように広がった。恐ろしいが一度見た技だ。防御しようとしたアーサーは、続いたアンリの声を聞く。
「三千黒箭(サンゼンコクセン)」
ただの帯ではなかった。広がった彼の武器は鋭さと更なる勢いをもって飛ぶ。黒く冷たい無数の線、箭となってアーサーに降り注ぐ。アーサーは歯を食いしばり、コールブラントを持つ手に力を込める。
「アイスシールド!」
半透明の膜が彼の前に張った。大気中の僅かながらの水分と、己の水分を使った氷の盾。堅い盾は矢を防ぎ、彼の近くまで侵入した矢を凍らせる。しかし場所が場所だ。水の少ないここでは彼は不利と言える。氷の盾は脆く、矢の一部をその身に受ける。血が滲み、痛みが走る。膝を付いたアーサーに対し近付いたアンリは容赦無く蹴りを入れた。そしてそのまま組み伏せる。
揺れるチカチカした視界の中で見たのは、逆光でよく見えないアンリの顔だった。だが、相変わらず冷たい仮面のような表情で、右手に剣を構えている。左はアーサーの頭を押さえつけていた。迫り来る死に恐怖した。力が入らないのはおろか頭も押さえられ、身動きが取れない。だがやろうと思えば彼を氷で串刺しにすることもできたはずだが、アーサーは躊躇した。その一瞬の間に、アンリは剣を振りかぶっていた。そして勢いよく振り下ろされる。アーサーはぐっと目をつぶった。……しかし、襲い来るはずの痛みはやって来ない。
「……?」
恐る恐る目を開けると、ほんの顔の前まで切っ先が来ている。そして、アンリの右腕は震えていた。表情は虚ろのままなのに、その手はアーサーを殺そうとしているのに、どこかで止めようと抗う彼が見えた。アンリのその目からぼろぼろと涙が溢れ、アーサーの頬に落ちてくる。震えた唇から、僅かに息が漏れた。
「ごめん、なさい……」
不意にアンリが横に吹っ飛んだ。シエが蹴りを入れたのである。
駆け寄ったシエが、ふらりと起き上がり立膝になったアンリに後ろから近づく。
「あーあいい所だったのに。そろそろ切れる頃?でも大丈夫」
また術にはかけてあげられる。そう言い彼女は彼の背にぴったりとくっつき、その蠍のような尻尾を振る。そしてアンリの背に突き立つと思われたその時である。……シエの動きが止まった。
「……?……あ、あ、」
シエの口から声が漏れる。アンリの刃は彼自身の腹ごとシエを刺していた。ぐっと奥まで差し込めば、がばりとシエが肩口で血を吐く。アンリは口元を歪め、僅かながら笑みを浮かべた。
「……残念。君の、負け」
信じられないと言ったふうにシエは目を見開いた。
「なん……で」
焦りと、悔しさの入り交じる複雑な表情をしていた。
「自分を刺す、なんて、こんなの有り得ない、お前、頭おかしい!ぜった、い、おか、し、い、あ、ああっ……かはっ」
言い終わる前に剣を抜き、振り返り2度目の刺し傷を作る。そして冷たい瞳で口にする。
「おかしい?そういうの、普通の人間に対して言うんだよ。僕がおかしくないわけないだろ」
「アンリ……?お前、」
遠くから呆然としたままのアーサーは、彼の言動に戸惑いを隠せなかった。
剣を抜く。崩れ落ちたシエに、アンリは続けて剣を振り下ろす。身体的に丈夫な悪魔も、こう何度も攻撃を受けるとたまったもんじゃない。しかしアンリはふと冷静になったかのように止まる。
「あ、いや……違う。違う…………ちが――ッあ!」
突然痛みが現れ、襲い来る眩暈に耐えきれず、彼は地面に倒れた。
「アンリ!」
少し回復したアーサーが、足を引き摺りながら駆けつける。痛みに顔を歪め、息は荒いが、彼の顔を見たアンリは笑った。
「笑ってる場合か」
「あ、はは。アーサーさん、弱くなり、ました、?」
「うるせえよ、不利な環境なだけだ。――お前が強くなったんだよ」
チラリとシエの方を見る。彼女にこんなことをされ彼自身も彼女に対しての恨みはあるが、彼女は最早灰になりかけていた。沸いていた怒りの温度が僅かに下がった。
早いとこずらかろう、そう言って彼はアンリの背中に腕を回す。二人は遺跡の脱出ルートを辿っていった。アンリは傷口を押さえながら、何かを呟いていた。
彼らの頭上、離れたところから、彼らの様子をずっと観察していた者がいた。男の名はサマジャ。現在唯一の元盗賊団員でありシエのお気に入りである。また狡猾で下衆い男である。シエが自分を気に入っていて、嫌われることは無いと知りながら、自分も好意を見せつつ断言はしない。だが、実際シエのことはかなり使える自分のコマとしか思ってないような男である。しかし、彼は身の丈に合わないコマを手にしていることに全く気づかない。
一通りの顛末を見終えた彼は、さっさとこの場から離れることにした。
「奴ァ死んだな。ふん、俺はこんなとこで死ぬのは御免だね……しかし悪趣味なガキだ。たしかに上手くいきゃあいい余興だなあってうわあ!」
動いた瞬間に、彼の足元が崩れる。脆くなっていたのだ。落下した先は大理石の上、大した高さではないが、足から落ちた彼に凄まじい痛みが襲いかかる。
「がああああああ!!!」
何かいったかもしれない。痛みに転がっていると、灰になりかけのシエが必死に這って彼の元へとやってきた。
「ああサマジャ!サマジャ……!」
息絶え絶えに、微笑みながら彼にすがりつく。彼女は幸せそうだった。しかし男にとってそれはいい迷惑だった。彼女に触れられた皮膚がピリピリと赤くなったかと思うと凄い熱さを持った。拒否反応を起こしている。男は悲鳴を上げた。
「やめろ!おいやめろって!」
彼の悲鳴もシエには届かない。男は逃げようにも足が使い物にならず逃げることもできなかった。必死に振り払おうとも、シエの方が強かった。
「サマジャ、来てくれたのね、嬉しい……しあわ、せ……」
男の悲鳴が断末魔に変わった頃、崩れかけていた元々男のいた足場が完全に崩れ、二人の上に覆いかぶさるように崩れ落ちた。
◆◇◆◇◆
遺跡の出口を目指して、二人は歩を進めていた。息を切らしてふらついていたアンリの足が段々としっかりとしてきた。
「もう、大丈夫です」
「あ?」
肩を貸してくれていたアーサーから、腕を外し離れる。不思議そうな顔をしているアーサーに、彼は付け加える。
「慣れて来たので。それに元々大した傷じゃない。それに自分の武器で作った傷です。そんな大怪我するような使い方しませんしティテラもそうしてくれます」
片手で押さえていた傷口から手を離すと、確かに出血は止まっていた。
「そういうもんなのか?もしかしてお前、」
「違います。自分の武器の傷はすぐ治るとそう教えてもらっただけなんです。早速役に立ちました。……それに、怪我しているのはアーサーさんも――あ」
話しながら、彼はアーサーの驚異的な回復力について思い出した。彼はへへんと得意気に笑った。
「俺もうほとんど治ったからな。お前の攻撃なんて大したことねえよ。それに気にしてねえから、あの状況でお前が俺を殺そうとしてたの、しょうがねえし。……謝んなよ」
何か言いかけたアンリは立ち止まり、少し考えてから再び歩き始めた。
「そうですね、そもそも、一度エルドバに帰らずすぐに任務を開始しようと指示したアーサーさんのせいですね」
「え俺のせい??」
「あの術は本人を眠らせて、その間に術者により形成された別の人格で意のままに動かす物でした。最初の睡眠導入の小細工に掛かったのは、僕が徹夜で寝不足だったからです。街に着いたらまず寝ますからね」
ごめんごめんと軽く謝りつつ、アーサーは違和感を感じてふと立ち止まる。
「ここさっきも歩いたよな」
アーサーの言葉に頭に疑問符を浮かべたアンリだったが、足元を見ると、自分のものと思われる血痕がポタポタと続いている。どうやら、砦の中で迷ってしまったらしい。迷ったという以前に出口を知らないのだが。
「そもそも街に着けるのか……!?」
顔を青くしたアーサー。対してアンリは懐に手を伸ばす。取り出したのは、朝にアーサーが渡した黒い液体の入った小さな瓶だった。アーサーの喉から息が漏れる。
「建物内じゃ使えないのかと思って黙ってたんですが……もしかして使えます?」
「忘れてた!」
「どういうことなんですか……以前より酷いですよ。今度は両目開いてるのに」
「な、なんだその顔!お前そんな顔したっけ!?返しも毒舌に磨きが掛かってるし俺のハート壊れそう」
「師匠との毎日の特訓の成果です」
「どんな特訓!?」
胸につっかえたものが、何かがあった。ただそれを言い出せぬまま。アーサーは心の内に留めておいた。何故なら、触れるほど彼は普通に人間らしかったからだ。危うさが見えなくなるからだ。
◆◇◆◇◆
エルドバに到着し、アンリからの強い要望で最初に仮眠を取った。その前に一応医者に怪我を見せたが。怪我をしていたからか瓶の瞬間移動に慣れていなかったからか、アンリは特に死んだように眠っていた。そのあと、彼らは久々にしっかりとした食事をとった。その最中、アンリは思い出したように切り出した。
「そういえばアーサーさん、」
「なんだ?」
「まだ理由を聞いていません。その、アスタリスクの腕章の意味を」
彼の見た、アーサーのマントの下、左腕に嵌っているのはアスタリスクの付いた赤い腕章。これは三番隊副隊長の意味である。少なくともアンリが本部にいた一年半前までは、副隊長の座はサクヤ・ロヴェルソンのものであったはずだ。彼女の身に何かあったのか、それとも……
「繰り上げなんだ。……実は、」
アーサーは、気まずそうに下を向いていた。
「元隊長、ベルさ……クロウ・ベルガモットが戦死した」
「え、……?」
突然のことだった。身近な人が突然死んだと告げられる、こんなことは初めてだった。
クロウ・ベルガモット。彼は三番隊隊長であり、四分割に区分されたエリアの采配を振るテトラールキという役職の、西地区を担当していた人物である。アンリにとってはそれほど彼と接点は無かった。同じ隊の人間でしかも隊長ではあるが、本部にほとんどいなかったのである。半年間しかいなかったせいか、よくどこかに出ていて本部で書類仕事をしているなどほぼ見たことがない。副隊長であるサクヤや自分たちが行っていた。それが普通なのかと思っていたのだが、ユリーカに行きそれは普通ではないと知った。……そんな本部で二番目に偉い人物が死んだことが、いくら情報の通りが悪く隔絶された辺境と言え、アンリたちが知らない訳がない。
「いや、……した、ってことになってる」
「本当ですか?向こうで、そんなこと一度も……」
ふとチトセが、知らない、グレイヤーが教えてくれないと言っていたのを思い出した。これはこのことではないが、もしかしたらグレイヤーは本部からの情報をいくつか止めているのかもしれない。このことも。
「でも、俺はあの人が死んだなんて信じられねえ。いくら団長から正式に発表があったと言えど、死体の一つもないんだ。最近よく留守にしてたから、どこで、何の任務で出たのかも、それこそ任務だったのかも分からないままうやむやにされようとしている。副隊長……じゃなくて、サクヤさんも詳しくは知らない。……だから、俺はあの人を死んだことにはしない。悲しまない」
アーサーは、そう語った。アンリにとって縁の薄い人物であっただけで、彼にとっては違うようだ。彼の真っ直ぐな目に、アンリは何かを感じ取った。
「説明してくれてありがとうございます。……僕からは――」
そうしてテーブルの上の、中途半端に水の入ったグラスを取った。
「昇格、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
ガラスがぶつかり合う。乾いた、軽い音がした。
◆◇◆◇◆
【「無口な男」】
クロウ・ベルガモットが本部をよく空けるようになったのは、アンリが来る約半年前からだった。丁度、アルモニカがメルデヴィナ教団に来た時期と一致する。
彼は三番隊隊長として、隊を率いて任務をこなしたりしていた。声を発することはないが無口という訳でもなく、そのポーカーフェイスに似合わない陽気な冗談もたまには言う(筆談であるが)人間だった。それが変わったのが、彼の婚約者であるヒュール・ベルガモットが戦死してからである。半悪魔化した人間の子供が起こした事件を追い任務に出たヒュールだが、巨大な3型悪魔に呑まれてしまう。奇しくも、この時連れて帰った子供はヒュールの武器雅京の適合者だった。ベルガモットの悲しみは計り知れないが、それから彼は更に口を閉ざし、よく単独で出かけるようになった。何も言いはしないが、ヒュールのいない三番隊を見るに耐えられなかったのか、それとも何か別の理由があったのか……
ぴちょん、ぴちょん。水の滴る音がする。
暗く、ひんやりとした場所。そしてその水が時折頭や首筋に落ちてくるのが、男の気を狂わせそうな最大の要因だった。
石造りの部屋、地下牢のような場所に、男は手枷足枷を嵌められ鎖に繋がれていた。精神も肉体も疲弊し、長い黒髪を肌に張り付かせ頭を垂れていた。
時折簡素な食事を持って魔女の男がやって来たが、彼は教団に特別私怨があるらしく、他に人がいないのをいいことに男を怒りに任せて蹴りつけたりしていた。お陰で体中が痛い。だが、彼の私怨が幼い妹を教団に誘拐されたからだと知った時は、もうこの暴力も仕方が無いことだと受け入れるより他に無かった。
遠くから足音がやってくる。揺らぐ意識が覚醒した時には、その音はキイという扉の開閉音に変わっていた。牢に突然入ってきたのは、全身白の服に身を包んだ笑顔の男。彼の名はジュディ。
「やあ、元気ぃ?どうだい気分は」
いやぁやることがあってさあ、構うの遅くなってごめんねーなんて言いながら、爽やかな笑顔を浮かべて近づいてくる。しかし、ゆっくりと顔を上げた男……ベルガモットに、笑顔のまま突然拳を振り下ろした。
「……ッ」
「え?聞こえないなあ?元気?って聞いたんだけど」
そうしてすぐ近くにしゃがみこんだ。ふと気付き、喉に走る大きな古傷を指でなぞった。
「ああ。誰にこんなことされた?自分か?父上か」
痛みはないが、触れられると寒気のような、不気味な感覚が背を走る。嫌な顔をしていたのか、それが気に入らなかったようで彼は鳩尾を蹴る。苦しそうに項垂れたベルガモットの前髪を乱暴に掴み上げ、眼前でジュディは毒を吐いた。
「前のことは大嫌いだ。反抗的で、機嫌が悪くて、不細工で、俺とは正反対。昔から、昔から!」
彼は真っ赤になって怒りをぶつけた。今のベルガモットには、彼は恐怖でしかなかった。
「あの日から、お前のことずっと探してた。急にいなくなって、許せない。だからお前のことは大嫌いだよ!」
そう言いまた殴る。鎖の音が響く。痛みに一瞬遠のく意識。ベルガモットは、彼の言葉を反芻し、昔を思い出していた。
彼とベルガモットには、特別な関係性があった。実際は違うのだが、双子や兄弟のようなものである。お互いシロ、クロと呼び合い、幼き日々を『父上』の元で共に過ごした。やがて『父上』の言う通り、ベルガモットは教団員に、ジュディは成り代わりだが悪魔集団の幹部となった。クロウ、ジュディというそれぞれの名はこの時付けられた便宜的なものである。この頃には『父上』とは直接的な関わりは無かったが、彼から与えられた仕事は行っていた。だがベルガモットにはある日、普通の人間として生きたいとある理由ができてしまった。『父上』にその元から離れたい旨を話すと、彼は声を代償にそれを認めた。彼から縁を切ったベルガモットは、この時クロから完全にクロウ・ベルガモットとなった。ヒュール・ベルガモットという女性から姓を貰って。
彼は自分のことばかりで、確かにジュディ……シロのことは考えていなかった。お互い何の仕事をしているか言えなくなっていたため『父上』の元の二人の息子でなければ、お互いのことは知りえない。突然消息を絶った彼のことを、シロはずっと許せなかったのである。
何度目かの拳を受け止めた時、ベルガモットは明らかに何かが違うことに気付いた。シロの乱れた息は、激しい怒りと暴力によるものだけではないと気付いた。――男は泣いていた。
「寂しかった」
ふと言葉が零れる。だらりと両腕を下ろした。
「すごく寂しかった。どうして、急にいなくなったりしたの」
ぽろぽろと零れる涙と言葉。驚いたベルガモットだったが、その姿と幼き姿が重なった。彼はまだ、この点に関しては子供のままなのだ。
悪かった、ごめん。と謝ろうにも、口が動くだけで声が出ることは無かった。
シロがベルガモットに手を伸ばす。思わず強ばったベルガモットだったが、予想外、シロはベルガモットに抱きついていた。
「ねえ、クロ、また俺のことシロって呼んで?また、一緒に遊ぼうよ……もうどこにも行かないで……」
背中に手を回し、子供のように泣きじゃくる彼は、まさしく昔の兄弟だった。微睡むように目を閉じた。
その温かさが、思い出が、冷えきった体と心に染み渡る。実に上質な毒が、体中を回る。