41話「最初で最後の円舞曲」





 何を言いに来たの?空気なんか読まなくて、馬鹿みたいに真面目に正直に、そう、あの時みたいに言えばいいじゃない。それなのに何も言ってくれないなんて、全然君らしくない。

 でもこれだけははっきりと分かる。きっと、これが最初で最後の円舞曲。


img ◆◇◆◇◆


【三番隊ミーティングルーム】

「テトロライア王家から依頼が届いている」
 ガーディと名乗る二人組が彼らの前に姿を現した次の日のこと。三番隊のミーティングルームで、サクヤはグレイヤーにそう言った。
 何のことだというように暫く固まっていたグレイヤーだったが、すぐにああ、と頷いた。
「本部は大変ですね。テトロライア王家の相手もしなくてはならないなんて」
 サクヤは頷き、封筒から数枚の紙を取り出しグレイヤーに手渡す。
「次期国王のフローレンス・ヴィナ・テトロライアが三番隊を直々に指名してきた。この状況ですが、断るのもどうかと思ったんです。一応事情を話してみると、教団への依頼としてでなく、妹……第二王女の生誕パーティへ三番隊個人を招待する、という形を取ってきたんです」
「変わった姫様ですね」
「ええ。……今彼はいないと知ってるだろうに」
「もしかして彼の知り合いですか。ふふ、本当に彼は女ったらしの悪い男です」
 よく楽しそうに笑えると言わんばかりにサクヤは横目でグレイヤーを見たが、本人は全く気にしていないようだった。
「……それで、謹慎中のアルモニカ・フリィベルだけでも顔を出させることになりました。本棟への立ち入り、また、仕事はできないが、外出自体は制限されていないので」
「それは謹慎と言えるのですか?」
「えっあいつだけっすか」
「アーサー、いたのか」
 トレイにカップを二つ乗せて、アーサーが立っていた。サクヤはソファーから立ち上がり、トレイからカップを受け取りローテーブルに置いていく。
「本人に聞いた所二つ返事で了承されたからな。心配ならお前も行くか?去年も現場にいたから勝手は分かっているだろうし、何よりそちらの方が王女もお喜びになるだろう。彼女と面識があるのは私ではなく君たちだからな」
「じゃあ行くことにします」
「という訳で二人です。私はここを離れられないので」
 グレイヤーは右手に持った資料の向こうで「分かりました」とくぐもった返事をした。ローテーブルの上にはカップが一つだけ。ちなみにサクヤは口をつけてすらいない。
「これ、マリュデリアのダージリンですね?分かっているじゃありませんか」
「もしかして、お面外して……?」
 サクヤの問いの後に、啜る音と嚥下音。
「面を着けたまま飲食ができるなど面白いことを言いますね」
「どんな顔なんだろ……」
 好奇心に負けたアーサーと強情な紙の盾を持ったグレイヤーで、しばし攻防が繰り広げられた。


◆◇◆◇◆


 パーティー当日の昼。この日のメインライアはお祭り騒ぎであった。今日この日は、国の第二王女の生誕を祝う祝日なのだ。
 楽器屋の前では、ヴァイオリンやアコーディオンを持った演奏家達の奏でる音楽に身を任せ、踊る人々も多々見かけた。先程通り過ぎた広場には移動サーカスが来ているようで、辺りには物珍しい催し物に目を輝かせる者が、子供に限らず大人も多く見られた。仮面を付けた客引きの道化がジェスチャーでアルモニカをテントへと誘ったが、彼女は首を横に振って通り過ぎた。どこもかしこもカラフルな旗が街を飾り立てて、街全体が浮かれているように感じた。
 予約していたドレスのレンタルショップに向かっていたアルモニカは、賑やかな街中で、ふと視線を感じて立ち止まる。
「……?」
 何も違和感は無い。そう思いまた正面を向いた時、後ろから膝に衝撃が走る。そのまま崩れそうになりながらも振り返り、反射的に拳を突き出すも受け止められる。二手目を出す前に、アルモニカはそれが誰だと気付く。
「フローレっむぐっ」
「まっ待ってここでその名前はやめて!」
 目の前にいたのは、昔捜索の任務でターゲットとなった少女。名をフローレンス・ヴィナ・テトロライア。紛れもないテトロライア王国の第一王女だ。しかしその格好はラフで、長い髪も大雑把に団子にしてあるので一般人と何ら変わりない。彼女はアルモニカの手を引き、そのままどこかの店に押し込んだ。
 抑えられていた口が解放され、アルモニカは勢いよく振り返る。
「いやいやいや!何してるんですか!?」
「うん?視察?」
「その格好で!?」
 おおよそ王女のオーラというオーラは消え去っている。彼女は上品にくすりと笑って見せた。
「私にドレスで街を歩き回れと言うの?そんなことをしたらみんな驚いてしまうじゃない」
 今日の彼女は、去年街で見た彼女よりずっと大人っぽく、王女として公務で顔を出した時によく似ていた。だが、ずっと生き生きとしていた。一人称も自然になっている気がする。
「ここがどこだか分かる?」
 そう言い微笑んだフローレンス。はっとしてアルモニカは店内を見渡した。
 店中はアンティーク調で、壁紙やシャンデリアなどもを見ても、明らか高級品を取り扱っていそうというのがアルモニカの第一の感想だった。基本的に、彼女はこんな所に出入りする機会は無い。
「ここはオートクチュールの服屋。あなたにドレスを贈っても良いのだけれど、ニアに、そんなことをしたら気が引けてしまうと言われたので着付けだけにしておこう。欲しいというならあげるけれど」
「いや、遠慮します……レンタルなら後で経費で落ちますし」
「そう言うと思って!じゃじゃーん!あなたが予約していたドレスも持って来たんだ。グレードアップもできるよ?」
「どうして……」
 どこまでも用意周到な姫だ。どうして一般人のアルモニカにここまでしてくれるのか、忙しくは無いのか、色々な考えが頭を巡る。そんなアルモニカを知ってか知らずか彼女はにっこり笑う。
「あなたとお話がしたくて。私夜は忙しくなりそうだから、今しかないかなと」

 ドレスを着、メイクまで店の人にして貰った。フローレンスはアルモニカの髪を巻き、そして慣れた手つきで三つ編みを施していく。
「妹が小さかった頃はこうやって、髪を結ってあげていたんだ」
 そう彼女は語る。
「今日来て下さるのは、あなただけと聞いていたんだけど、本当に無理を言ってごめんなさい。メルデヴィナ教団が今大変なことになっているのは知っているのに」
「あ、えっと、実はもう一人来ますよ。黒髪の、」
「ああ!そうだったんだ!……どうか楽しんでいってね。今日は妹のカザリナも出るんだよね」
 テトロライア第二王女のカザリナ。彼女は存在こそ知れているものの全く国民の前に姿を現さず、また公に語られることもない為謎の人物となっていた。
「しかもカザリナったら、とても内気な性格なんだけど、仮面を着けないと出ないと言い出して。仕方ないから最初の少しだけ、仮面舞踏会のような形式にしようということになったよ。と言っても、一部の客人しか仮面をつけてくることは無いと思うから、安心してね。……カザリナの誕生日を祝うパーティーに、本人が顔を出さないなんておかしいことないから」
 彼女はそうくすりと笑った。急に仮面を用意しろと言われるのかと思って少しだけ心臓に悪かったアルモニカだった。

「ローラン……この姿になると、不思議とね、アンリ君のこと思い出すんだ。誰かと一緒にスヴェーア帝国を回ったことなんて無かったから。……でもね、初めて出会った時彼、奴隷商人に追い掛けられてたんだ」
「え!奴隷商人……?」
「ふふ、彼は可愛い人だからね。……と、笑ってる場合じゃないね。あの時は上手く撒けたみたいで安心したけれど」
 彼女の表情は、苦笑いから真面目になる。
「スヴェーアは首都のアレクセイエスクがとても立派だけど、国自体にそこまで国力がある訳じゃない。寒くて厳しい自然に震え、生きる為に非人道的な職に手を染める者も少なくない。――その一端を間近で見てしまったものだから、余計にね」
 彼女は眉を下げて笑った。
「……信じていた人が、どうして変わってしまったのか。いいえ、兄さんは変わっていないのかもしれない。どれだけ足掻いても変えられなかったのか、私には分からない」
 テトロライア王家に男児はいない筈だ。彼女は誰の話をしているのだろうか。
「と、変な話をしちゃったね。ごめんね」
 アルモニカは首を振る。
「……でも、もし、本人が望まなくても、世界がそれを許さなかったら、残酷な答えを出さざるを得ないのかも……」
「え……」
 フローレンスは驚いた顔をしてアルモニカを見つめていた。直後、アルモニカははっと顔を上げて両手を振った。
「あ!ごめんなさい!その人のこと知らないのに勝手に」
「いいえ。あなたの言っていることはよく分かるよ」
 フローレンス立ち上がり、窓辺へ向かった。そして彼女は振り返り、寂しそうに微笑んだ。
「それでも私は、抗いたい。助けたい。兄さんを、この世界を、全てを」
 逆光で神々しく見えた彼女はまさに聖女のようだった。表情は確認しにくいが、涙さえ流しているように見えた。

 その後フローレンスはてきぱきと準備をし、町娘だった彼女は王女となった。彼女の纏う雰囲気はガラリと変わった。けれど、彼女はアルモニカを見て「私は私です」にっこり笑って見せた。ここまで接しやすい王族がいるだろうか。
 会場までアーサーと待ち合わせをして行くと知ったフローレンスは、わざわざ集合場所まで送ると言った。アルモニカが馬車から降りた時、フローレンスは言う。
「貴女達のことは妙に気になってしまいます。初めて言葉を交わしたエクソシストでしたので。だから、貴女のことをもっと知りたかったのです。……短い間でしたが、お付き合い頂きありがとうございました。私の勝手な自己満足に」
 フローレンスは王族でありながら、そのことを全く奢らない。彼女は他国の多くの王族と違い、城に篭もり政治を学んでいた訳ではない。彼女自身の意思で街へ赴き、自分の国を客観的に見てきた。しかもただ見ているだけではない。今日も、忙しいであろうに時間を割いて、わざわざアルモニカと会話をしに来た。一般人の、しかも最近は何かと言われるエクソシストにここまで干渉するだなんて。いや、フローレンスが十七になり公務に携わるまで、教団と王家の騎士団との仲は険悪だったと聞いている。
「……フローレンス王女。あなたは、やっぱりとてもいい人。あなたのような人格者が統べる国の国民になりたい」
「……いつでも歓迎致します。メルデヴィナが無国籍の組織でも、あなたが望むのであれば」
 アルモニカ自身、自分がどこの国の人間かなんて知らない。両親や故郷に対しての想いがほぼ無いのだ。しかし灰色の瞳を持つヴァルド人(テトロライアの地に住まう者)でないことは確かであった。
「私は強くありたかった。大切な人を護れるくらい。力だけでなく、それは意志でも示せるのだと私は後に知ったんです。……差別、貧困、憎悪、そこから生まれる争い……そのような問題に目を背けず、立ち向かい、誰もが平等に生きることのできる国を作ることが私の夢です。そういうことなのでほら、ヴァルド人でないからだなんて、気にすることなんて何一つないでしょう?過去のわだかまりも、許し、許されるべきなのです」
「……イーリア人も?」
 サクヤ隊長から聞かされた、悪魔と呼ばれる存在の真実。ヴァルド人が侵略し、大陸の端に追いやり、その異質な力を恐れ、遂には滅ぼしてしまった古代の民。おおよそ、古代語が読めるくらいの相当な教養が無ければ存在すら知ることはないだろうとまで言われた古代の民族の名を口にする。ふと口を突いて出た言葉だが、直後、失言なのではと肝が冷えた。しかし、目の前の聡明で強く美しい姫は、微笑みながら、しっかりと答えた。
「はい。イーリア人も」
 例えば大きな敵が無くなって、人と人とが争うような世界になってしまったとしても、彼女の治める国は大丈夫、そんな気がふとしたという。


◆◇◆◇◆


 フローレンスには悪いが、彼女の言葉から出た彼の話題のお陰で、アルモニカはかなり落ち込んでいた。
 彼のことが好きだと気付いて、伝えようと決めたこと。気付くのが遅かったせいで、それが叶わなかったこと。自分には何も言ってくれなかったこと。周りから悪く言われること。生死さえも怪しいこと。
 あれから暫く彼女を襲ったのは、自責の念と、悲しみと虚無。時間が経っても忘れられる筈がない。
 嵐の後の、波の酷く落ち着いた海面の心で、彼女は会場の隅で一人佇んでいた。キラキラ煌めくのはシャンデリアの光、仮面の反射光、カクテルのガラス、装飾品の数々、豪華なドレスの生地、ツヤツヤとした大理石の床。
 やがて何処からか音楽が流れ始めた。仮面を着けた者、着けていない者も皆中心で踊り始めた。その様子を見て楽しむ者も多い。
 煌びやかで楽しい空気ではあるが、アルモニカはとてもそんな気分ではなかった。隣で手持ち無沙汰に立っているアーサーや、招待してくれたフローレンスに申し訳なかった。そんな時である。ずっと無言だったアーサーが口を開いた。
「……大丈夫か。顔色悪いし給仕に頼んで水でも貰ってきてやろうか」
「ありがとう」
「ああ、今何処にいるんだ……?」
 そう言い彼は、人混みに消えていった。
(ごめんねアーサー。あんたこそ、さっきからあんたのことをずっと見てるそこのお嬢さんとでも踊ってくればいいのに、私に気を使ってるんだ。何も楽しくないでしょ)
 そんなことを思いながら、ただぼんやりと佇んでいたアルモニカは、目の前にすっと現れた人物に気付くのに時間が掛かった。
「……?」
 黒いマントを羽織り、演劇の舞台俳優のような衣装を着て、ペストマスクに似た仮面を着けた男。
(変な仮面の人。でもそう言えば、周りにはかなり派手な人もいるし、そうでもないのかも)
 ペストマスクの彼は、「よければ」と、そう恭しく礼をして手を差し出した。
(私と踊るのね)
 その差し出された黒手袋の上にそっと右手を載せれば、すっと引かれ、観客の場所から舞踏会の中心部まで一気に飛び出した。

 アーサーがふと振り返った時、人と人の間から、丁度アルモニカが誰かの手を取りそのまま輪の中に消えていく所だった。
 少し目を離したばっかりに、誰かに取られてしまった。そんな想いがチクリと胸を刺す。
(あんな顔色の悪くて生気のない女よく誘うな。物好きもいたもんだ……いや、まあ、仕方ないか)
 ふと視線を戻した時視界に入った給仕をアーサーは追いかけていった。


 周りの多くと同じように、二人はステップを踏み踊る。レースでできた純白と、夕闇を模したかのような黒が、くるくると円を描く。
 アルモニカは社交ダンスの基礎など知らない。けれど相手のリードに合わせて流されるようにアルモニカは踊っていた。景色は動いているのに、音も聞こえるのに、何故か時の概念が存在しないようだった。回る世界と回らない世界、その二つを同時に感じていた。
 いつの間にやら一曲目が終わり、次の曲が流れ始めた。その時彼は踊りをやめた。そして、アルモニカの右手を掴んだかと思えば、その手には何かを握らされていた。
「……」
 彼は名残惜しそうに少し間をとった後、マスクに手をやり耳元で「さようなら」と囁いて、そのまま立ち去った。
 もう行ってしまった。そんなことをぼんやり思った直後、重大なことに気付き、はっと手の中を見ると、手の中にあったのはエクソシスト章だった。目の前には開け放たれた窓。慌てて窓際に駆け寄り、身を乗り出して見ても誰も何もいなかった。そこにはただ静かな夜の闇が広がるばかり。


 給仕を捕まえて水を持って来てもらう直前に、知らない女性に絡まれるなどしてアーサーは戻るまで少し時間がかかってしまった。しかしようやく手に入れたそれを片手にアーサーは、元いた付近に戻ってきたのだが。そこにアルモニカらしき人物はいない。
(あれ?あいつ何処だ……)
 最も最悪の可能性が脳裏を過ぎる。こんな場所でまさか。しかし、だからこそ具合の悪い彼女を連れていったのではないのか。
 フラフラとアルモニカを探し会場から離れていくアーサーの頭をじっと見ている者があった。その目は高く天井に飾られた、絢爛豪華なシャンデリアの上。彼の背を見送ると、それはふっと飛び降りる。突如会場に小さな悲鳴が上がったが、それがドレスを着ていること、メンフクロウを模した、奇妙だが豪華な仮面を付け、一人踊り始めたことが分かると皆演出だと思い気には留めず、それはパーティー会場を包む魔法に溶け込んでいった。

 アルモニカもアーサーも、今までホールの二階にずっといた筈だが彼女の姿は見当たらない。正面のエントランスではなく裏庭方面の一階に続く階段を降りた時、青白い月明かりの中、向こう、噴水を見ながら、庭へ降りる階段に座り込んでいるアルモニカを見つけた。
「……こんな所で何してんだよ」
 後ろから声をかけると、彼女は振り返ることなく答えた。
「静かなところに行きたくて」
「なるほど」
 彼女の隣に腰を下ろす。コップを渡そうとした時、あることに気付いた。正面に真っ直ぐに向けられた瞳から、水が溢れて落ちていく。アルモニカは泣いていた。
「な、え!?どうしたんだ?!何かされたのか!?」
 はらはらと雫を落としながら、アルモニカは大きく首を横に振る。
「お別れなの」
「はあ?」
「お別れを、言われた。ちゃんとした、お別れを、っ」
 胸の前で固く握り締めていた手を、ゆっくり開く。両手にあったのは、緑の石と赤と白のリボンの付いた何か。それは、メルデヴィナ教団所属の武器使いであることを証明していた筈のエクソシスト章だった。
「……!」
 そっと手に取り裏を見ると、仲間だった者の名が刻まれていた。
 どうしてここに?まだ近くにいるのか?何故こんなことを?、何故。色々な疑問と思いがアーサーの脳裏に浮かんでは消える。だから、後ろから声がするまでその存在に気付かなかった。
「呆れた」
「!?」
 後方、二階のバルコニーの欄干の外側に、黒いドレスを着た少女が座って二人を冷たく眼下に見下ろしていた。彼女は梟を模した派手な仮面を外しそれを置いたまま飛び降りると、静かに着地した。顔を上げた彼女の瞳が金に光った気がした。そのまま靴を鳴らしながら歩いていく。金の瞳、白く輝く頭髪、尖った耳。やがて月明かりに照らされたその姿は、二型の悪魔そのものだった。悪魔の少女ははっきりとアルモニカに言った。
「彼の選んだ道は、あなた達のいる道ではない。リィンリィンが連れていきますの。だからあなたは必要ではありませんの。――それでも追うと言うのなら、勝手に追うといいですわ。あなたに、場所が分かるのであれば」
 美しい悪魔は、それだけ言い残すと茂みの向こうへ消えてしまった。
「一体何処へ行くの?何が起こってるの?どうして、どうして何も言ってくれないの……」
 背中を丸め、顔を覆ったアルモニカの姿をアーサーは見ていた。
 何か言葉を掛けるべきだ。励ますような何かをするべきだ。けれど、遂に彼の口から言葉が出ることは無かった。


◆◇◆◇◆


「お別れは、ちゃんと済みましたの?」
「はい」
 北のスヴェーアへと向かう夜行列車の中、狭い空間に二段ベッドが二つ並ぶ客室。幸いこの時期車内には余裕があった為、本来四人部屋のこの個室も二人で使うことになった。悪魔であるリィンリィンも、その素性が他の乗客にばれることもないので安心である。
 備え付けられたベッドの固いベッドに腰掛け、大して流れもしない暗闇を見つめながら、アンリは頷いた。
「全て話す訳にはいきませんけど、やっぱり、挨拶はしないといけませんね。未練を残しているといけない。……信じてくれたフローレンスさんには本当に感謝しないと」
 彼の言葉を聞き、リィンリィンは目を細めた。
「アンリさん。あなたは、案外格好を付けますのね」
「え、」
「おやすみ」
 ぴしゃりとそう言い、会話を受け付けないというようにリィンリィンは、背を向けて頭まで毛布を被ってしまった。
「そうですね……」
 暫く経って、アンリは一人呟く。
「あの人は、優しい人なんです。きっと誰にでも優しい人なんでしょうね。出会って間もない僕に、あそこまで言う人だから」

『アンリが自分に価値を見いだせなくても、私がアンリに価値を見出す。アンリが自分を大切にできないなら、私が大切にする。自分のために大切にできないなら、私のために大切にして』

「大切にしたい。できる限り」
 あの優しい言葉に全てを委ねてしまいたいけれど、そうする訳にはいかない理由があった。近付きたいと願う程、遠ざけざるを得ない理由が。それは意地であり、意地ではなかった。
 やがて定刻が過ぎ客室は消灯、部屋は暗闇に包まれた。窓からうっすらと月明かりが漏れている。日中は雨で、空は今もまだ厚い雲で覆われている。
「おやすみなさい」
 最初にリィンリィンに挨拶をされてから随分と経っていた。

 しかしリィンリィンは、眠ってなどいなかった。
 胸が痛い。自分の好きな人が、自分ではない誰かのことを、どれだけ大切に思っているか知る度に。分かっていたのに、最初から。それでも傍にいられるだけでいいと、役に立てればいいと、そう思った。振り向いてもらえなくていい。愛されなくていい。ただあなたの幸せが、自分の幸せであると。――それでも痛いものは痛かった。
 背を向けて、ただただ冷たい壁を見つめていた。


 列車は北のスヴェーア帝国へと向かう。そこにいる魔女に彼らは用事があった。


◆◇◆◇◆


【本部】

 数日後のこと。お昼の少し前のことである。本部の建物内のスピーカーから、知らぬ女の声で、予定の無い放送が流れ始めた。
 その内容に、多くはざわついた。声の主を知っていたサクヤ達にもそれは驚きをもたらした。
「何、どういうこと?」
「新しい体制になるということか?」
「給料は出るの?」

 ざわつく文官達に、グレイヤーは声を張り上げた。







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