31話「兄妹」
img




「えっと、今なんて」

 受け入れ難い事実に、アンリは思わず聞き返した。だが、目の前の少女の口から出た言葉は変わらなかった。

「初めまして。初めまして兄さん」
 兄さん。
「あら、聞こえない?耳でも悪いんですか?」
 確かに、兄さんと言った。そしたらこの子は自分の妹ということになる。妹なんて存在していたのか。記憶を必死に辿ってみても、妹がいたなんてこれっぽっちも知らない。だって家族なんて、自分には……
「あの、返事してくださーい」
「あ、すみません……」
 少しくらりとしてアンリはしゃがみこんだ。テンも同じくしゃがみ、アンリの顔を覗き込んだ。「椅子に座りましょう」と言った彼女に頷き中庭の奥の席まで移動した。

「まず自己紹介しますね。私はテンと言います。システィーナとも言います」
 どうか私のことはテンって呼んでください。とそう言った。その時はっとした。システィーナ、そう。思い出した。

『私はシスティーナだよ。言ったから答えてもらうよ。あなたは誰?』

 J地区で3型悪魔であるヒトクイユリと遭遇した時に、気が付くとアリア・レコードにいた時があった。いつもいるはずのエメラリーンはおらず、代わりに見知らぬ女の子が立ったままこちらを見ていた。確かに見た目も名前も一致する。そう、アンリは彼女に会ったことが確かにあった。だが、あの時の少女はもっと天真爛漫で明るい印象だった。まるで全く別人のよう。
 アンリの疑問など他所に、テンと名乗るシスティーナは話し続ける。

「ところで私の話をしましょう。……

 私は、オラルトにある研究施設で日々を過ごしていました。何の為に自分がここにいるか分からない。連れてきた人物はいつの間にかいなくなってしまい、無気力で逃げる気配なども無かった私に対する警備は無くなり、いつからか、研究所内を自由に行き来する存在となりました。ですが色々あって今この姿でここにいます。……私は一回死んだんです。この子の意識を押しのけて、私はまだ生きている。……それまで、私はずっと自分のことを、研究所初のクローン……コピーであるミクスのクローンだと思ってました。本社の実力の誇示の為に連れて来られたと。でも、本当は違った」

 突然ミクスという、アンリの幼少期の親友の名や研究所が出て彼はいっぱいいっぱいだった。この現実から離れた非現実のような、けれど事実であるその世界の話。それに一度死んだという話も気になる。
 あの高度な技術を持った集団なら人間のクローンくらい作り出すことができるだろう。しかしミクスがそのような存在だったのなら、あれだけ大切にされた理由が分からない。クローンなのなら、いくらでも替えが利くのではないのだろうか。残念ながら、アンリはあの白い部屋以外で子供に会わなかったので、実際のところ研究所にどれくらいの子供がいたのか知り得ない。
 テンは続けた。自分はクローンなんかじゃない、研究所にいたアンリの妹なのだという事実を、彼女がこの体に来る時知ったのだという。残念ながら元の体は無くなってしまったが。
「私はこう言われ育ってきました。お前は人類初のクローン成功体であるミクスのコピーだと。つまりオリジナルのクローンでもあるのですが、研究所の特に本社にはミクスのクローンがいっぱいいると言われていました。でも、実はみんなミクスのクローンじゃなかったんです。クローンもいたと思うんですが、幾人かは私達の兄弟だった。まだ未熟なクローン技術しか持たないのに、我が身の保身と権威の為についた責任者の嘘だったみたいです」
 頭がパンクしそうな内容だが、全く理解できない訳ではない。研究所の、実験の為だけに用意された、親などいない子供。だがその親が同じ人物であるということだ。つまり、どこか容姿の似ていたミクスは、唯一の友達であると同時に姉であった。いつだって、にこやかに手を差しのべるミクス。今まで何となく感じていたものが、繋がったような感覚だった。無機質な自分という中に、家族という単語が初めて色と熱を持った気がして、アンリは息が苦しくなった。
「私達、兄妹なんですよ、」
 テンが言う。まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
「私、家族なんていないと、一番縁の無い物だと思ってた。でもこれを知って、悲しんだけど嬉しかった」
 テンはここに来る間に色々見て、家族に対する憧れを持った。同時にその家族がみんな不幸な目に遭っている事実は心苦しい。けれど、外の世界で生きている兄が存在しているとあの時知っていたが、それがアンリだと知ったテンは、ずっと会える日を楽しみに待っていたのだ。
 だけど、とテンは続ける。
「何でしょう、私には、まだよく分からない。もっと感動するものかと思ってました」
 そう言い俯いた。
 テンにはまだ、家族というものが分からなかった。その温かさをうまく想像できなかった。友達というものを初めて得た時のような感覚はあるものの、それぎりなのだ。彼女は冷たく暗い世界から出て間もない。触れていないから。憧れは確かにあったが、実感は無かった。だが、アンリは違った。外の世界を知って長い。
 同じ目の色、同じ髪の色。思えば、自分の色は珍しい色だった。なぜ気付かなかったんだろう。正真正銘、血の繋がった、兄弟。家族。……噛み締めるほど胸が苦しくなって、気付けば涙を流していた。テンはそれを見て心配そうに表情を窺った。
「なんで泣いてるんですか」
「いや……分からない」
 分からないけど、と涙を拭う。とても温かな水だった。
 突然テンが手を伸ばす。疑問に思った瞬間、それの理由が分かった。テンが頭をポンポンと数回撫でたのだ。
「……」
 手を離してテンは不器用に笑って見せた。
「ここまで来る時乗った列車で見ました、泣いてる子供に母親がこうしてるの。……だって、あなた、辛そうだから」
 泣いているから、辛そうだから、頭を撫でた。そう言った。テンは親子の行動を真似たと言ったが、アンリは別のものを思い出していた。
「それで、私あなたにお願いが――」
 その時である。近くを通りがかったであろうアーサーの声がした。顔を上げて見ると、遠くからアーサーが手を振っていた。彼は声を張る。
「お前ら仲良くやれたんだな、安心したよ」
 アーサーに返事をしようとしたアンリだったが、テンは驚いたようなすごい形相をして立ち上がったかと思うと「仲間を付けるなとあれほど!!」と叫びアンリの頬に右フックを決める。突然過ぎて全く避けることなどできなかったアンリはどさりと地に伏した。どこからかゴングの音が三回した。
 驚いたアーサーが駆けつけ、地面に伸びたアンリの抱きかかえてテンを見上げる。テンは悪びれもしない涼しい顔で拳にふっと息を吹きかけていた。
「な、何してんだ!喧嘩は良くないぞ!」
「アーサーレフェリー、私の勝ちです。後はよろしく」
「誰がレフェリーだ、あ、おい待て」
 アーサーの呼び止める声も無視してテンは走り去っていった。その直前アンリの服のポケットにこっそりメモを忍ばせたことは、本人と後のアンリしか知らないことだった。

◆◇◆◇◆

 本部の三番隊の私室と化したミーティングルーム。静かな廊下を車椅子で滑走し、ミーティングルームのドアを勢いよく開けたのは、ふわふわとした白髪の目立つ、天使のような子供だった。先ほどまで一人任務に出ていたレイだ。いつも落ち着いているものの、今日は見た目に相応しく随分はしゃいでいた。
「ただいまなのですよ!そしておかえりアンリ!って……なんですかその格好」
「レイさんお久しぶりです。相変わらず忙しそうですね」
 レイのテンションの急激な降下の理由は、入ってすぐ目に入ったアンリのせいだった。ミーティングルームのテーブルの前に座り、アーサーから右頬の手当を受けながら、本人は鼻を赤くなったティッシュで押さえている。だが至って元気そうだ。
「可哀想に、女の子に振られたんだよな」
「だからそれ全然違いますから」
「失恋ですか?アンリ可哀想に」
「レイさんまでやめてくださいよ」

 レイはまあ元気そうで何よりと言い、アンリの隣に移動すると、「ううー」と唸りながらテーブルに肘をつく。
「それより聞いて欲しいのですよおアンリ、また僕だけ仲間外れで任務に出てたせいで再会の感動ムードに乗り遅れたのです」
 それを聞いたアンリとアーサーは一度顔を見合わせると、軽快に話し始める。
「感動ムードもクソもないよな」
「何言ってるんですか。感動しすぎてアーサーさんなんか泣いてましたよね」
「いつだよそれ」
「やっぱり!アーサーは泣き虫なのです」
「アーサーさんは泣き虫……」
「てめえ覚えとけよ……そんなこと言ってると空気の読めないアンリくんエピソードするぞ」
「止めましょうよ誰も幸せにならない」
「なんですかそれ聞きたいのです」
「レイさんまで!」
……

 暫くしてサクヤと共にミーティングルームにやってきたアルモニカは、戸を開けて中の様子を見て開口一番「何してるのあんた達」と呆れた眼差しを向ける。アルモニカを見た瞬間、仲よろしく掴み合いをしていた二人は鮮やかに離れ何事も無かったように涼しい顔をしている。代わりにレイが口を開く。
「ふふん。別に何もないのですよアルモニカ。ところでサクヤ、今日の召集の用件を早く言うのです。ボクだって暇じゃないのですよ」
「ステンスレイ上級官の邪魔をしに行く暇があるならそれは暇と言う」
「違うのですあれは監視なのですよ!ちゃんと仕事をしているかどうか!」
 レイがロイド・ステンスレイという人物に傾倒していることはなんとなくで周知されている事項だが、いつも忙しそうに部屋を開けているレイが、実際は三十も年の離れた男の元に通っていたのだと知るものはほんの一握りであり、それはサクヤ以外の三番隊の面々も例外ではなく、各々不思議そうな顔をしているがさておき。サクヤは咳払いして隊長の席、長机の短辺に座る。
「よしちゃんと集まってるな。今からその話をする」
 真面目な顔をして彼女は話し始めた。

「先日、書類整理をしていた時に、様々な書類の山の中から未解決の任務が出てきた。あの人の性格上忘れてうっかりなんてことは無いだろう。深読みかもしれないが、何か理由があって書類の山に隠した可能性もある」
 あの人、クロウ・ベルガモットが隊長として仕事をしていた部屋はサクヤがそのまま引き継ぐこととなったが、しばらくの彼女の仕事はさながら遺品整理だった。しかし仕事が丁寧で几帳面な人物だったのか仕事場は綺麗に整理整頓されていた。ただ一つ、一角にできていた書類の山を除いて。サクヤは、ここを片付けることで何か分かることがあるかもしれないと思い調べていた最中の発見であった。
「それをレイクレビン上級官に零したら上に報告してくれてな。最優先でやれとのことだ。気を引き締めてやらんとな」
「……そんな大変な任務なんすか?」
「内容はざっくりしているがな、なんとも……」
 曖昧な言葉で濁すサクヤに、アルモニカが業を煮やして口を開く。
「どんな任務なんですか」
 ちらりとアルモニカを見て、サクヤは意を決したようにその言葉を口にした。
「なに、口にするのは簡単だ。とある施設が悪魔の巣窟になってしまったから、それを追い払い、脅威のないことを確認するんだ。そのあとは取り壊して更地にするんだと。名をカナソーニャ・ロヴァイ研究所と言う」
 話を聞いていたアルモニカが僅かに揺れた。
「研究所……」
「なんとも言えないというのは、その脅威がどの程度か分からないからすか?」
「ああ。これからその説明を行う」
「ま、何はともあれ、ボクがいれば安心なのですよ!ねっアンリ」
「えっ、はい」
 少し上の空のアンリに、もうしっかりして欲しいのですよ!とレイが活を入れた。ただ、上の空な人物は彼だけではなかった。

「カナソーニャ・ロヴァイ……」
 テーブルの下で、アルモニカは強く拳を握り締めた。

◆◇◆◇◆

 戸を叩く音が聞こえる。寮の扉を開くと、そこには例の少女がいた。
「こんばんは兄さん」
 アンリは扉を閉めた。

「夜遅くにすみません。昼間に堂々と男子寮入るのはちょっと勇気が出ませんでしたから」
「夜に堂々と入るのもどうかと思いました」
 部屋の真ん中のテーブルに座り、出された茶を口に含むテン。対してアンリは苦い顔をしている。
「あ、あの……テン、さん?」
「妹なんですから。テンでよろしくお願いします。敬語もいりません。妹なんですから。私からしたらあなたは兄なので、慣れるまで敬語でいきます」
「う、うん……」
 昼間殴られた衝撃で半分忘れかけていたが、彼女はアンリのことを兄と呼び、そして彼女自身アンリの妹だと言ったのだった。
 かなり微妙な空気が流れていたと感じたのはアンリだけだったのだろうか。幸いというか何というか、今日はルームメイトのフレッドが居なかったので騒がれることは無かったものの、もしかしたら、いた方が良かったのかもしれない。
 テンが「ところで、」と切り出した。
「メモ見ました?ポケットに入れた」
「ポケット……?」
 言われるがままズボンのポケットに手を入れる。
「……?」
 何も無い。
「制服です」
「ああ……。でしょうね」
 部屋着のポケットに入っているというマジック紛いなことなことは起こらなかった。アンリは立ち上がりハンガーに掛けてあった制服のポケットに手を突っ込むと、何やらがさりと音を立てるものがあった。取り出し恐る恐る広げてみると、ただ[アーサーには言わないで]と書かれていた。
「アーサーさんに?」
 テンはこくりと頷く。
「あの人に、心配は掛けたくない。一応兄妹であることはもう見たら分かるので言ってますけど、クローンだとか、研究所とか、そう言うの。あの人は自分のことで手一杯なのに。私はただの不思議な存在でありたい」
 テンの言葉に、アンリはテンの強い意思を感じた。同時に、そこに含まれた意味を。
「アーサーさんのこと、よく見てるんですね」
 ええ。とテンは、その幼い見た目に相応しくない表情をする。碧の瞳が揺れた。
「初めて私を認めてくれた人です。私を人間にしてくれた人です。……執着して、当然でしょう?」
 テンは含みのある笑顔を浮かべた。アンリは、この幼い少女の表情に、別の女性の影を見た気がした。

 伝えに来たのはこのことだけじゃないんですよ。そうテンは口にした。アンリは訝しげにその瞳を見つめる。
「私はあなたの秘密を知ってる」
「!」
 ガタンと音をさせて机から立ち上がった。秘密?何の?だが、嫌な予感がして頬をひやりと汗が伝う。
「何を」
「全てを」
 テンは目を伏せた。
「私は、兄さんについて無駄に沢山知識を得てしまいました。その理由も。……だから私はあなたが周りに必死で隠そうとしてることも知ってます。もちろん、全てではないんですけど……」
 誰にも。特に自分とエメラリーンだけにしか知りえないようなことを彼女は知っている。知ってしまっている。いや、それ以上か?そのことにアンリは酷く揺らいだ。
「ところで……兄さんは目に違和感がありませんか?」
「目?」
 アンリは訝しげに眉を顰めた。テンは手を伸ばし、そっとアンリの左目に触れた。その時、ふととある記憶が蘇る。

 ハーブの匂いでいっぱいの部屋。ここはローセッタの部屋。アンリの顔を覗き込んだ女性の名はローセッタ・ノース。
「あらあら。これはまたひどいわね。体の半分も……私にもなんなのかよく分からないわ」
「お前にも分からないことがあるんだな」
 部屋の壁にもたれ掛かり腕を組んだ男。この声は先生だ。そう。出会ってすぐの頃、先生がアンリをローセッタの元へ連れてきたのだ。理由は、アンリの半身の呪いにあった。
「今はこの目の力が使えないもの。ま、メルデヴィナ教団元最高の回復学士様である私の手に掛かれば、こんなものすぐ治るわ」
 ふふんと得意げに笑い、彼女はアンリの心臓、それから左目に触れた。
「この程度の呪いなら、ね」

「あっ、!う……」
「!?」
 突然テンの手を払い除け、アンリは目を覆って項垂れる。驚いたテンは彼の様子に取り乱し、「こんな筈じゃ」と呆然と立ち尽くした。蹲ったアンリは息を切らして苦しんでおり、テンはゆっくりと近付きその手を除けると、涙を流すその瞳は僅かに金を帯び、左目は引き攣っていた。
「ドクターを……!」
 テンがそう言い立ち上がってドクターを呼ぼうとした時、アンリが彼女の腕をつかむ。彼は首を横に振った。
「じゃあどうしろというんですか!こんなに、痛いなんて、わたし、知らなっ」
「ドクターにも、誰にも、知らせちゃだめ」
 泣きそうなテンの腕を掴んだまま、アンリは片手で目を覆い、そう言った。腕を掴む強い力が、震える腕が、「側にいて」と言ってるみたいで、テンは一人頷くと、じっと痛みが引くまで彼の頭に手を乗せていた。

 しばらくすると、発作のような痛みは治まった。本人が思い出したことで呪いが再び強まったと見ていい。テンはばつの悪そうな顔をしていた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「私がこんな事言わなかったら、兄さんはこんな目に遭わなくて済んだかもしれないのに」
 アンリは首を振った。
「君の言う通り、ちょっと前から僅かな痛みと違和感はあった。これが呪いだと何故か気付かなかったけど、僕は、昔既に罹っていた。君のせいじゃない。それに――」
「それに……?」
「……やっぱり何でもない」
 何か言いだけな口をぐっと結び、テンは暫くアンリの顔を見つめていたが、「今日は遅いので帰ります。おやすみなさい」と部屋を出ていった。一人部屋に残されたアンリは、先ほど口ごもった言葉を心の内で思う。

 自分は、誰かに呪われるようなことをしたから。きっとあの時のことだから。自業自得なんだ。この痛みで罪の意識が少しでも和らぐのなら、何だって構わない。
 けれど、体の奥から飛び出そうとする何かに、底知れぬ恐怖を感じたのも事実だった。

◆◇◆◇◆

 白い記憶の中に、ミクス以外にもう一人、印象深い人物がいた。

 彼女の名前は知らない。だが、彼女が部屋にやってくる時は、食事か実験室に連れていかれる時。だから、あまりいい感じはしなかった。けれど、彼女はとても悲しい顔をして、謝りながら彼を抱きしめるのだ。今になって、それは愛だったのだと思う。

 極東の和和ノ国で、ヴァルガという名の悪魔に術を掛けられて彼女のことを思い出してから、彼女の顔が頭の中で何度も浮かぶ。良い意味で、そして悪い意味で。

◆◇◆◇◆

【エルカリア半島 廃教会】

 ぴちょん。ぴちょん。
 どこからか、水の滴る音がする。

 西方悪魔たちが根城としている砦。本来は静かでどこからか讃美歌の聴こえる砦であるが、今日はいつもと違って何やら騒がしかった。

「マザーなどただの人形に過ぎん。カテレアル=デーニャ……娘様こそ、我々が信仰するに相応しい存在であらせられるのだ」
「マザーを蔑ろにするなど、もってのほか。お前は本当に母の子か」

――まだやっていたんですのね。
 ホールの中央で言い争いをしている集団を、柱の影から見たリィンリィンは溜息をついた。
 マザーとは、マザードールのことである。この集団が最も敬愛し、信仰している存在で、同時に皆の母である。この砦のホールから見えるのは、極彩色のステンドグラスの光に彩られた、ドレスのような巨大な球体から飛び出した女性の上半身のオブジェ……マザードールだけであるが、確かに、この砦の何処かにマザーは存在する。母から"産まれた"子達は皆、母の子としてこの集団に帰属する。
 神聖なるマザーは絶対的な存在だった。だが先日、マザーの存在価値を巡りこの集団は二派に別れてしまった。……マザードールを本気で人形だと思い、高台の部屋の窓から皆を見守っている筈のマザーの一番の娘、カテレアル=デーニャも本当はそこにはいないと分かっているリィンリィンにとっては大したことでは無かったが、小さき者たちからすれば心の拠り所が無くなるというのは大問題であったようだ。

『君達の、俺達の、大事な母上は、ただの人形だよ?人格があるなんて本気で思ってる?やだなあ、愛なんて分けてもらえる筈もないんだよ』

 よく出入りしていた白い男の言葉が蘇る。皮肉なことに、火種を撒いた男は今この場にいない。
 だが、これもチャンスだと思った。この混乱に乗じて、リィンリィンは、ことを起こすべきなのは今と踏んだ。再びちらりと覗けば、その輪の中に、リィンリィンの唯一の親友のルニもいた。「さよなら、ルニ」と小さく呟くと、彼女は自室へと入っていった。その中でも問題のある一角……あの人に関するメモがびっしりと貼られた壁やメモを片付け処理する。もう戻って来ないのだから。そして大事な物だけ持ち出すと、ひっそりと砦をあとにしようとしたのだが……
「冷たいのねリィンリィン。姉に声の一つも掛けないで出て行ってしまうなんて」
 背後から聞こえた声に振り返ると、そこには魔女帽を被った独特の雰囲気を纏う女の悪魔……メイメイがいた。彼女はいつも通り掴み所のない余裕の表情で、腕を組んで立っている。
「お姉さま」
「まあ……残念ながら、既にあなたの居場所は無いわ。あなたの変わった行動について良く思わない者の数の方が多いのよ。私の選択肢は、あなたを破門させるより他無い」
 そう言い放ったメイメイの顔を、じっと見つめたリィンリィン。
「そんなことですの。ノープロブレム、ですわ」
「言うと思ったわ」
 そうしてくるりと背を向けると、リィンリィンは立ち去った。

 地下通路の暗闇に消えていく妹の背中を見ながら、メイメイはふふんと笑った。
「困った妹ね。ねえ?シンシン」
 振り返って声をもう一人の妹に掛ける。廊下の隅の方で膝を抱えて座っていたシンシンは、かつての豪傑さが無くなり最早別人のようだ。
「エヴィルナーラタ……」
「あなたまだ言ってるの」
 ため息をついたメイメイが、ちらりと壁を見やると、運悪くトカゲのような生き物が走っていた。それを乱雑に掴み取ると、次の瞬間には手の上で小さな蜘蛛のような生き物に変わっていた。にこやかにメイメイはシンシンに左手を差し出す。
「ほら、あなたの好きなエヴィルナーラタよ」
「違う!!」
 手から逃げ出した蜘蛛を、シンシンは立ち上がり踏みつけた。ぷち、と音がして、それは灰に変わる。
 困ったような顔をした姉に、シンシンは詰め寄る。金の瞳が怒りと悲しみに揺らめいている。
「どうしてお前はそんなに俺の気分を損ねるのが上手いんだ!お前の力じゃあいつは生き返らない!」
「当たり前じゃない。蘇りの術なんて、使える者はいないわ。悪魔にも、人間にも、ね。不完全な醜い生き物が生まれるだけよ」
 それともなあに?とメイメイは、未だ睨みつけていたシンシンの頭にぽんと手を乗せた。
「ペットが恋しくなくなるくらいの脳味噌に変えて欲しいかしら?」
 はっとして恐怖に竦んで声が出なくなったシンシンからそっと手を離すと、メイメイはにこにことして、その人差し指を顎に当てる。
「ま、冗談よ。私の能力は、一人につき一度だけ見た目を変えられる変身の力。蟻みたいに小さくして相対的に脳の体積を減らすか、そうね、そもそも、あなたには一度使ってるから無理じゃない。そんなことも忘れてしまった?」
「チッ……本当にクソババアだなァ」
 馬鹿にしたように上品に笑う姉に悪態をつく妹。否、姉のふりをした生き物と、妹のふりをした生き物。この姉の女、姉妹ごっこが好きなのだ。

 相変わらずホールからは言い争う声が聞こえる。
 その様子にシンシンが眉を顰めるが、メイメイはむしろ楽しそうだった。
「あの男、一応幹部のくせに、掻き回すだけ掻き回して出ていってしまったわね」
「あの男?」
「あら、あなたは蜘蛛ちゃんに夢中で見てなかったかしら。シロウとか言う男よ」
「シロウ……?もしかしてジュディか?」
「人間名はジュディだったかしらね。出会った当初に私にはシロウと名乗ったのに、悪魔用の名前はもう使い飽きたのかしら……本当に信用ならなくて適当な男ね」
 はあとメイメイはあからさまにため息をついた。
「これだから男は。この前も、聞きたいことがあるって言ったから教えてあげたのに、この仕打ちかしら」
「ああ……?あいつがお前に聞きたいこと?」
「ええ。洗脳の仕方よ。……あ、待って……」
「?」
 なにかに気付いたように、メイメイはふむと顎に手をやる。表情は、おもちゃを見つけた子供のように、見る間にわくわくとし始める。
「そうね、いい加減、誰がボスだか教えてあげるわ」
 そう言い、杖のような柄の長い鈍器を引き摺りホールへと向かうメイメイの背中を見ながら、シンシンは立ち尽くす。
「ったく恐ろしい姉だぜ。なあリィンリィ……」
 妹だった者はもういない。振り返ると、彼女の消えていった闇。
「くそ……」
 いなくなって寂しいのは、自分一人だけだった。







32話へ