6話「便利屋」





 時は少し遡る。

 霧の街マリュデリア。そこは名前の通り、西からの温暖な海水により運ばれた湿った空気やその地形が相まって、常に霧が立ち込める街。
 そこに[便利屋]と書かれた看板を掲げる、巷では有名な事務所があった。

「ねえローザ。仕事来ないね」
「……」
 いつも天気はどんよりとした曇や霧であるのに、珍しく晴れた穏やかな昼下がり。光の当たる窓辺のテーブルに女性が座っている。
 顔付きを見ると東の人間だろうか。少し癖の付いた肩の長さの黒髪。同じ色を宿した瞳はどこまでも暗く、何処か宙を見つめている。
 ぼーっとした彼女の目の前には、どこか寂しさ湛える眼差しの青年が窓辺の壁に背を預けている。同じく東の血の人間、こちらは服装からしても中華煉朝出身のようだ。
 彼はミン・ヤン(明楊)。この便利屋の一人である。
「ローザ。今日は天気が良いけど、どうしたの?」
「別に……」
 彼女は青年を見ることもなく返す。彼女は無意識に左の手首をさする。
 その手首は白く滑らかで傷一つ無いが、ここは嘗て、彼女が幾度となく傷付け命を終わらせるのに使った場所でもある。
 ローザと呼ばれた少女からは質問に対する答えは全く得られなかったが、彼は特に気にもせず、当たり障りのないことを一方的に話しかけていく。どうやら、これが普通のようだ。
「あ、でもそろそろシリスさんが来るんじゃないかな。姉さんにちょっかい掛けるために」
「…………そう」
「姉さん今二日連続徹夜後の寝溜めだからあんまり来て欲しくないよね。……ほら、また住処を変えなきゃいけなくなるからね」
「……後ろ……」
 えっ、と青年が振り返ると、そこには仮面のような笑顔を貼り付けた白衣の男が窓の前に立っていた。よく見ると、怪しげな白衣が何やらプラスチックの容器に入った薬品を片手に窓を溶かしている。
「酸も硝酸もガラスを溶かすことはできないけれど、フッ化水素酸はガラスも溶かすんだよー。知ってるよねー。知ってるかーこれくらいー」
 その音、臭い。そしてその男に、青年は顔を顰める。
「何してるんですかシリスさん。窓の取付け費及び過去のあれこれその他諸々まとめて請求しますよ」
「やだなあミン君ったら、君ってばお姉さんに似て意地悪になったねー」
「誰のせいですか」
 何が嬉しいのか、そもそも嬉しいのか。シリスと呼ばれた白衣の男は、気味の悪い恵比寿顔を貼り付けたまま、器用に薬品に触れないように、すっかり溶けた窓から堂々と侵入する。
 彼は自分を睨むミンのことなど全く気にせずに奥のドアへと向かうが、当然ミンに阻止される。
「これは正当防衛ですからね……!」
 台詞と同時に放たれた銀の筋。それはシリスの足と地面を縫い付けたかに思えた。しかし、彼は最小限の動きで避けていたようだ。笑顔の白衣はクルリと回り、肩をすくめる。
「もー危ないよ?ミン君、そんな物投げちゃあ」
 何か言いたげなミンを無視し、シリスは床に刺さったままの彼の針をよっこらしょと引き抜いた。……針と言っても裁縫に使うにしては超極太の。そして、んーと少し辺りを見回した後、えいっと侵入した所とは別の窓から何処かの部屋の窓を刺し壊した。
 がしゃんと窓が壊れた音。問題は窓が割れたことではなくその部屋にいる人物がなのだが、ミンはもうダメだと呟いてローザを連れて部屋から出ようとした。しかし、足を踏み出そうとした場所に自分の針が突き立った。
「あらぁ?見る顔ね、一体誰だったかしらぁ?」
 ねちっこい声が上から降ってきたと思うと、黒髪の女性が降り立った。ミンとよく似たその女性にはクマが浮かんでいる。その顔は明らかに怒っているが、笑っていた。
「わー凄いよね2階から飛び降りるなんてー」
 空気を読まないシリスの間延びした感想に、不機嫌な女性は後ろに手をまわしながら応える。
「黙りなさいよぉシリス・レバーニャ。貴方一体何しに来たのぉ?」
「んー、不機嫌にしに」
「分かったわ、殺して欲しいのねぇ?」
 段々と殺伐となっていく空気の中、唐突にシリスがあーそうそうと空気を読まない声を上げる。
「リンさんを不機嫌にしに来たのもそうなんだけどねー、今日は仕事を持って来たんだー」
「……へえ?珍しいわねぇ、意外と使えるじゃないのぉ」
 仕事。それを聞いたリンの空気が変わる。表情が少し変化した。本当に微々たるものであるが。
「護衛の仕事だよー。うん。見た目は怪しいし、確かに訳ありなんだけど、報酬はちゃんとくれるから別に良いと思うんだー。それにねえ」
 彼は、弓のように曲げた目と口元を更に歪ませ笑みを深くする。
「とっても楽しいことが起こる気がするんだー」

 仕事とは、簡潔に言うと依頼者を護衛することだ。
 シリスによると、依頼者は全身に特徴的な黒い衣服に顔までもマスクで覆った人物で、聞く限りどうも怪しい。しかし信頼できる人物だと白衣は笑う。まあ彼の"信頼できる"とは、報酬の面でという意味だろうが。
 彼から説明を聞くリンとミン。並ぶと姉弟であると分かる。
 説明を聞く二人とは裏腹に、未だ虚空を見つめたまま動かないローザ。実際、彼女の表情は変わらないが、内側の心も変わらず動かない。彼女はただ、遠い昔、千年も昔からずっと、大切な人が近くにいないことを耐えられるように心を眠らせているだけなのだ。
 千年もの昔から。そのことは、いつも一緒にいるミンでさえ知らない。けれど、彼は彼女の大切な人を共に探してくれる。今回の仕事であってもそれは変わらないだろう。

             ◆◇◆◇◆

「あんまり慣れないなあ。僕は二号車でいいんだけれど……」
「何言ってるのよぉ。護衛が仕事なんだからいなくちゃだめでしょぉ」
 ミン、リン、そしてローザと依頼者は、北の地へと向かう列車の1号車、装飾や設備の質が他の車両とは比べ物にならない一等車両に乗っていた。
 その豪華さから、いつも慣れていないミンはそわそわとした様子で、その気持ちを紛らわせるように窓の外を眺める。対して向かいのリンは平然と構え、依頼者のいる隣の部屋の壁を睨めつけていた。
 依頼者は、話に聞いていた通り全身黒ずくめだった。口元に巻いた布や被ったフードのせいで褐色の肌と目元しか見えないが、その目もあの白衣のように常に閉じられており、全く何を考えているのか分からない。しかも、依頼は護衛であるのに同室でなくていいと言う。ほぼ追い出された状態で、便利屋の三人は依頼者とは別の部屋だった。
 リンは、その依頼者を警戒していた。依頼者ではあるが、やはり割り切れないものもあるのである。
 独特であったからか、依頼者の姿に見覚えのあるような気がしてミンは気になっていた。しかし思い出せずに窓の外をぼーっと眺めていたミンであったが、その闇の中に蠢く黒を見た気がした。しかし、何しろ暗い夜であるから良く分からない。
「ねえ姉さん、さっき何かいなかった?」
「は?何言ってるのぉ?」
「え、いや……何でもない」
 走る列車だ。流れる景色と間違えたのだろう。何が見えてもおかしくない。そう納得したミンは、そうだよねと顔を窓から離した。
 しかしローザは見ていた。何か黒い影が闇の中で列車の壁を上手く伝い、ここから遠ざかっていくのを。

 しばらく経った頃、不意にミンが窓を見やるとそこには先ほど見たものとは恐らく別の男がおり、彼と目が合ってしまった。どうやら彼は屋根からぶら下がっているようだ。
 突然のことに、警戒するよりも先に驚いて固まってしまうミン。しかし彼はそんなミンのことなど気にせず、コンコンと窓を叩く。それに気付いたリンは男の顔を見て、あら、と言って窓を開け始めた。
「あら、件の隊長殿じゃないのぉ」
 するりと入ってくる男。部屋の明かりに照らされた姿を良く見れば、彼の纏う服は黒と白を基調とした教団の制服。緑の石の勲章。左腕に通された赤い腕章。彼はメルデヴィナ教団のエクソシスト隊の隊長であった。そして長い銃のような物を背負っている。
「姉さん、知ってる人なの」
「ええ、教団のサード・テトラールキ。私はよく仕事で会うんだけど、あなたはまだ初めてみたいねぇ?」
 サード・テトラールキ。聞いたことはある。テトラールキとは教団の組織図で言うと、大体団長の下のトップ4のことを指す。そもそもなぜそんな人物がこんな所に、しかも窓から入ってこなくてはいけないのか。
 テトラールキの男は、口元を覆う垂れ下がった布を外すことなくリンに言い放つ。
「邪魔はしないでいただきたい」
 突然の男の発言に、リンは一瞬驚くも、彼女は何が楽しいのか笑い始めた。
「一体何の話かしらぁ」
「惚けるな」
「いやいや、本当に知らないのよぉ」
「……」
 殺伐とした空気が流れる中、リンは急に体勢を低くしたかと思うと、飛び上がるように男に急接近して体を押し付け、彼の口元のマスクを下げた。
「喧嘩売ってるのはそっちよぉ。一度くらい自分の口で話してみたらどうかしらぁ」
「無茶振りはやめていただきたい。分かっているだろう」
 全く動じない男。驚くべきはそこではなく、彼の口が全く動いていないことだった。
 冷めた目ですっと離れる彼からリン。解放された男は扉へと向かいながら続ける。
「この列車は現在この1号車だけを除き教団のある任務の移動車として使われている。そんな中、何者かに運ばれた"卵"が一斉に孵っている。1号車には便利屋。けれど貴女は関係が無いと言った」
「そうよぉ。……あなたには言っておくけど、私達は今回護衛しか仕事が無いし、そもそもここ以外教団が使ってるなんて知らなかったのよぉ」
 彼女の言った言葉に偽りはない。ミンだってその通りだ。その前に彼はほとんど男の言っているとこが分からなかったが。
 部屋を出ていく直前、諦めた様に帰ろうとしたテトラールキの男は急に立ち止まって振り返る。

「そう言えば……お前達は一体誰を護衛している……?」


 テトラールキの男に言われて、慌てて依頼者の部屋の扉を開ける。そこはもぬけの殻で、窓が開いたままになっていた。
「あらぁ、じゃあ依頼者が……」
 どう考えても依頼者が卵を孵した張本人である。では捕まえなくてはならないな、そう声を発して窓の縁に手を掛けようとした男の真横に、何か鋭利な物が突き立った。リンが投げたそれは、よく見るとドライバー。
「殺されちゃ困るわぁ隊長殿。私達、依頼者には報酬金を払って貰わなくちゃあいけないのよぉ」
「全く貴女はお金のことばかりだな。……ではこうしよう」
 壁からドライバーを引っこ抜きリンに投げて返す。そして男はにやりと笑う。
「私が、貴女達があの依頼者との契約を破棄させることへの賄賂、そして払われる筈だった報酬金を払おう。これでどうかな?」
 男から出された交換条件。条件はかなり良いが、彼女だって仕事である。いくらそう言われども、普通は便利屋としてのプライドが許さない。……筈だが。
「そうねぇ、全然オッケーよぉ」
「えっ!?姉さん!」
 やけにあっさりと条件をのんだ姉に、驚き反論するミン。しかしリンのいつもの飄々とした態度は変わらない。
「ミンあのねぇ、これは裏切りかもしれないけれど賢明な判断よぉ」
「信用無くなるよ?」
「物言わぬ相手には関係のない話よお」
「人としてどうかと思うがな」
 それだけ言って窓から出ていった男。ミンは不服そうに姉を見た。
「そんな風に見ないで頂戴よぉ、この世界で生き残ってきた私のやり方なんだからぁ」
 そして彼女は窓を見やり、それにねえ、と付け加える。
「私みたいなただの人間がエクソシストと闘って勝てるわけないじゃないのぉ」

             ◆◇◆◇◆

 ミンが窓から身を乗り出して後方を見ると、二つの人影が見えた。一つは教団員の男。奥にいるもう一つは依頼者である。屋根の上とは思わせない佇まいの依頼者。それに対し男は背負っていた銃を構えているようだ。二人の間には緊張した空気が流れている。
「見えるかしらあ。彼の魔魂武器はゲオルグ=サイデリケ。変幻自在な弾道に多彩な攻撃。数あるエクソシストの中でも私は敵に回したくないわぁ」
 列車の離れているというのも列車の煙も理由ではあるがここからはよく見えない。しかし気が付けば戦闘が始まっており、ちらちらと様々な色の光が見える。
 その時突然にミンがぼそりと呟く。
「そっか、イーリア族だ……」
「なあにそれ」
 イーリア族。南方の少数民族で、その謎に満ちた独自の風習や言い伝えから"竜の卵を守る者"と言われている。
 依頼者の身につけていた服装はイーリア族の物だが、ミンはすぐに思い出せなかったのだ。小さい頃この姉に読んでもらった本の中に出てきたのだ。それが、ちらりと見えた依頼者の戦い方で分かった。
「竜の卵を守る者?じゃあそのまんまハッチャーじゃないのぉ。それよりあなたそんなこと知ってたのねぇ」
「なに呑気なこと言ってるの姉さん……イーリア族は呪術を得意とする特殊な人間だよ、あの人大丈夫なの」
「もうぜーんぜん心配無いわぁ。特殊な人間だなんて。エクソシストを何だと思ってるのよぉ」
 心配そうに見つめるミンをよそに、リンはあのテトラールキの男の実力に対して絶対的な信頼を寄せているようだ。まあ、それはミンにも後ほどすぐに分かることなのだが。

 エクソシストの男の銃から放たれた弾丸は、イーリア族の彼の展開した札に当たると、バチバチと音を立てて札を焦がしつくす。続けて放たれた弾も札で防ぐも、こちらは無数の針が着弾した部分から飛び出、彼はまともにその攻撃を受けてしまった。
 左側の顎から腰にかけて咲く赤。それでも彼は声一つ上げずに、今度は袖口から大苦無を出すとエクソシストの方へと低い体勢で突進してきた。
 それにも動じず、そのエクソシストはイーリア族の男攻撃をひらりと躱し、表情一つ変えず銃の先に付いた剣で切り捨ててしまった。
 屋根から落ちるイーリア族の男。確認はしていないが、もういいと言った様子で彼は背を向け屋根から降りる。
 戦いは一瞬にして終わってしまった。あの依頼者、イーリア族の男はこのエクソシストに対して全く歯が立たなかったのだ。

「始末できたようねぇ。ちゃんとお金は払ってよねぇ、クロウ・ベルガモット」

 何処かでガラスのような物が割れる音がした。







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