52話「銀色の記憶」





 揺らめく銀色の記憶。それは何色でもあり、何色でもない。
 見る角度によって色を変えるそれは、覗き込んだ者を、深い深い深淵へと誘う。



52
【若葉色の対話】

 銀色に似た金髪に、金とも緑とも言い難い、日に照らしたペリドットのような瞳を持った若い男がいた。彼の風貌は、この世界で悪魔と呼ばれ忌み嫌われた生き物とよく似ていたために、彼は随分苦労した幼少期を過ごしたという。
「私は家から出してもらえなかった。でも恨んじゃいないさ。父も母も世間の目が怖かったんだろう。急にこんな目の色の子供が生まれたらね。十の時祖父が迎えに来てくれるまで、親以外の人間を知らなかったんだ」
 彼の隣に腰掛けていた女の名はステラ。彼女は、己の闇を惜しげも無く虚ろな目で淡々と語る男の話を聞いていた。
「今度は君の話を聞かせてよ。私の話なんか面白くもないだろう」
「いいえ。大変興味深かった」
 くたびれた白衣の腕をさすりながら、若い男は自虐的に目を細める。
「それはセンセーショナルだから?」
「いいえ。あなたのことが知れて純粋に良かったと言っているのよ」
 ステラにとって、それは本音だった。馴れ合いは必要の無い職場だが、純粋に興味があったのだ。
「それにしても君には同情するよ。私の祖父があんな人じゃなければね。あんな変な人の元で働かされているなんて」
「いいのよ。あの人も悪い人じゃないの、分かっているわ」
「優しい人なんだね。――私は嬉しく思うよ。同じ瞳を持つ人間が、こんなにも優しい心を持っているなんて」
 男は微笑んだ。

 ステラの目の色は青だった。彼女はあの男の緑を珍しいものだと思っていた。そんな彼に言わせれば、彼女の目の色も緑であるという。青みがかった緑だと。そう言われるうちに、彼女自身もなんだかそんな気がしてくるのだ。

 その男は、研究所のとある研究をしている室長だった。若くしてその地位に立った男。彼は研究者として生まれ、研究者として育てられたような人間だった。彼女は少し哀れにも思ったのだが、自身もさして変わりはしなかった。


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【金色の日】

 ステラが彼と初めて会話して、およそ五年後のことである。

「フリィベル氏、アリア氏が呼んでいます」
「……分かりました」
 デスクの上の書類を掴みあげ、彼女は研究室を出ると、別の研究室へ向かった。

 アリア氏とは、エゼル・ファル・アリアと言う名の男のことであった。記憶力に関する研究を行っていた筈なのだが、段々と歳をとるにつれおかしなことを言うようになった。そして遂に孫も使って所長を丸め込み、独自の研究を始めた。そのため社内でも相当狂人であると噂されていた。何故なら彼の研究はまさに御伽噺のようなことばかりだったからだ。オカルト科学者、影でそう言われていたが、実際のところ彼の高度な思考に周りがついていけなかっただけかもしれない。父がこの組織にいたからという理由で入ったステラがすぐに彼の研究室に配属されこき使われたのは、不幸そのものと言っても過言ではないであろう。
 その大きな研究室の真ん中で、何やら珍妙な機械と睨み合っている白髪混じりの老人がいる。開け放しの扉の近くの壁を二度ほど叩くと、老人は顔を輝かせて彼女を見た。
「失礼します」
「来たかねステラ、これを見てくれ」
 老人は子供のように跳ねながら、出入口付近で立ったままだった女の元までその脚を引き摺っていく。そうして彼女にリストを見せてきた。バツの並ぶ中に、一輪咲く小さな円。
「これは――成功……?」
「そうさ!」
 老人はパアと顔を輝かせる。
「簡易的なテストだが、意外と通過する被験体は少なくてねえ。彼も脱落するかもしれないが、まあその時はその時さ」
「アリア室長、今度は何をしようとしているんですか?以前とは少し違うことをしているようですけれど」
「今度は、じゃない。言わば今までの集大成さ」
「集大成……」
 アリアと呼ばれた老人はにっこり笑う。
「そういうわけだから、しばらくはあれを頼むよ。新しい子はいらないから。今の所はね」
「分かりました」
 頭を下げて研究室を後にしようとしたステラを、老人は呼びとめた。
「ステラ、こう言ったのも私だし、奴も了承している。だが、お前はこれでいいのかね」
 しばらくの沈黙の後、ステラは微笑んだ。
「もちろん。私が選んだことです」
 そう言い残して足早に立ち去る。誰もいない廊下に向かって吐いた言葉は誰にも届かない。
「本当は、あなたがそう強要してきたくせに」



 ステラはその足でもう一つ上の階へ、とある部屋に向かった。そこは子供部屋と呼ばれていた。
 白い壁、白い家具のある部屋に、子供達が収容されていた。
 そのうちの一人が、扉の開いた音に反応して駆け寄ってきた。
「あっカイボウさーん!……ちがった」
 あからさまに残念そうな顔をした幼い女の子の目線に合わせるように、ステラはしゃがみこむ。
「残念ねミクス。ねえ、ルクスはまだ戻ってきてない?」
 大きなくるりとした緑の瞳がステラを見上げる。
「うーん。まだだよ。ルクスこの前からずっといないよ」
「そうね。ありがとう」

 ステラは部屋を出て二重扉を閉めると、隣の部屋へ。
 その部屋は簡素な医務室だった。その一角、緑の瞳であるベッドを見つめるのは、金髪の男性だった。可愛い顔をした、愛しく憎い悪魔。ステラがそう評する、とある研究者だった。
 ステラが声をかけるか迷っていた時、ドア横のステラを押しのけ、彼の部下達が駆け込んできた。
「クルーザー氏、A-12の様子が、」
「分かった」
 男は立ち上がる。傍を通る時ステラを一瞥したものの、部下に促され早足で出て行った。


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【青色のギフト】

 彼女は研究所に住んでいたわけではない。毎日帰れていたわけではないが、外にちゃんと家があった。短い新婚生活を送った、空っぽの家が。今や研究所にしか居場所を持たず、その多忙さから完全に研究所に住んでいたような夫には、既に興味も持たれていない家だ。ステラ自身、用も無い時はあまり帰ってはいなかった。そう、誰が悪いという訳ではない。そもそも彼らに、社外に居場所なんていらなかったと言うだけだ。

 しかしある時期から、彼女には家に帰らなければならない明確な理由があった。彼女には子供がいた。昔の話だが、成り行きで子供を拾ってしまい、そのまま育てていたのだ。おかしな話であるが、見過ごす理由も助ける理由も持たなかった彼女は、まるで猫を飼うかのように女の子を拾い、そのまま彼女の面倒を見続けることになる。現状に不満を持っていても自分ではほとんど何も変えない彼女は、ただ成り行きに身を任せるしか生きる術を知らないのである。

 けれどこの子供一筋縄では行かなかった。全く心を開かなかった彼女に対しステラは根気よく粘り、ようやく打ち解けた頃にはもう無くてはならない存在になっていた。ステラにとって子供の存在ほど嬉しいものはなかった。
 というのも、彼女は生まれつき子供ができない身体だった。生まれた時から両親には研究でほぼ構われなかったせいで、彼女は寂しさを抱えて育った。だが彼女の求めた幸せな家族というものは、どんなに願っても叶うはずの無いものであった。けれど血の繋がりのないこの子供が、それを叶えてくれたのだ。穏やかで優しい青い瞳が表情を映す度、ステラは大きく揺さぶられた。



 彼女が家で子供と暮らし始めた最初の頃の話である。

「最近早く帰るんだね」
 偶然居合わせた夫に言及され、思わずステラは手を止める。
「ええ、少し用事ができて」
「そう」
 冷えきった関係。彼は自分に興味が無いのだとステラは思っていた。だから、子供を引き取ったことを言っていなかった。
「……猫でも飼うなら、確かにここでは無理だね。私を含め、抗体を持つ者も少なくない」
「まあ、そんな所ね」
 彼はクマのある緑の目でじっとステラを見つめたが、ふいと珈琲を片手に給湯室を出て行った。

「それでも私は、あなたが好きよ」



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【疑問】


 この研究所の別の領域では、遺伝子研究や人工授精などの分野の研究をしており、彼女はサンプルとして進んで立候補したことになっていた。否、彼女の上司であるアリアがそう勧めた。愛想を尽かされた息子も自分の孫も部下も道具程度にしか見ていない男だ。その実験でできた人間を、モルモットとして自分の研究に使おうとしていたのだから。実際、そうされた。
 しかし、この時ステラは何も言わなかった。何も思わなかった。上司にそう望まれ、夫にもそう望まれた彼女は、何も言うことができなかった。彼女はそういう性格だったのだ。大人の社会で生きる為に他人の顔を見て育ってきた彼女のアイデンティティは、他者からの期待に応えることで保たれていた。いくら後悔しようとも仕方が無い。これから彼女に降りかかるであろう不幸も、彼女自身のせいであると言っても過言ではない。けれど、上司や夫が彼らのことを物のように扱う様子をまざまざと見てきたせいで彼女自身も疑問を持っていなかった。被験体だって同じ人間だから。少し、心が痛む程度。


 試験管の子供。成功した個体は現在二体。そのうちの一体はクローンである。彼女は生まれてすぐに死んでしまったのだが、その細胞はクローン実験に流用された。しかしクローンが何かなど、ステラには関係のないことだった。
彼らの歳が七つ程になった頃のことである。不思議なことに、彼女は子供たちの輪郭を見ていると、段々と心がざわつくようになった。血こそ繋がっているが、お腹を痛めて産んだわけでもない。手塩にかけて育てたわけでもない。そんな、ステラが無関係だと割り切っていた子供たちが、段々と自分の子供のように思えてきたのである。
 本来もっと早く気付くことだっただろうが、ステラはそうではなかった。その上、まだ確信には至っていないのである。

 自分の仕事を放棄して子供部屋にやって来たステラは、部屋の隅の白い椅子に座りぼんやりと子供たちを見ていた。
(私は、何かを間違えたのだろうか)
 対角の隅で、ミクスとルクスが遊んでいる。男女ではあるが容姿のよく似た幼い彼らは、二人で一つの絵本を読んでいた。文字なんか読めない。絵を見て楽しむのだ。
(私は、このままでいいんだろうか)
 その時、白衣のポケットに仕舞っていた通信機が鳴る。向こうの要件を聞き、ステラはまたかと思い立ち上がる。一歩また一歩と二人に近付いた。
「ミ、ミクス……」
 ステラが近付いたのに気付き、ルクスがびくりと身を固くして、ミクスの服の裾を掴む。ステラはルクスに嫌われていた。
 ステラはしゃがみ込むと、ぱたんと絵本を閉じ、彼に手を差し伸べる。
「ルクス、時間よ」
 何も知らないミクスは「ルクス、じゃあまた今度ね」と仄かに笑った。泣きそうな顔でミクスを振り返る子供を半ば引き摺りながら、ステラは彼をアリアの元に連れて行った。



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【確信と】


 彼女が我が子と思うのは、この家で暮らす青い目の女の子。
「お母さん!」
 お腹を痛めて産んだ訳でもない。一番手のかかる幼少期を育てた訳でもない。けれどもステラは愛しくて仕方が無かった。ステラをあれだけ警戒していた女の子が、彼女が根気強く接することにより心を開いたことも一因としてあるかもしれないが、ステラにとって彼女は本当に娘だった。……しかし同時に、重大な疑問が浮かび上がるのである。
(この子とあの子達、いったい何が違うの?)
 彼女が蔑ろにしてきたモルモットたちの顔が浮かぶ。
 あの時感じた違和感が、ふと確信に変わった。ステラが無意識に蓋をしていた感情が溢れ出す。
「わたしは……なんてことを……」
 崩れ落ちたステラに、娘は駆け寄った。動揺していたようだったが、やがて、かつてステラが彼女にしたように、おずおずとその体を抱き締める。
「……アル……モニカ?」
「お母さん、大丈夫だよ」
「……」
「私が、いるからね」
 かつてステラが彼女に掛けた言葉を語っていた。ステラは彼女を抱き締めた。
「そうね、優しいあなたがいる」
 けれど、あそこにはあの子達がいる。
 言葉を飲み込んで、ステラはあることを口にする。
「お母さんは、いつか悪魔と戦う日が来るかもしれない」
「あくま……?」
「ええ。でも、心配しないで。きっとみんな、幸せにするから」
 逃げているだけではいけない。ようやく彼女は気付いた。いや、そもそも彼女に逃げる道などなかった。

(何かあったらどうしようかしら……)
 窓の外で遊ぶアルモニカを眺めながら、ステラはため息をつく。
 今までであれば、アルモニカを連れてどこかに逃げればよかった。けれど今はそれが出来ない。彼女は、組織に人質を取られていることにようやく気付いたのであった。
(蹴りがつくまで、誰かに、預けないと……)
 ステラは、数少ない外の知り合いを頭に思い浮かべていた。


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【黒い目】


 白い子供部屋は、何もルクスとミクスだけの部屋ではない。他の観察の必要な子供達も同時に収容されていた。その大半は、買われてきた者達である。

 そのうちの一人、黒い髪に黒い目をした女の子は、よく謎の記号を床に書いては怒られていた。
「十四番。清掃員を困らせるな」
 そう言い桃色のクレヨンを取り上げようとした男の手を、ステラは思わず遮った。
 理解できないといった風に男は眉をひそめた。
「紙が、どこにあるのか知らないのよ」
「……そう」
 クマの酷い金髪の男は、淡白な返事をすると、黒髪の少女、A-14の手を取って部屋を出て行った。少女の黒い目は、扉が閉まるまでじっとステラの顔を見ていた。
 残されたステラは、床の桃色を凝視する。

「みんなは何処にいるの。パパはどこにいるの。ママはどこにいるの。帰りたい。ママはいつ……迎えに来て……くれる、の……」

 思わず泣き始めたステラを見て、不思議そうに金髪の双子は顔を見合わせた。

 彼女は分かっていた。己の犯した過ちの、その大きさを。これから待つ、苦しみを。実際彼女は、何年も苦しむことになる。




 手を伸ばすと、彼は首を横に振った。
「さあルクス。行くわよ」
「いやだ!そっちはいや……!」
 途端にぐずる子供。可哀想な子供だとステラは思った。
「どうか困らせないで」
「いきたくない、おねがい」
 無理も無い、彼は知っているのだ。その向こうに何があるのか。これから自分は何をされるのか。……ステラは歯痒かった。嫌だと分かっているけれど、抗えない自分が。上司を裏切れない自分が。
「……ごめんね、何もできなくて」
 そう言いステラは子供を抱きしめた。
「……え……」
「ごめんね」
 泣きそうな顔で微笑んだステラは、呆然とした子供を予定通り実験室へ連れていった。
 振り返ることなんてできない。どんな顔をしているのか。どんな目で見られているのか、そう思うと、彼女は決して振り返ることなどできなかった。

(いつ、いつならいいの。いつ、どうしたらいいの。分からない。教えて、誰か、誰か……)





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【銀世界】


 ある日、アリアにリストを貰ったステラは子供部屋に向かったのだが、すぐに違和感を覚えた。部屋には何人か子供がいたが、その部屋の隅で一人、ルクスが膝を抱えて小さくなっていた。
「ルクス……?」
 ステラの声にびくりとしたルクスは、更に小さくなりながら怯えた目をステラに向ける。ステラの心は痛む。
「ミクスは……?」
 そう、ミクスはいつもこの部屋にいるはずなのだ。ミクスはこの研究所初めての人間のクローンとして、大事に飼われていたはずだから。けれど、目の前の子供は不思議そうに目を瞬かせると、首を横に振った。ステラは嫌な予感がした。
「……ミクス、つれて行かれたよ。カイボウさんが呼んでるって」
 冷たい汗を背中に感じながら、ステラは部屋を飛び出した。

 彼の研究室を目指している途中、廊下を歩く彼をすぐに見つけた。
「ハル!」
「クルーザー室長」
 目の下にクマを作った男は訂正しながら振り返る。
「幸い今は他の者がいないから良いものの。あと廊下は走らない」
「……ヘンリー・クルーザー。そんなことを言わせに来たんじゃないわよ」
 彼は首を傾げる。
「もう、やめてよ」
「ミクスのことか」
 ステラは頷いた。しかし目の前の男は残酷なことをさらりと言う。
「仕事外、趣味に使おうとしていることが不服なのだろうか。私のことをよく知っている君なら分かるだろうが、私は今の被験体を使っての実験に満足できなくてね。私の目の色と同じ、あれを使ってやっと証明できる。この世のお粗末なヒエラルキーなど、簡単に変えられると」
 つまりそれは、目の色を変える実験にミクスを使うということだった。けれどステラはそれが成功するとは思っていない。
「……あの子達は、やめてよ」
「何を今更。あの人には差し出してるじゃないか」
 ステラは聞きたくないとばかりに首を振る。
「あなたはどうして耐えられるの?自分の、子供じゃない」
「彼らを自分の子供と思った事は、一度も無い。彼らはモルモットだ。君もそう言っていたじゃないか」
 その言葉に、ステラは目の前が真っ白になった。酸素の薄い頭は揺れて、気が付けば床を見つめていたのだが、彼女はゆっくりと立ちあがる。
「あの子を使うなら、私を使いなさい」
 男は怪訝な顔をした。
「絶対に、あの子を渡さない。私の目も、緑でしょう。じゃあ、私でもいいじゃないの」
 ステラの目は青くまっすぐだった。黙っていた男だったがようやく口を開く。
「ミクスは初の人間のクローンとして、象徴のように大切にされていたが、その必要が無くなった。データが改竄されていて、あれはルクスと同等の存在だと言うことが分かったからね。……けれど君は違うだろう。替えが効かないから、」
「ミクスだって同じよ!」
 ステラは叫ぶ。
「ミクスも、ルクスも、私も、あなたも同じよ……」
 顔を顰めた男だったが、溜め息一つ吐いて承諾した。
「ミクスを部屋に帰そう」
 これは、彼はもうミクスには手を出さないという宣告だったが、同時に彼以外の研究者から守れたわけではないことを意味していた。


 白い部屋にミクスが戻り、ルクスと遊んでいる様子を見てステラは安堵した。





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【赤色は贖罪】

 あれからステラは研究者として役目を果たすことができなくなった。虚ろな白い瞳。まるで雪のように美しいとは彼女の夫の口から出た言葉であった。

 彼女は仕事の引き継ぎの為に研究室に残っていた。研究室の隣の倉庫で、同僚と備品の確認をしていた。その時、突然に同僚が悲鳴を上げた。
「どうしたの!?」
「停電です!」
「停電?何故……?でもきっと大丈夫。すぐ復旧するようになってる筈」
「今日は、アリアさんが……」
「え?」
「ちょっと見てきます!」
「ええ、お願いします」
 間もなく電気は復旧したようだが、一人残されたステラは段々と不安になってきていた。何故なら、遠くで悲鳴や怒号、硝子の割れる音等が聞こえるようになったからだ。彼女は、その正体がすぐに分かった。
(あの人の失敗作だわ)
 失敗した被験体がいた。その個体名はA-12。その個体は凶悪すぎて、近いうちに処分されるはずだった。
 耳を澄ませると、残った職員達の言葉が聞こえる。

「あれを止めろ!子供だ!殺しても構わない!」
「子供!?どれだ?いっぱいいるだろ!」
「いや、うちの被験体は絶対に殺すんじゃない!生きたまま捕まえてください!」
「狂人の!?そんなこと言ってるうちにこっちが殺されてるんだよ!」

(ルクスのことだ……)
 そのうちに、ぺたぺたと素足で走る音が聞こえてきた。心許ない足音、浅い息遣い、漏れる小さな泣き声は、確実に知っているものだった。
「……ルクス」
 前がよく見えない。けれどどこにいるかは分かる。顔なんて見えない。けれど不安と恐怖に支配されていることは分かる。
「大丈夫よ」
 何か持っている。その瞬間分かった。けれど、ステラは止まろうとしなかった。
「私が守ってあげる」
 ステラはふらつきながら立ち上がり、腕を広げ、
「大丈夫よ、いらっしゃい。私の愛する――」
 ステラは小さな子供を抱きしめた。途端に体を突き抜ける痛み。だがステラは覚悟していた。震える声で続ける。
「――ルクス」
 彼の持っていたナイフとは違う。体に触れた、冷たく硬い感触。その触り慣れた大きさと形状に、彼女は確信する。
(これがあれば、ここから何とか出られるかもしれないわね……)
「……あなたは、生き、なくちゃ」
 ステラは最後の力を振り絞り、ルクスを突き飛ばした。部屋の出口を指差す。
(ごめんねアルモニカ。ごめんねみんな。私は、私のせいで、みんなを不幸にした)
 彼女は壁を伝うように這い、スイッチを探すと部屋を完全に締め切った。
「せめてもの、償いだわ。あなたは生きて……私のように、決して幸せになることを、諦めないで――」
……



◆◇◆◇◆



 アルモニカは泣いていた。

「アンリ、ごめん。辛い記憶、見なくて良かったのに、私が見ようって、言ったから……」
「……辛かった」
 いつもみたいに大丈夫と、そう言わなかった。はたと顔を上げたアルモニカの青い瞳から、涙がはらはらと落ちた。
「でも、あなたにとっても辛く悲しい事実だ。それに、分かったことが一つある」
 アンリは右手を出しかける。だが押しとどまり左手を出すと、人差し指でアルモニカの涙を拭った。
「だから、良かったんです」
 アンリが何を知ったことで良かったと思っているのかアルモニカははっきり理解していなかったが、その心は穏やかだった。
「……アンリ」
「はい」
「右手を出して」
 アンリは頷かなかった。
「いいから」
 おずおずと出した右手を、アルモニカは優しく両手で取った。それは、武器と同化したせいで黒と鬱血したような鈍い赤に爪まで染まっていた。
「ご、めんなさい、こんなに見苦しい姿、本当はあなたに見られたくなかった……。触れるなんて、」
 目を伏せるアンリの一方で、彼女はそれを頬に当てる。
「いいえ。ずっとアンリが戦ってきた証であり、ずっとあなたを守ってきたものなんだもん。……何か、問題でもある?隠す必要なんて、無いわ」
 声にならない声を上げたアンリは、その手を額に押し当てる。
「どうしてあなたはそんなに優しいんですか……」
「優しくなんかないわ」
 アンリは深く溜息をついた。
「どれもこれも杞憂だった。あなたに嫌われたくないとばかり思っていたのに」
 アルモニカは目を細めた。
「……あの、アルさん」
「……うん」
「抱き締めても、いいですか?」
 驚いたように目を開いたアルモニカだったが、口を固く閉じ、ゆっくりと頷く。アンリは身を乗り出すと彼女を抱き締めた。
 高まる鼓動。伝わる熱。アンリはゆっくりと話し始めた。
「あなたを、失いたくない」
「……うん」
「どうしても、失いたくない」
 その声は悲しそうで、悔しそうで、どこか願うようで。当人が死んでしまうかもしれないというのに。
「あの、どうか聞いて、くれますか?」
「……うん」
「あなたのことが、好き。あなたの声が、熱が、笑顔が、強さが、優しさが、好きなんです。ずっと昔から、あなたのことが」
「……!」
 アルモニカは腕を緩めると、アンリの顔を見た。必死に話し始める。
「私は、アンリのこと、弟みたいに思ってた時期もある。でもあなたはいつの間にか、近いけど手の届かない所にいて、私は寂しかった。やっと気付いたのに。伝えられなくて、いなくなって、」
 まとめることができないほど溢れる気持ち。俯きがちになっても、アンリはただ黙って聞いてきた。
「でも、今ここにいる。……わたし、アンリのことが、好き。大好き」
 真っ赤になってぽろぽろと涙を零すアルモニカ。
「触れたら壊れちゃいそう。追いかけたら消えてしまいそう。でも、当たり前のように何度も私を救ってくれる。その手で、守ってくれる。理由なんて、他に分からない。ただ一緒にいたいって、そう思うの」
 それは純粋な愛だった。
「あなたといると、死にたいなんて、思いません。この心臓が、生きたいって叫んでる」
 アンリは手を握る。思ったよりも小さくて、柔らかい手。
「あなたを失いたくない。僕も、消えたくない。……生きたい」
 悲痛な叫びは彼が初めて口にした生存欲求だった。けれど、アルモニカはそれが叶わないと知っている。
「離れたくなかったのに」
「……ごめんなさい」
「もう、離したくない。……最後の時まで」
 アンリは首を横に振った。
「最後なんて、来ません」
 アルモニカは怪訝な顔をする。
「終焉なんて、来させません」
 アンリは微笑んだ。
「幸せになることを諦めたくない。最後まで。……だから、手を貸して、くれますか?」
 諦めていたのはアルモニカだけだった。そのことに気付いた彼女は、深く何度も頷いた。
「勿論……!」
 アルモニカは力強く続ける。
「何の為に私がいると思ってるの。共鳴士は、何の為にいると思ってるの。だから、きっと大丈夫だから……」
 絶望が希望に変わることなど、誰も予想していなかった。こんな逆境の中でも、花は咲くのだ。





「ア、アンリ……」
「?」
「は、恥ずかしい……顔が近いから」
「……あ」

 二人は真っ赤になって顔を背けた。



◆◇◆◇◆



【追想:男の記憶】

 この男の記憶は、記憶収集癖のある魔女でも手にすることが出来なかった記憶だ。
……




 あの人も我儘な人だ。自分の子供は大事で、他の子供はどうなろうと構わない。モルモットなら良くて、人間だと心が痛む。線引きなんて曖昧なもので、言い出したらキリがないというのに。……そういう人間臭い所も好きなんだ。
 私の愛する気持ちに反して、あの人は私のことを避けていく。私の愛し方が下手なせいだ。悲しいが、仕方が無いことだ。

 ……馬鹿馬鹿しい。私はこの世界で、人らしく生きたかっただけなのに。





「停電か?!」
「大丈夫、すぐ予備電源に切り替わります」
 祖父の描いた世紀の瞬間は訪れず、それは絶望の色に変わったようだ。担当していた被験体の異変に気付いたのは、照明が落ちた最中であった。
「室長!培養層のカバーが!」
「リェルブか!」
 A-12、通称リェルブ。戦闘に特化した個体を作り出す実験に用いられたこの被験体は、端的に言うと失敗作だった。あまりに凶悪で凶暴な存在になってしまった故、保留ということで育てていた培養層に沈めていた所だった。だが、最悪のタイミングでアクシデントが訪れる。
「馬鹿な人だ!消費電力くらい計算しておけ!」
「室長ー!」
「キャロル!?」
 聞き慣れた鳴き声と、部下の悲鳴が耳を刺す。振り返ったその瞬間、体が大きく揺らぎ地面に叩きつけられた。
 斜めになった視界から見えたのは、ぼんやりと白く見えるものが、出口に消えるところだった。
「とんでもない……あれは悪魔だ……」
 顔を起こし、部下を探す。暗くて、よく見えない。
「予備電源はまだかキャロル……報告と、扉を早く――キャロル……?」
 そのうちに灯りが再びついた。すぐ視界に入ったのは、すっかり動かなくなった部下の顔。短く息を吐くと、這うようにリェルブを探し始めた。
「レコードの元に向かったのか」

 あの研究室から大して距離は無かった筈だが、えらく時間を掛けて祖父の部屋に辿りついた時には、既にリェルブが暴れた後だった。機器は火花を散らし、職員はおろか、レコードまで無残に破壊されていた。
 紙屑と金属片の舞う部屋の中、体を引き摺りながらある場所を目指した。レコードの前では、祖父が身体の中心に穴を開けていた。
「……アリアさん」
「ヘン……リー……レコ……ド……レコード、を……レ……」
 最期まで夢の話をしていた祖父が事切れたのを見届け、浅い溜息を吐いた。床にぽたりと冷や汗が落ちる。
 顔を上げると、破壊された仰々しい装置の真下、レコードに繋がったままの被験体の姿があった。
「あの人はお前のことが大好きだね。私には理解できない」
 手を伸ばし、胸ぐらを掴む。
「――ふ、目覚めてもチップが無いと、ここからは出られないだろう。……私が、こんなことをするなんてね」
 震える手で自分の名札を被験体に付けた。
「……あの人の、幸せのためだ」
 接続を切ったところで意識が正常に戻るか定かではないがもう試すしかない。電源が落ちたことと破壊されたことで、本体は再起動すらしていなかった。
「ああ、脚が一本だと、大層、不便だな」
 悪態をつきながらロックを外していく。残るは最後の一つ。
「私は、お前を息子だと思ったことなんざ、一度もない。だが……」
 日に照らしたペリドットのような瞳を細める。
「あの人が、悲しむから」

「なあ、そうだろう」

 仄かに微笑んだのが、最後の記憶だった。

52a

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