40話「宣戦布告」
img




 本部のとある一室。そこはかつてテトラールキだった男が仕事場とし、元隊長となったサクヤが引き継いだ部屋。周辺も静かで人の往来が少なく、グレイヤー達が密会をするために選んだ部屋であった。もちろん、いつも鍵を掛けているはずなのだが。

「私達、とある宣告をしに来たのだけれど」

 凛とした目の前の黒髪の女性は、確かにそう言った。
「宣告……?」
 サクヤの声は、僅かに震えていた。そんな彼女に、アーサーは正面を見たまま小さな声で囁く。
「サクヤさん、隣、もしかして……」
「あ、ああ」
 アーサーが言った隣とは、黒髪の女の斜め後ろに控える、人形のような金髪の少女であった。意味が分かっているのかいないのか、彼女は「えへっ」とウインクしてみせた。
「これはこれは。そちらから出向いてくださるとは何とも有難い。御足労様です」
 慇懃無礼な狐に、金髪の少女はカツリと赤いブーツの踵を鳴らす。その表情はどこまでも無邪気。黒髪の女の顔を見る。
「ねえねえミカミ、今のどういう意味?」
「よくもノコノコ来やがったな馬鹿野郎よ」
「なるほど!殺していい?」
「!?」
 物騒な言動に、両者に緊張が走る。瞬時に腰に提げた武器に手を伸ばしかけた刹那、すっとグレイヤーの手が伸びアーサーとサクヤを制止した。対するミカミと呼ばれた黒髪の女も同じく、金髪の少女の手を押さえていた。今に鞘から抜かれんとする剣が、鞘の中でカチカチと音を立てていた。
「まあまあ、落ち着きなさいよミクス」
「剣を納めなさい」
 少女は口を尖らせ、渋々その手を下ろす。その金属音と共に、アーサーとサクヤもようやく手を離した。
「悪いわね。でも良かったわ。少しは話のできそうな人間がいて」
 そろそろ始めさせて貰うわ。そう言うと、ミカミは左腕に付けた白い腕章のシワを伸ばすように、ピンと引っ張った。Nの文字がよく見えた。
「私達はガーディ。番号を持たない、団長が作った専属の部隊。本部に潜伏していた者から話はよく聞いているわ。……はっきりと言う。メルデヴィナ教団、本当にとろい連中だわ」
 ガーディ。グレイヤーでさえ聞いたことのない名前だった。
「団長が……?でも、あの人はもう、」
「頭を切り落としても、生き続ける生き物もいるというのよ。私達は彼の帰りを待っている。けれど、それまでにエクソシストは根絶やしにしないと」
「根絶やし……?」
 困惑するアーサーとサクヤを見ながら、黒髪の女は続ける。
「メルデヴィナ教団、正確には、今教団を支配しているモノは、教皇を追放し単なる武装集団となってから今に至るまで、エクソシストを中心に強大な力を手に入れたわ。……けれどどう?今やその中身は腐敗して、研究社の言いなり。とんだ傀儡。滑稽だわ。こんなの一旦壊してしまった方が、今よりずっとましなのではないかしら?無駄に力を手に入れた危険なエクソシストなんてみんな消してね」
 教皇を追放という言葉は些か語弊があるが、言いたい事はそういうことだろう。そして研究社の傀儡となっている事実も、彼女はさらりと言ってのけた。
「エクソシストは危険。あの事件ではっきりしたでしょう?私達のボスは殺されたのよ」
 グレイヤーが、ふむと喉を鳴らす。
「――なるほど。そちら側の言い分は分かりました。……一つ質問なのですが、今までのそれは貴女の意見でしょうか?それとも貴女達?」
「これはガーディだけでなく、教皇、枢密院の総意。勘違いなさらないで」
 ミカミの後ろ、金髪の少女が両手を後ろで組み、アーサーを見上げるように微笑んだ。
「勘違いなさらないで?あたしは闘えたら良いだけだから」
「下がってなさいよ脳タリン。ここにあなたの出る幕は無いわ」
「なっ酷いミカミ!紅茶にこっそり雑巾の搾り汁入れてあげる!」
「あんた最低ね。死ねばいいのに」
 横目で少女を睨みつけ、咳払いをするとミカミは再び主題に戻る。
「良い?これは宣戦布告。無駄なことは考えないで、戦いの準備をするといいわ。別に逃げても構わないけど、逃げ切れると思わないことね」
「おい」
 声を上げたのはアーサーだった。その声は僅かに震えていた。
「エクソシストを殺す?戦いを始める?おかしな事言うな。内輪揉めしてる場合か?人間の敵は悪魔じゃなかったのかよ」
「呆れた。あなたは分かってると思ってたのに、まだそんなこと言ってるのね」
 くすりと笑い、ミカミは踵を返す。直後「ああ」と思い出したように振り返る。
「心配せずとも、戦いの舞台は用意するわ。日時も前もって教えてあげる。それとガーディは当たり前だけど二人だけじゃないのよ」
「じゃあねー」
 にっこり笑った金髪の女が手を振る。そうして彼女たちは立ち去っていった。追いかけようとしたアーサーを、グレイヤーは止めた。彼は言葉を発しなかったが、そんなことをしても無駄だと言っているようであった。

 扉が閉まって少しした後、ふっとグレイヤーは肺の中の空気を吐き出した。
「このタイミングで来るとは……なかなか悩ませてくれます」
 困惑したままのサクヤは、彼の狐面をじっと見た。
「内部がピコに操られていることはなんとなく知っている。少し前まで私が必死に追いかけていたことを、あの女は当たり前のように語った。その事実は受け入れ難く、それなら寧ろ一掃すべきだと言うことも理解できる。だが、そうしたら私達の立場は……?」
「殺すということでしょうね。全く野蛮な人達です。逃げる道は無いということでしょう」
 ため息をつくと、彼は椅子に座って脚を組んだ。扉の向こうを見つめていたアーサーは振り返る。
「あの、メルデヴィナ教団からエクソシストがいなくなって、教皇がトップになるって言うことはつまり、どういうことになるんすか」
「昔のように、宗教準拠の行動しか取ることができなくなるでしょう。エクソシストは弾圧されるでしょう。逆に今まで通り悪魔と魔女は排斥していく流れでしょうが、武器使いがいなくなってどうやってそんなことをするつもりでしょうね」
 彼らは武器使いではないのか。しかし、もしそうだとしたら彼らの言い分と矛盾してしまう。一体どんな手で彼らは仕掛けてくるというのだ。
「あなたは、彼らと全面戦争するつもりなのか」
 サクヤの問いに、彼は「ええ勿論」とすんなり答えた。
「逃げることはともすると可能でしょう。しかし助かるのは命だけ。どれが利口な判断かは各々に任せますが、私は少なくとも逃げることは選びません。そして、負け試合をするつもりもありません」
 その言葉が含有する意味を、まだ二人はよく理解していなかった。

 その後、グレイヤーは二人を解散させた。サクヤはアーサーの背を目で追ったが、部屋を出ることをしなかった。
「少し、聞きたいことがありまして。先程の女とは関係がないのですが」
 そうサクヤは振り返る。視線は直線上。狐面をじっと見つめた。
「あなたは、悪魔のルーツの話はご存知ですか」
 唐突な質問に、些か驚いたようであったが、グレイヤーはゆっくりと首を傾げた。
「悪魔のルーツ……なかなかざっくりとしたお話ですね。でも考えても見てください。悪魔は悪魔と呼ばれているだけで、本当の悪魔ではないでしょう?」
「本当の……?」
「ええ」
 彼が言ったのは、サクヤが思っていたことと少し違うようであった。
「悪魔、いや、ややこしいのでここでは別称のディアイレと呼びましょう。彼らが人を襲うようになったのはある時期からで、それまでは厳密には人を襲ってはいなかったそうです。……そして、これはある者が人間は敵であると教え込んだからだと言われています。人間嫌いな人間が、自らの作った生物にそう教え込んだ」
「人間が……」
「意志を強く持たない彼らは、父のその教えに従い人間を襲うようになったのです。何代も繰り返す内に、それは本能として彼らに宿った。しかし、やがて生まれた高度な知能を持つ悪魔は本能より理性が強く働いたようで、本能のままに生きはしなかった」
「彼ら、二型が人と闘うのは、確固たる意思ということなのですね」
 サクヤの呟きに、グレイヤーは首を縦に振る。
「彼らは彼ら自身で考え決めました。当時、既に彼らは悪魔という忌み嫌われる存在として確立され、そして教団は大きな力を持ち始めていた。彼らにとって、住処を奪い、仲間を殺す人間は完全なる敵であり、憎むべき存在。彼らは彼らの自由と誇りを手に入れることを大義名分として選んだのです」
「それじゃあまるで、悪魔を作り上げたのは……人間」
「今まで一度も考えたことはなかったのですか?悪と正義がはっきり色分けされていることは有り得ません」
 呆れたように首を振るグレイヤーに対して、サクヤの声は震えていた。
「私が知っているのは、彼らの先祖が人間であるということ。かつての友が悪魔化の実験体になっているのを見て、確信した。悪魔と人の差はほぼ無い。それだけで、私は、この争いは不毛なものなのではと思っていた。……それなのに、それだけではなかった。私達は、彼らを悪者に仕立て上げ、己の正義を振りかざして来たのか……」
 そう俯いた。しかしグレイヤーは、そっとサクヤの肩に手を置き顔を上げさせる。白く塗られた冷たい仮面が迫る。
「いいですか。あなたは後悔も懺悔もする必要ありません。話し合いで解決できるなどと考えてはいけません。なぜなら、彼らと私達は殺し合うように出来ているのです。遠の昔から」
「何故、そんな諦めたようなことを言うんです……」
 サクヤは弱々しく首を振った。しかしグレイヤーは怒気を強めて言った。
「分からないとでも言いたい?話し合えば分かってもらえると?それでも私達は何千とも分からない彼らの同胞を殺しているのです。同時に、私達も大切なものを失ってきました。……終わらせなければならないのです。この不毛な闘いを、勝利によって」
 サクヤは唇を固く結んだまま、狐面をじっと見ていた。グレイヤーは、やれやれと言ったふうに両手を上げると席を立つ。
「ただ……あなたの友の話は少し引っかかるところがあります。悪魔化の実験が行われていたということ。それではまるで、悪魔も教団も手のひらの上ではないですか。――噛み砕くと、悪魔をけしかけた者も、戦力と資金を与え、彼らに対抗する力を与えた者も同じ者という可能性が高い」
 サクヤが、はっと顔を上げた。
「……ピコ……」
「少し整理をしましょう」
 グレイヤーは、そう言い少し首を傾けると(恐らく笑っている)、置いてあったペンのキャップを取り、ホワイトボードに色々と書き始めた。

「まず、メルデヴィナ教団に援助をしているスポンサーである研究社ピコ。彼らからは多くの恩恵を得ています。具体的には資金援助、彼らが独占している技術の一部の提供、エンジニアの派遣などです。彼ら無しには今の教団は有り得ないという稀有な程の依存状態ですから、教団の存続には、ピコの利益になるよう動くのは必須条件な訳です。しかし時にその行動が教団の掲げた理念や正義と食い違う部分も出てくることがあります。これがあのガーディとかいう赤い女の言った、内部の腐敗。ただどうやら、それを悪く思う人間が他にもいるようで、問題が起きることもあるようですね」
 ピコの社長を名乗る男がいた。彼の名はシリス・レヴァーニャ。彼とカナソーニャ・ロヴァイ廃研究所で出会った時、言われたことがある。オラルトの支部が壊滅した件について知っているかと。あれはメルデヴィナ教団内部での揉め事がピコに飛び火した結果だったのかもしれないというのだ。しかしサクヤは、この件に関してはピコ側にも手違いがあったと聞かされていたが。
「研究社ピコは、悪魔の撲滅を掲げる教団に全面協力をしながらも、一方で悪魔を独自に作る研究もしていた。……まあ、少し興味本位で作ってしまっただけ、という言い逃れもできなくはないですが、最悪の場合、全ての悪魔の根源が研究社となります」
「いや、違う。悪魔にもマザードールという母体があった筈。そのマザードールが人間由来だと聞いているから」
「そう、では、一部の悪魔の根源が、に書き換えておきましょう」
「……つまり、黒幕……人と悪魔が殺し合う世界になるよう仕向けたのはピコの社長。シリス・レヴァーニャということに……?」
 グレイヤーは、「それはどうでしょう」とペンをテーブルに置き、両手を胸の前で合わせた。
「彼は最近社長になりました。しかし、そこに至るまでずっと社長を務めた男がいます。また創始者だったのも同じ男です」
 台本でも用意していたかのように流暢に喋るグレイヤーに、サクヤは僅かな警戒心を抱いた。
「……そこまで調べていて、何故黙っていたんです」
 しかしグレイヤーは、サクヤの予想以上にあっけらかんと答える。
「簡単なことです。それほど急を要する話ではなかったということ。もしこの事実を知ったらあなたはどうしますか?知ろうとした者、知ってしまった者は今までいましたか?どうなったかと思いますか?」
「……」
 もちろん答えは、消えたからいない、だ。
「しかし今、この本部は混乱期にあります。……澱んだ箱庭に、彼は風穴を開けてくれたのですよ」
「彼?」
「元三番隊、アンリ・クリューゼル」
 突然出てきた部下の名に驚くと同時に、サクヤの心に生まれたのは安堵だった。罪を犯し、失踪してしまった不名誉な部下のこと。今の言葉に隠されたものは、少なくとも彼を認めるという意味。濡れ衣だと思っているのか。それとも……
「ところで、この不毛な戦い。ピコの創始者は何故そんなことをしたんでしょうね。悪と善を意図的に作り上げて戦わせるとは」
 そう言った狐面は、少し物寂しそうであった。
「作為的に作られた善と悪。そのことに気付いていたのに、あなたは逆らうことができない」
 挑発とも取れるサクヤの失言に怒ると思いきや、彼はただ「そう」と言った。
「けれどあなたはどうでしょう。悪魔に私怨を持たないあなたは、流されず自分の思うようにすれば良いのです。……かと言って、今悪魔やガーディの側につくと言われてしまえば困ってしまいますが」
「……ご冗談を」
 サクヤは今まで選択をしてこなかった。全て誰かに与えられたものを、疑問を抱くことなく受け入れてきた。しかし大事なものがすぐ側にあることに気付いてから、彼女にはそれを失う恐怖が生まれた。そしてここ暫くその色は深くなっていた。なにせ、初めて自分で決めて動いた行動で、可愛い部下を一人失ったからだ。
「少なくともガーディの側につくつもりはありたせん。それに、彼らには聞きたいことがあります」
 全てを知りたい。それは変わらない。生半可な覚悟ではなく、失う恐怖をも背負った上で、彼女はそう決めた。

 資料室へ行こうと部屋を出ようとした時、サクヤはグレイヤーに呼び止められた。
「ところであなた、他の者がいる時にも私には敬語を使いなさい。同じ隊長格かもしれませんが、この組織の滞在期間は私の方が長い。階級も上です」
 上から人差し指を刺され少し怯みながらも、サクヤは精一杯の虚勢を張る。
「曲がりなりにも私は隊長なんです。ここは本部、ここではここのやり方でやらせてもらいたい。本部の事、少なくとも三番隊の事は私に任せてもらいたいという理由です」
「言いますね小娘。まるで本部のことは自分の方が知っていると言いたげです。しかし残念ながら、私は元々本部三番隊にいた者です。三番隊の隊長だと豪語しながらも最低限の過去の隊員のことも把握していない。真に愚かです」
「すみませんでした」
 狐は笑ったように見えた。
「しかし、あなたの境遇には同情しますよ。私を立てるとあなたの立場が本当に無くなってしまうからでしょう。確かに、特に文官たちにはその節はありますね。……しかし、先程のアーサー・エルフォード等は、あなたが私に謙ることであなたのことを下だと認識したりしますか?無理をするのは必要最低限に留めなさい」
「……そうします」
「心配せずとも、彼らは副隊長があなたでなくても、テトラールキを選出するつもりは無かったと今なら思いますよ」
 サクヤはどういうことだと言いたげに顔を上げた。
「本部のテトラールキだったあの男が消えたのは、本当にただの戦死ですか?あなたもきっと疑問を持っていたのでしょう。だから彼の隠したはずの任務を探し当てたのでしょう」
 言うまでもない、大半ゴミのような内容の資料の山から見つけた、カナソーニャ・ロヴァイ研究所の任務のことだ。彼には本当に何もかも筒抜けのようだ。当の本人は、「エリック・ジェイルを問いただして正解でした」などと笑った。
「本部のことを知り尽くし、仕事の大半を担うその存在が邪魔だったんですよ。水面下で進められていた計画は成功し、彼らはテトラールキの権力を手に入れた。そのつもりだったから、テトラールキの職は誰も就く予定は無かった。そういう筋書きだったと思うのです」
 少し安堵した反面、サクヤには新たな疑問が生まれた。
「え、え?待ってください、それはガーディの企みの話ですか?じゃあどうして団長は仲間に殺されることに……?」
「何言っているんです?アンリ・クリューゼルはガーディ側の人間?……いえ、ガーディに嵌められたと?」
「恐らく……あのミカミという女が私に忠告をしてきた。彼と同じ轍を踏むなと」
「……それだけではガーディが団長を殺させたとは言えませんよ。ともすると、ガーディは教団内部を俯瞰して見ることのできる存在のようですから、別の動きに気付きあなたに接触したのだと思いますよ。でないと辻褄が合わなくなってしまいます。折角の私の推理が水の泡、一からやり直しになってしまいます。私はあれは魔女の類いだと思っていますよ」
「確かに……理にかなっている……」
「どうです?少しは私を敬い讃える気になったでしょう?」
 そう胸の前で両手を合わせてふふんと笑った。

 ニルス・グレイヤー。何故か本部では評判の非常に悪かった彼だが、本当は非常に『いい人』なのではないかと思ったサクヤであった。


◆◇◆◇◆

【中庭】

 ここ最近は、雪こそ降らないものの、寒くて外に出るのが億劫な日が続いていたのに、その日の午後は日差しが暖かかった。
 中庭のベンチで一人佇んでいたテンを見つけた彼女は、ふと声をかける。
「テンちゃん。何してるの?」
「……アルモニカさん」
 顔を上げた金髪の少女。その表情はいつもとさして変わらず無表情であった。手に持った何かが日の光を反射して、キラキラと輝いて見えた。アルモニカが「隣座っていい?」と聞くと、「どうぞ」椅子の端の方に座り直した。テンは手に持っていた物を反対側のポケットに仕舞った。
「何しているだなんて、それは私の台詞です。こんな昼間から、暇なんですか?」
「う……だって謹慎期間で仕事貰えないんだもん……出入は自由みたいだけど」
「謹慎?」
「うん。ちょっと上官殴っちゃって」
「へえ……」
 テンは至極興味が無さそうな返事をしたが、彼女がこんな調子なのはいつものことなのであまり気には留めていなかった。
「今日は暖かいね。風がほとんど無くって」
 そう言いアルモニカは足をうんと伸ばした。
「今日は、トーレちゃんいなくて暇なんです」
「私も。レイちゃんは最近よく空けてるし、隊長もアーサーも、最近忙しそうだし。私だけ、こんな所で日向ぼっこしてるの」
「なんとなく一人になりたくて、ここに来ました。昼休み以外で人が来ることはほぼありませんので」
「……私、お邪魔?」
 テンは首を横に振った。
「少し、誰かに話を聞いてほしい気分だったんです」
「私でも良い?」
「はい」
 そう言ったテンは、上着のポケットから一枚の紙切れを出す。あまり上手くない字で〈果たし状〉と書かれている。
「これ、兄さんに渡した物。部屋から持って行かれる前に、こっそり取っておいた物の一つです」
 そう言いその紙を鼻に近づける。
「それ大丈夫なの……」
「私は子供ですから、知らなかったと言えば少し怒られるくらいで済むと思いました」
 見た目に似合わないことを、彼女は飄々と言ってのける。
「そう、そうだった。お兄ちゃんがいなくなったんだもん。私なんかよりテンちゃんの方が寂しいに決まってるよね……」
 アルモニカの暗い表情を見たテンは、少しだけ首を傾げた。
「……でも不思議なんです。いなくなったって言うのに、そんなに悲しくない。やっぱり、出会って短期間で本当の兄妹なんて、なれっこないんだ」
「テンちゃん……」
「こんなこと思うなんて、おかしいでしょう?私もそう思ってます。薄情な奴だと。今なんか、別のことで頭がいっぱい」
 どこか遠くを見た寂しげな彼女の瞳に、アルモニカは既視感を覚える。
「思わない。だって、アンリもよく分からない分からないって言ってたわ。……やっぱり兄妹なんだね。似てるような気がするよ」
「!」
 アルモニカの言葉を受け、暫く驚いたような顔をしていたが、ふいと顔を背け、「違うと思います」とだけ言った。
「……照れてるのかしら……」
(無気力、他人への共感の欠如。被験体が逃げ出さない為の洗脳?でも、当時実行されたのは一部の被験体で、Lー06にはそのような特徴は見られなかったはず……)
「――テン、ちゃん?」
「え?」
 顔を上げると、アルモニカが不安げな表情を浮かべてテンを見ていた。テンは「こんなことばっかり」と頭を振る。
「きっと私よりアルモニカさんの方が悲しいと思っていますよ。――でも、そのせいであなたには大事なものが見えていない」
「?」
 テンはすっと立ち上がり、アルモニカを見下ろした。
「あなたは大切なものを見逃している。あなたが羨ましい一方で、悲しい人だとも思います。私より幸せ者だけど、私より不幸者」
「あ、え、?テンちゃん!」
 そう言い残すと彼女は振り返ることなく足早に立ち去った。右手は空を切った。一人残されたアルモニカは、随分と年下の女の子に言われた言葉を反芻する。あの人と同じ美しい緑の瞳が、なんだか冷たく感じた。
「何言ってるのかよく分からないよ……」
 暖かかった陽の光は雲で陰り、ふと肌寒さを覚えた。


 肩を落として自室まで歩みを進めていると、突然通信器が鳴った。発信源はサクヤ。
《アルモニカ、ちょっと話があるんだが》
「……?何ですか?」
《少し頼みたいことがあってな。今週末空いてるか?》
「空いてるも何もないからいいですけど、私が今仕事できないのサクヤさんは勿論知っていますよね」
《ああ、公式の仕事じゃないんだ。ともかく、後で資料を取りに来てくれ。部屋まで来たんだがいないようだから》
「……ああ、すいません。今から行きます」
 何を頼まれるか全く見当が付かなかったが、何でもいい、何かできるのならと彼女はこの時思った。

 しかし、その頼み事のお陰で、彼女は幾つも涙を流すこととなる。


◆◇◆◇◆

【???】

(私はあなたを愛してる。ごめんね、あなたは何も悪くないのに)
「うん。分かってる」
(ごめんね、ごめんね……)
「大丈夫。もう、いいんです」

 エメラリーンは悲しそうな顔をして、小さな体を抱き締めていた。







41話へ