隣国テトロライア王国は、国土の大半が暗黒地帯である変わった国である。その中でもJ地区と呼ばれる区域を、三番隊のアルモニカとアンリは巡回していた。やることは主に空間諸物質量の計測や穴の測定、前回のレポートを参考に変わったところを確認していくことだ。
「――22、36……書いた?」
「はい。ここらはこれで終わりですね」
二人は測定キットなどを仕舞い、そしてまた少し離れた所に歩いていく。この辺りは周りに村などもない為、レポートと照合してもさほど変化などは見られない。
「……アンリさ、」
そんな時である。アルモニカがアンリの顔をまじまじと見て、不思議そうに言ったのは。
「笑わなくなったよね」
他人といる時、アンリは時々笑っていた。しかしそれは口元だけ弧を描く笑顔を向けていただけだった。アルモニカは最初何とも思わなかったのだが、そうではないと最近気付いた。
「やめたんです」
「え?」
「作り笑い」
「……」
アンリのそれは作り笑いだった。アルモニカは先日それを指摘した。それは、自分に対して作り笑いなどしなくてもいいと言いたかったからなのだ。隔たりを作ることをやめて欲しいと。
「ばれてる作り笑い程無駄なものなんてないです」
アンリは暗い瞳を地に向けた。それは悲しいとも違う感情にも感じられた。
アルモニカは、アンリのことを少し理解したような気がした。それはただ分かったということではない。彼が少し変わっている人間であるということを理解したのだ。なんというか掴みどころが無い。
「……ならバレなきゃいいってことなの?ずっと無理して、自分に、私に嘘をついて笑ってたの?」
前からあまり喋る方ではないし、表情が豊かな方でもない。しかし、この差はつまりそういうことになる。楽しくないのに笑って、ずっと彼は神経をすり減らしていたのかとアルモニカは思った。もやもやとしたものが燻る。
「嘘はついてないと思います」
「思う?自分のことなのに?」
「……今日のアルさんおかしいですよ」
「アンリがおかしいからよ」
そんなことそこまで思っていなかった筈なのに、不意に自分の口から出た言葉。そして「変だよ」とまで言った。
「……ごめん」
居心地が悪くなって顔を背ける。別方向に足を向け、アンリの顔を見ることなく逃げた。
この行動はとても子供っぽいと思った。アルモニカもまだ16歳で子供であることに変わりはないのだが。馬鹿なことをしてしまったと随分離れてから後悔した。
アンリはどんな顔をしていただろう。いくらアンリでも、さすがにあんなことを言われれば傷付くだろう。おかしいだなんて、人格を否定するような言葉、誰だって言われれば嫌に決まってる。言うつもりなんて無かった。
それにしても、どうしてあんなことを言ったのか、とても不思議だった。そんな気持ちと後悔を抱えて、戻って謝ろうと立ち止まった時、どこからか芳香が漂ってきた。
「何……だろう……」
茂みの向こう。そっと近づき葉の隙間から覗くと、そこには大きな美しい白い花があった。
ふとキットの中の電磁波を検知する簡易装置を見たアンリはある事実に気付く。
「……明らかに多く飛んでいる電磁波がある」
暗黒地帯では機械が使えない。暗黒地帯でも使える調査キットは全て簡易であるため細かいことは分からないが、他の場所に比べて反応が大きい波があった。
「脳の、神経伝達物質に影響を与える……?」
口から出たものは、思っていないもの、自分が知っていることを知らないものだった。
「?」
ここに来て、何かを思い出してきているんだろうか。しかし特に何の確証も得られない。
あまり考えても仕方ないと割り切って、アルモニカの去っていった方へと急ぐ。
何が起こるか分からない。ここは悪魔の出る暗黒地帯なのだから。
それは透き通るような白く美しい花弁を持った花だった。しかしそれは花としては有り得ないほどに大きい。人の背丈より少し大きいくらいか。
「この花、もしかして、」
何とも言えぬ不安に襲われて、目は離さないまま、思わず後退る。
ぴとり
「えっ……?」
その時何か、冷たい物がアルモニカの頬に触れた。ぎょっとしてよく見れば、それは太い蔓のようなもの。慌てて振り返れば、足元や背後にまで沢山それはあった。
「いつの間に!雅――っ!?」
雅京を発動させようにも、すぐに蔓が絡み付いてきてしまい上手く使えない。雅京は底が攻撃範囲なのだ。
「くっ、でも、何とかしないと!」
雅京を発動させる。足裏に丁度あった一本の蔓に当たり、それは吹っ飛ぶ。しかし全く怯むことなく今度は靴の底に回らないように、脚を動かせないように絡み付いてきた。
「こいつ、頭が、良い。悪魔の、くせに……!」
アルモニカは緊急用のナイフを取り出し斬りかかる。しかしこんな心許ない刃物では硬い蔓にはあまり効かず、すぐに奪われてしまった。
抵抗する手立てを失ったアルモニカに、容赦無く蔓は巻き付いてくる。首や肺が締め付けられ息をするのが苦しい、朦朧とし始めた意識の中でも、ゆっくりと花の方へ引き寄せられるのが分かった。
(首が苦しい……。私はこんな所で死ねないのに、なのに、悪魔に殺されるなんて……)
ぼんやりと涙で霞んだ視界に、先程まで一緒にいた人物が走ってくるのが入ってきた。
(あれは、)
「アンリっ……!」
「アルさん!」
軽やかに走りながら魔魂武器ティテラニヴァーチェを展開させる。右手から黒い液体が飛び出し腕に制服の上から巻き直される。そしてそのまま腕と共に武器を伸ばし、蔓の一本を貫く。首に巻き付いていたものの一つだったようで、少し息が楽になった。
「今助けますから!」
そう駆けたアンリだったが、突然糸が切れたように動きが止まる。
「……うっ……あ、ああああああっ!」
「アンリ?!」
突然頭を抱えて蹲る。
「どうしたの?ねえ!」
「あっああ……っはあ、頭が、割れ、るみたいに……は……うああっ――」
「アンリ!アンリ!」
崩れ落ち、苦しそうなアンリに必死に呼びかけることしかできない。そんな時、煩いとでも言うように口に巻き付いた蔓とは少し違う何かが入ってくる。
「ん、ん、む……」
むせ返る程に甘い蜜のような味が口に広がる。噛み付こうにも何だか力が入らず、視界がぼやけてきた。
(ああ、アンリ……)
最後まで、視界の中のアンリは蹲ったままだった。
◆◇◆◇◆
真っ白な部屋。真っさらで、何にも染まっていない部屋。それがとても苦手だった。
身体は動かない。目と口、掌、足の指は動かせる。それ以外は動かない。何故なら首や頭まで、厳重に台に縛り付けられているから。
真っ白な天井。その視界の中にこれまた白い人間が現れた。口元はマスクで隠し、帽子も被り髪の毛一本すら確認できない。眼だけが色を持っていた。そして、ゴム手袋を嵌めた手が持った鋭利な細長い何か以外は。
「いやだ……」
何をされるかはよく分かっていた。初めてではなかったから。
「いやだ……やめて……」
首に小さな痛みが走る。この程度の痛みは確か、針。
視界の中の白い人間が、手に持ったものを近づけてくる。
(嫌だ 嫌だ 嫌だ 嫌だ怖い やめて、お願い、っ――ああぁあああっあああぁぁぁあ――――――)
その瞬間、視界は暗転した。
「う……ううっ……ひぐっうっ……」
「君、どうしたの?そんなに泣いて?」
顔を上げるといつも話し掛けてくる幼い女の子がいた。白い服、ふわふわした金の髪。そして緑の目が白い世界の中でとても映えている。本当に、黒くて重そうな首輪が邪魔をしている。名前は――
「ミクス……。……痛いんだ。怖い、やめてって言うのに、怖いことされるんだ。あの人達は、やめてくれないんだ」
「んーそっかー。ミクスにはちょっと分かんないなあ」
彼女はいつも笑顔だ。優しい。でも僕の気持ちは分からない。きっと、自分とは扱いが違う。使い方が違う。
「でもね、泣いてばかりじゃだめだよ?だってね、」
にこり。嫌味など全く感じない、清々しいまでの笑顔を向ける。
「世界はこんなに美しいんだから!」
今のは一体。自分の記憶なのかさえも怪しい。けれど、違うと明言するにはあまりに生々しい痛み、そして恐怖を伴う記憶。そしてどこか懐かい声と笑顔。
気付くと見覚えのある青い部屋にいた。違うところと言えば、いつも声を掛けてくるあのエメラリーンがいないところか。それと、
「どなた、ですか」
見知らぬ女の子がアリア=レコードにいた。立ったままこちらを見ている。
「私はシスティーナ。だよ。言ったから答えてもらうよ、あなたは……誰?」
綺麗な緑の目がこちらを射抜く。髪も、見覚えのある金色。
「アンリ。アンリ・クリューゼル」
「そうなんだ。ごめん聞いてみただけ」
「君は、ミクス……?」
先程初めて知った、まだよく知らない人物によく似ていた。しかし彼女は首を振る。
「さっきシスティーナだって言ったじゃない。違うよ、それに私、あなたのことは知らないよ?」
変な人ーとシスティーナは笑う。アンリはそうですよねと目を伏せた。その時初めて、自分が椅子に座っていることに気付いた。
「?!」
「どうしたの?いきなり立ち上がって」
――その椅子はエメラリーンの席だ。自分の椅子じゃない。……ならこの世界は?この子は……?
顔を戻すとシスティーナは跡形も無く消えていた。その代わりに背後から声がする。
「ようこそ。私の愛するアリア=レコードへ」
「エメラリーン……」
彼女の椅子は、さっきまで自分が座っていた位置より随分と離れていた。そう、いつもの距離感である。さっきまで座っていたエメラリーンの椅子は、自分の椅子に変わっていた。
「疲れた顔をしていますよ」
「でしょうね。あなたは分かってるんでしょう」
「何がですか」
「僕が、何なのか」
何を言ってもやはり、エメラリーンはいつもと同じような答えを返す。時に会話は成り立たない。
「私はあなたでありあなたは私です。あなたが知っていることは私も知っています。同様に、私はあなたが知らないことは知りません」
「僕が思い出せないことは思い出せない。そんなことはないですよね」
「私は記憶、この本の管理をする者です。本が先程開かれたのは、外部からの干渉を受けたからです。予期しないことでした」
そう言い本の表紙をなぞる。今までよく見ていなかったが、彼女の持つ本はいつも同じで表紙に窪みで形作られた独特な模様がついていた。
聞きたいことは山程あるが、聞いたところで何と返されるかは分かっている。自分の知らないことは知らない、今は言うべき時ではないと。それに、口に出さなくてもすっかり自分の心の中なんて分かってしまうのだろう。
「その通りですよ。……さあ。そろそろ戻りましょう。あの世界にあなたはやるべきことがありますから」
◆◇◆◇◆
甘い、甘い匂いがする。
『アルモニカ、アルモニカ……』
優しい声がする。
――おかあ、さん?
『起きなさい、アルモニカ……』
――お母さん、私、眠たいな……まだ、眠っていたいのに。
何か離れたところで音がする。そして揺れている。悲鳴のような、耳障りな音がする。
甘い香りがする。むせ返るような、ねっとりとした香りが。
――あれ……苦しい……?
ゆらゆらと混濁した意識から段々と覚醒する。薄暗い、薄い何かに包まれている。四肢は上手く動かない。
――確か私は……
その時、視界が明るくなった。外部から花を切り裂き現れたのは、他でもない、
「アンリ――――」
伸ばされる手を見つつ、引き上げられる感覚と共に、安心したかのようにアルモニカの意識は再び闇の中に落ちた。
◆◇◆◇◆
目を覚ました時、アルモニカはすぐに、さほど時間が経っていないと気付いた。
「アルさん。大丈夫ですか」
ゆっくりと身を起こす。立て膝でこちらを見るアンリからは、悪魔の残滓の昇華する様子が僅かに感じられた。
「うん……少しチカチカするけど、平気」
ふとアンリの顔から目を離す。すっと視線を下げた彼女はあることに気付く。
「って、アンリ!」
「はい?」
アンリの右腕からは血が流れ出ていた。アルモニカの心配をしている場合ではない。
「その怪我大丈夫?血が……」
何がどうなったのかも分からないが、びりびりとなった袖。恐る恐る捲ると傷口が顕になった。それを見たアンリは少しだけ顔をしかめたが、口から出た言葉は全く気にしていないような様子だった。
「そうなんです。制服も破れてしまいましたし」
「違うでしょ!もっと自分を大切にして!」
「これ、大したことないですよ。傷は放っておけばいつかは治りますが、直らないものもあるでしょう?」
「そういう問題じゃないの!馬鹿!」
そう言えば、アンリがひどい怪我をしている所を見たのはこれが初めてではない。彼はどうやら本気でそういう事に無頓着なのだろうか。しかし痛みも恐怖も伴うだろう。これは人間の本能的にありえない。
アルモニカはアンリの前に正座して腕を掴む。そして応急処置を始めた。
「……自分は、自分の体は大切にすべきものなんでしょうか。そんな価値が果たしてあるのでしょうか」
ぽつりと零したアンリの言葉を聞き、アルモニカははっとした。彼が無茶をする理由はこれなのだと。記憶が無いから故、自分の価値が見い出せないのだ。少し悲しくなった。
包帯を巻きながら、彼女は語りかける。
「ねえ、よく聞いて。もし、仮に価値が無かったとする。でも、アンリにはもう居場所も仲間もいるでしょう?じゃあもうアンリは価値あるものなんだよ。アンリが自分に価値を見いだせなくても、私がアンリに価値を見出す。アンリが自分を大切にできないなら、私が大切にする。自分のために大切にできないなら、私のために大切にして」
言ったあと、偉そうなこと言って説教を垂れてしまったとすぐに恥ずかしくなった。しかし、アンリの反応は冷めたものではなかった。
「……アルさんは優しいんですね」
「……あ」
「?」
「今、笑った?」
「そうですか?」
「うん」
アンリは僅かに笑った。作り笑いでもない、それは彼の笑顔だった。
それで思い出した。アンリに言いたいこと、言わなければいけないことがアルモニカにはあった。
「あ、えっと、その、あの時はごめんね」
「どの時ですか?」
「ほら、私アンリに酷いこと言っちゃって……」
「あのことですか。全然気にしてませんよ。それに、この辺は空間線量が高くて、脳に影響が出やすいんですよ。アルさんのせいじゃないってこと分かってます」
「そっか。……ありがと」
巻き終えた包帯の端を結んで切り、仕舞った。
アンリは優しい。それはよく分かった。
それにしても、脳に影響が出やすいとは……
「そう言えばアンリは?大丈夫なの?」
「はい。もう大丈夫ですよ」
弱々しく笑ったのは作り笑いであるが、これは気にしなくても大丈夫だ。これも彼の優しさだ。
アルモニカはふと、アンリの表情に複雑な物を含んでいることに気が付いた。
「本当に?……何があったの」
「何も、無いですよ」
「嘘」
「……」
「あっ、ごめん。言いたくないなら無理強いはしないよ」
その時アンリはまたもくすりと笑った。そして「これからアルさんに嘘はつけないですね」と言った。
「少しだけ思い出したんです。まだ断片的ですし、他人の記憶のようですが」
「……!よかったじゃない。また全部思い出せるといいね」
喜ばしいことだと、笑顔で両手を取る。アンリは暫しアルモニカを見つめた後、そうですねと笑った。
思い出した記憶はじわじわとアンリに衝撃を与えた。薄れていた、物事への恐怖を感じた。そして、見知らぬ少女の笑顔が脳裏に焼き付いていた。空っぽだった自分の中身が見え始めたのだ。
だが本当に、思い出すことが正解なのだろうか。そんな思いを微かに、奥底に抱えたまま、再び作業に戻った。
二人はJ地区を最後まで回ったが、他に変わったことは見られなかった。
“彼ら”にとって、大切なものは地下にあったのだ。
◆◇◆◇◆
《ミッションRの終了。ミッションRの終了を報告します》
「終了しました」
ファンの回っていた音が止み、静寂が訪れる。薄暗い部屋には白衣を着た者が何人かいた。
こつりこつりと足音が響き、誰かが近付いてくる。
「どうですか。結果の方は」
「特別顧問。Mー06ー14個体はやはり離れていても復元支部基と同調しているようです」
「そうですか。支部にも同調するのは驚きです」
「ただ、少しノイズが確認されたのですが……」
「ノイズ?」
「はい。しかし何なのは分かりません。僅かなものですが」
「まあいいでしょう。そうそう。この前輸送したディアモ・イレイアの卵はどうしましたか」
「まだ保存してあります」
「そうですか。うっかり。ダクトを詰まらせないよう注意してくださいね」
「気を付けておきます」
特別顧問と呼ばれた男は時計を見、そろそろ時間ですと言い去っていった。
「室長大変です。2型の中でも3型の特徴を持つディアモ・イレイアですが、巡回中の教団に破壊された模様です」
「そうか。まああれはいい。回収班を回せ」
「承知しました」
遠い昔、迫害されたキリスト教徒が使ったとされる地下礼拝堂カタコンベ。キリスト教が公認され広まってから必要とされなくなってからも、残ったそれは悪魔達の地下通路として使われていた。それよりも深い所に、同じく大きく地上に出ることはないが、悪魔とはまた別の勢力が根を張っていた。
「PICO(ピコ)……私の会社は名前を変えましたが、やってることは変わりませんね。それにしても、前社長が特別顧問として組織に介入できるなんていいんでしょうかね」
特別顧問と呼ばれた男は、暗い光の無い瞳で閉ざされた扉を見ていた。
「まあ。本人が気にしていないなら良いでしょう。若くして普通の世界に飽きてしまった実に可哀相な彼の為に手伝ってあげることにしましょう」
一人ぼそりと呟くと、くるりと背を向け歩き出す。
「私のせいでもありますしね。それに面白いじゃないですか。彼がしようとしていることは。悪魔の利用だなんて」