「西方本部所属、アンリ・クリューゼル下級エクソシストをこちらにお貸しいただきたい」
某日、エクソシスト隊一般隊含めた隊長格も出席する会議が行われていた。そこで東方支部のテトラールキであり四番隊隊長でもある狐面のニルス・グレイヤーが、話の流れの中で言ったのである。
「別に可笑しなこと言ったつもりはありませんよ。こちらと本部の状況を見れば、戦力の分配を提案、試みるのは当たり前。そして本部エクソシスト隊のいくつかの報告書を見せて頂きましたが、彼、あのヒトクイユリを倒したこともあるそうじゃないですか。ああ、蔑称を御存知ないであろう各方々にも分かるように説明させて頂きますと、2型悪魔の性質を持つ3型悪魔。本来の見た目は百合の花を持つ、食虫、いえ食人植物のような悪魔です」
狐は腕を組み直した。
「存在自体がレアだということもありますが、かつてヒトクイユリを倒したという例はごく僅か。大概は逃げられてしまいます。そして危険レベルも高い。敵は食事中だったとのことですが、この功績には目を見張るものがあります。因みに、私は彼がここに来た当初から彼には目を付けていましたが」
そうして狐はふふんと鼻を鳴らした。彼が団長に視線を送ると、団長は「私はあなた達に任せようと思います。三番隊隊長としての意見を求めましょう」と、ベルガモットを促した。彼は無表情のまま暫く肘をついて考えていたが、やがてペンを走らせ[可]とだけ返した。狐は満足気に「決まりですね」と言った。
「まさか、」
思わず声を上げてしまったサクヤに、狐はすかさず「なんですか」と言い彼女を見た。サクヤは引き下がれない。ごくりと一度唾を飲んでから彼女は腹を括った。
「……どうしても彼じゃなきゃいけないんですか」
「ええ。まあ。聞きたければここでお話ししましょうか?もちろん後でも良いですけど」
狐は含みのある言い方をした。違和感を感じたサクヤだったが、彼は反論する間を与えないうちに続けた。
「彼の功績は先ほどの説明で分かりますね?あとの三番隊ですが、クロウ・ベルガモット隊長殿、レイ・パレイヴァ・ミラ中級エクソシスト、貴方達が西方魔女戦線において主戦力であることは知っています。中央から切り離すことは不可能に近いでしょう。それからサクヤ・ロヴェルソン副隊長殿、貴女も魔女との戦闘、遠征の先導等様々な場所で活躍しておられるようで、召喚なんてとてもできそうもありません。後の三人ですが、エルフォード下級エクソシスト、彼の力はとても不安定です。ここにいる期間は長いのでしょうが、実戦では使い物にならない」
「……よくこちらのことをご存知で」
「私のことを何だと思っているのですか。教団各所のことに目を通し、頭に入れておくのは当たり前です」
まだ続きがあります。そう言って、やんわりと止めに入ったサクヤを無視して狐は続けた。
「フリィベル下級エクソシスト、彼女は一見エクソシストに向いているようですが、ああいうのは一番不向きなのです。残念ながら、戦場を私怨で駆ける者は早死します。雅京の使い手は大体、まともじゃなくて困ります」
すっとベルガモットのノートが上がった。狐はすかさずそれを見た。
[それはヒュールを愚弄しているのか]
「いいえ。そんなつもりは無かったのですが。まさかあの方の名前も出るなんて」
「……」
「言っておいてだんまりですか」
ばつが悪そうに目をそらしたベルガモットに具レイヤーが詰め寄ると、他から声が上がる。
「感じ悪いなあグレイヤーよお」
ベルガモットの隣に座っていた短髪の男が急に声を上げた。南方テトラールキであり一番隊隊長でもあるジェイルだ。
「おや、みなさん揃って私を悪者にするおつもりですか?」
「大体お前はいつもそうだ。狐みてえに人を……あ?なんだ?」
しかし彼が反発したすぐ後に、ベルガモットがジェイルの服の端をつまみ[やめておけ]と彼に見せて諌めた。
「静かにしなさい」
団長の、静かではあるがよく通る声が会議室に響くと、狐は少々不服そうであるが咳払いをして顔を正面に戻した。
その後も狐は挑発的な言動こそしなかったものの、議題は逸れなかった。
「グレイヤー隊長含め上層部は亡霊の災厄、亡霊の遺産などとよく口にしていたが、私含め多くの人は何のことか分かっていなかった」
そして間を空けてサクヤは続けた。
「あの時、私は反論したかった。隊長もどうして許可したのかと。でも論破なんてできなかったんだ。すまない」
「副隊長が謝る必要なんてないじゃないですか」
申し訳なさそうなサクヤにアーサーは慌ててフォローを入れたが、彼自身は動揺していた。何を考えているか分からないあの口の上手い狐に、アンリの身柄が引き渡されたということになるのだろうか。
思い起こされたのは約半年前、アンリが来た時のことである。アーサーは部屋の外にいて中の様子は伺えなかったが、アンリの所属を決めた直後、狐が「亡霊の災厄」と吐き捨てて、えらくご立腹で部屋を出てきたのを覚えている。何かがあるような気がした。
「アンリはこのこと」
「ああ、もう話した。アルモニカにもな」
二人は何を思ったのだろう。特に本人は。アンリのことだ。「そうですか分かりました」とだけ言ったに違いない。何を思ったのかは分からないが。
平和だなんて有り得ない。安全だなんて無い。最初から分かっていた筈なのに、暫くぬるま湯に浸かっているとこうも心が揺らぐのか。
「出掛ける前に挨拶はしねえとなぁ」
窓から見える木々、徐々に若葉をつけ始めたそれを見ながら、アーサーはぼんやりと考えていた。
◆◇◆◇◆
メルデヴィナ教団東方支部、それは地形的な問題で他の支部と本部との距離感に比べ、随分と離れたところにあった。
中央世界と呼ばれるこの場所から大陸を東に行った所、船をも乗り継ぎ見えるのは、完全に異国の雰囲気が漂う和和ノ国(かかのくに)。その不可思議な文化、場所から、西方世界の人々によってある時期は半分伝説化していたような国だ。ある伝記にそう書かれていたのだ。大昔のとある数学者の伝説を取り入れたと思われるその伝記の表記に則り、こちらではユリーカという別称で親しまれている。勿論、この国の人々は自国のことをそのようには呼ばないが。
会議の為、本部にわざわざ来ていたグレイヤー四番隊隊長達は何日か滞在していたが、彼らと出発することになったアンリは、やり残してはいけないと仕事を任されることなくただ暇を持て余していた。荷物をまとめると言っても元々そんなに無い。
そうして彼はふらふらと歩いている内に本部の中庭までやってきた。その一角に生えている大きな木の木陰に一人、読書にふける友人の姿があった。
「あ、アーサーさん……?」
否、アンリは彼だと本能的に悟ったのだが、違和感があった。灰色の目を持っており片眼を眼帯で覆っているはずが、このアーサーと思しき人物は眼帯をしておらず、代わりに眼鏡をかけているように見えた。
アンリの目は良い方だ。しかしこの距離、確認しようと近付くと、不意に彼が顔を上げた。
やっぱりアーサーだった。彼は、何か眩しいものを見るかのように目を細めた。
他にやることのないアンリは彼に近付いていく。そして彼の左隣、青い草の上に腰を下ろした。
「老眼ですか」
「いやどっちかって言うと遠視かな?!」
第一声それ?!と突っ込むアーサーに、アンリは手元を覗き込む。
「それは……地理書?」
視線を落とすと、いくつかの本が目に入る。科学書のようなもの、物理の諸事について書かれているようなもの、などがあった。アンリが本を眺め、目を瞬かせていると、アーサーは乾いた声で笑った。顔を上げると、いつの間にか眼鏡を外し、眼帯をしたいつも通りのアーサーだった。
「恥ずかしいんだが、俺、ほとんど勉強してないんだわ。で、サクヤ副隊長が俺に課してた課題があったんだが最近になってやってないのがバレてなあ。仕事の代わりにこれを読めと」
「僕も勉強した記憶なんて無いですね」
「でもお前、結構何でも知ってんじゃねえか」
「……何ででしょうね」
アンリは時々妙に物事に詳しいことがあった。ただし、本に記載されているようなことだけであるが。「先生に聞いた」と出典がはっきりしているものから、本人も指摘されると困惑するようなものまである。
アンリはアーサーが忙しそうなのだと悟るとその場を去ろうとしたのだが、アーサーが会話を続けた為にその場に残った。
「先生ってよく言うけど、昔一緒に旅してたんだよな?」
「はい。確か、先生に出会ったのが五年前。別れてから一人で旅をしてたのは二年にも満たないくらい……ですかね。多分」
「多分、か」
「実はその辺の記憶も曖昧でですね……すっぽり無い所以降も結構ぼんやりとしてるんです」
「そうか」
風が吹き、木のざわめく音がした。
アーサーは懐から懐中時計を出してちらりと時間を確認した。まだ次の予定まで時間はある。
懐中時計を戻し、アーサーは両足を前に投げ出した。
「暇だな」
「ええ。アーサーさんはともかく僕は」
「俺もずっと勉強なんて疲れる」
「……話の種でもあればいいんですけど。物語とか」
「……物語なあ……」
アーサーは、ふと思いついたように、ああと言った。
「一応あるが、聴くか?」
「いいですけど……アーサーさんってそんなの読む人でしたっけ」
そんなの、どころか。アーサーは教団に来た当初、識字もままならなかった為その教育に時間の多くを費やした。事務的なことに使う最低限のもので、後になってもほぼ彼は本に触れてこなかった。
「まあ、全然読まないんだがな、一つだけ引き出しがあるんだよ。それを出してやる」
彼は思い出すように話し始めた。
これは昔、とある不幸な男の話だ。
【白百合の華 前編】
(一)
生温い風が髪を揺らし、頬を撫で、草の間を渡ってゆく。暫く前までの肌を刺すような冷たい風に慣れたこの身には優しすぎて、時に戸惑いそうにもなる。心をくすぐる幾らか不快な風なのだ。柔らかくとも眩しい光と青い草に目を細め、私は木の幹に背を預けて息を吐いた。読書にでもと書庫から適当に拝借した本共は、私の散漫な注意力のせいで手に付けられることもなく草の上に散らばっている。
私はとある貴族の末裔の三男であった。辺境伯の一族だ。兄達は跡取りになる為に競い合っているが、私はどうしてかそんなものにこだわるつもりは頭目無かった。両親の育て方の違いが大きいのかもしれないが、とにかく私は平和でぼんやりと過ごす今にある程度満足していたのである。そんな私を見てか、最初は口を出していた兄達にももう何も言われなくなったのだ。私は実に、何にも怯えることもなく、何にもさほど苦労することもなく、文芸、音楽、そのようなことをさせてもらっていた。そんな少し異質な要素を、家は容認していた。現在一家の全権を持つ祖母を除く、であるが。
風と共にどこからか芳香を嗅ぎとった私はきょろきょろと辺りを見渡す。何を思ったのか、私は何もかも放り出してその芳香の元を辿りに行った。本や荷物は木の下に置いたまま、森の中へとどんどん入っていった。魔物が出ると忠告されていた、森の深い深いところまで。
私の純粋な好奇心は勉学に於いてはうってつけであったが、往々にして禍を引き起こす。この時もそうであった。
思えば、私がこうでなければ何もかも起こらなかったのだ。
(二)
荊棘に服を引っ掛け傷を作り、それでも私は森の奥へと進んだ。
少し拓けた所に出た。その瞬間我が目に写ったのは、大きな美しい花だった。白く透けているそれはとても美しいが、大きさを考慮しなくても、いままで見てきた数々の文献にも私の記憶にもそんな物は無かった。しかしただただ美しかったのだ。周りに咲き誇るのはこれまた白い花。しかしこれはよく知っている。百合の花だ。
思わず懐から鉛筆と書くものを取り出し、私はクロッキーを始めた。二度と会えないかもしれない。この瞬間をノートに書き留めようと、夢中で鉛筆を走らせる私は、完全に周りが見えなくなっていた。
しかし、ふと何か気配がした。背後に感じたそれは一瞬邪悪なものに感じられたのだが、それも杞憂なのだとすぐに分かった。
恐る恐る振り返ると、後ろには女性が立っていた。突然振り向いた私に彼女はびくりと体を緊張させた。
透き通るような肌。緩く結い上げた真っ白な髪。少し怯えたようにこちらを窺う表情。薄い唇に、すっと通った鼻。そしてその上には、糖蜜のような金色を封じ込めた二つの瞳。何もかも、人とは思えない美しさだと思った。先程の花などのことはすっかり頭から抜け落ちたようで、私は彼女しか見えなくなった。
私はずんずんと彼女に近づいていった。彼女は怯えて身を少し引いたが、私はそんなことは気付かなかった。
私は知を吸収できるこの平穏を愛する人間であった。そしてこの時の私は呆れるほどに、理性よりも衝動が勝り、行動力のある馬鹿であった。
「貴女はなんて美しいんだ」
手を取り、驚きに目を見開いた彼女には全く気に止めぬまま、私は至極真面目にそう言った。
(三)
あれから私は彼女との逢瀬を重ねるようになった。
彼女の名はリリィラと言った。深いこの森の向こうの異国の街に住んでいて、あの時は偶然森の中で迷っていたらしい。私がこの森は悪魔が出るからと言ったのだが、彼女は苦笑いして「きっと大丈夫ですわ」と森以外で私と逢おうとはしなかった。
そんな中でも私と彼女の仲は徐々に親密になっていった。彼女の心はとても優しく清らかで、しかししっかりとした芯はあった。私は見た目だけでなく、内面にも心奪われていたのである。それは、知れば知る程深まった。
ある日のことである。彼女は改まって私に打ち明けた。
「クリストファーさま。私は貴方をお慕いしております。でもそれは、本当に罪深いことなのです。私なんぞがクリスさまと一緒に居られるのは、それだけで私にとって幸せなことでありますのに、ああ何ということでしょう。ああ」
そうリリィラはその金の瞳を潤ませ、はらりと蜜を零した。
私は困惑した。一体この身も心も美しい女性が何故このようなことを言うのか。まるで自らを卑下しているかのようである。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、リリィラは私の手を取った。
「私が貴方の手を取れるのも、まるで奇跡なのです。クリストファーさま。お分かりになりませんか」
濡れた瞳で見つめられても、全く理解ができなかった。しかし頭の何処かで、知っているだろうとそんな自分の声がした。
彼女は髪を掻き上げ、その尖った耳を出した。
「私は“悪魔”なのです」
悪魔。あの残虐非道で人を悪の道に誘い込む悪魔。絶対的な悪である。しかし彼女がそんなものであるようには見えない。そこで私は思い出したのである、昔に見た文献を。
この世界には悪魔がいる。しかし、それは宗教世界に於ける伝説的なものではない。そのもたらす害悪とその見た目から恐れられた存在である。彼女はそれだった。
「私は悪魔なのに、人になりたいと思ってしまった。人を愛してしまった。……なんて罪深い。私は、私は……」
自分を責め、泣き崩れるリリィラに、私はただ思ったことを口にした。
「リリィラ。他の人間は悪魔を恐れ、君を残忍で卑劣な悪魔だと憎むかもしれない。けれど、私はそうは思わない。悪魔が君みたいな美しい心の持ち主ばかりであるなら、我々は誤解をしている。そうでなくても、私は君を受け入れるだろう」
彼女は驚いたように私を見ていたが、やがて笑顔を見せた。
リリィラは悪魔であった。しかし、私にとっては何の障害でもなかった。そう、私にとっては。
(四)
悪魔にも界隈、組織があることを知った。リリィラが私と親しくしていることを良く思わない同胞達から守るため、私はリリィラを屋敷の空き部屋で匿っていた。彼女だけではない。実を言うと、彼女は身重であったのだ。
向こう側だけでなく、私の一族にこそ、このことは大層良く思われなかっただろう。酒や女には溺れなかったものの、何の役にも立たずただ毎日を過ごしていた末息子が、何処の馬の骨とも知らない女を連れてきた。しかも悪魔だと言う。とんでもない話だ。
父親に説き伏せ、私は何とかこのことを一族に一応は容認させたのである。一応は、であるが。
仕方がない。こうするべきだと、いや、許されるだろうと私は思っていた。
部屋に閉じこもり、することもないので会話を楽しんでいた所、彼女はふと私に言った。
「クリスさまは難しい言葉を知っているんですね」
「勉学にしか能が無いんでね。特に読書は好きさ。君は本を読まないのかい」
「ああ。ええ全く。文字が読めなくて」
「教えてやろうか」
「まあ。本当に。それは素敵。少し憧れていましたの」
手を合わせてリリィラは喜んだ。
そうして文字を教えていくと、彼女は様々なことを知りたがった。簡単なものから、私は本を書庫から拝借し、彼女に渡した。
リリィラは変わっていた。文字が読めないと言うものの、その所作はどこかで身につけてきたような美しい振る舞いであったし、「チェンバロは弾けますの」と言い、我が屋敷にあった一台のピアノの前で、その美しい音色を奏でてくれたこともあった。彼女の神秘さは、私にとって惹かれる要因でしかなかった。
そのうち秋も深まって、色付いた葉が落ち、枝も凍える冬がやってきた。
雪がしんしんと降るある日。遂に子供は産まれた。
「リリィラ、頑張ったね」
「ええ、本当に、よかった」
ここは辺境。医者など元よりいないが、時間をかけて呼び寄せることはできる。それをしなかったのは、彼女がどんな子が産まれるか分からないと頑なに拒否したからである。しかしどうだ、なんてことない。彼女と私のように、ちゃんと人の形をしている。それにしても、なんと可愛らしいのだろう。
透き通る白い肌。ふっくらとした頬。眠る吐息に合わせ上下する腹を眺めるだけで幸せになれた。
「貴方に似た綺麗な色の髪」
「顔は君にそっくりだ」
「目は、オッドアイ?私と貴方の色をしていますね」
「ヘテロクロミアだね」
「まあ難しい言葉。私ももっと勉強しなくてはいけませんね」
そう微笑んだリリィラもまた愛しかった。私は本当に幸せだったのだ。