永遠の命を人は求める。
不老不死という言葉は、俗世の欲に塗れた者には実に甘美な響きに聞こえる。
今ある富、地位、名声を手放したくない。美貌を失いたくない。死ぬのが怖い。様々な恐怖から、人は不老不死への憧憬を増させるのである。
しかしながら。永遠の命を手に入れた者は、大概のところ生きることに飽きるらしい。
ある男は、知識を取り込むことを永遠に続く人生の楽しみとしていた。学び、知り、考える。これを長い長い時間、好きなだけできることを彼は喜んだのである。
学ぶ喜び。知る喜び。教える喜び。創る喜び。
喜びに満ち溢れた人生には飽きなど無かった。様々な面を演じることも楽しく、彼はまさに不老不死という人によっては活かしきれないその価値を、彼なりの最大で引き出し人生を謳歌していた。
しかしやがては飽きが来る。
だからと言って、彼は自らの死や世界の破滅を望むような人間ではなかった。
なら何だと言うのか。単に、彼はそんな器では無かったということだった。
彼は神になろうとしていた。
◆◇◆◇◆
【アリア・レコード】
「ようこそいらっしゃい。私の愛するアリア・レコードへ」
白い髪、白い目の女がいつもの挨拶をした。最早これは言葉ではなく挨拶だ。
ここはアリア・レコード。アンリの夢のようなもの。
眠り、気が付けば訪れているこの部屋は、エメラリーンという女性だけがいつも椅子に座っていた。青い世界の中、衣装以外真っ白な彼女はどこか透けるように青白かった。
周りには天まで届くような本の山。乱雑に山積みになっていたり、本棚として存在していたり日々によって様々である。
いつもと変わらない。彼女はいつも通りの挨拶をし、いつも通り、椅子に座って本を膝に置いていた。……もしかすると、椅子が変わっているのかもしれない。いや、忘れているだけなのかもしれない。
エメラリーンには以前から、丁寧な言葉遣いをする必要は無いと言われていた。アンリ自身は他人にはどうしても敬語を使ってしまう癖があったのでそれは暫く抜けなかったが、こうも会っているとそれも自然とやめることが出来た。アンリはエメラリーンに、以前よりも砕けた言葉を返した。
「エメラリーン。久しぶりだね」
「私には、以前、あなたが私に気軽に接してくれるようになってからあまり時を経ていないように感じます」
毎日のようにアリア・レコードの夢を見ていたアンリだが、ミクスのことを思い出してから、彼女との思い出を繰り返し夢に見るようになった。しかし、時にはここにもやって来るのだ。数日開いただけで久しぶりだと思ってしまう。
エメラリーンはいつものように、文脈とは関係なく徐に問いかけてきた。
「記憶を思い出すのは、あなたにとっていいことですか?」
エメラリーンの質問の真意が、一瞬なんなのか分からなかった。
「……エメラリーンは、思い出して欲しくないの」
「私は問い掛けているのです」
彼女は答えてはくれなかった。しかし、思えば彼女は一体誰なんだろう。ここは一体何なんだろう。もしかしたら、彼女は僕にこれ以上思い出して欲しくないのか。様々な思いが頭を巡った。
言葉には一つたりとも出していないが、彼女は優しく笑って首を横に振った。
「私はあなた。あなたは私。私自身に意志はありません。あるのはあなたのみです。分かりますか」
分からない。そんな回りくどい言い方では。
「あなたは何処かで、思い出したくないと思っているのです。未知なる自分に出会うことを、自分が自分の知っている自分でなくなることを、何処かで恐れている」
そうだったのか、というのが率直な感想だった。自分のことなんてよく理解していないものだが、彼女との対話は己の深部を晒され、時に抉られているようだ。それにより分かることも多々ある。エメラリーンには以前からどこか懐かしさのようなものを感じていたが、それは片時も離れず過ごしてきた自分自身に対するものなのかもしれない。
それにしても、今日のエメラリーンはよく答えをくれる。
「あなたが一体どうするか、それは私には決められません。決めるのはあなたです」
そんなの決まってる。返す間もなくエメラリーンはさて、と手を胸の前で一度合わせ乾いた音を立て、別れの言葉を告げた。
「さて、時間ですよ。また今度」
◆◇◆◇◆
【ヴァルニア】
ある日のヴァルニア。ここには、対悪魔組織メルデヴィナ教団の本拠地がある。
ここから程近い都市メインライアは、テトロライア王国の王都であることから活気に溢れているものの、ここヴァルニアはそんな都市と比べると幾分か寂れているようにも感じる。整備された大きな道の続く先、教団本部が物々しいと感じる者も、それによる安心感を得る者もいるだろうが、後者は稀であろう。それでもここに住む者は少なからずいた。
季節は巡り、気候は大分暖かくなって来ており、幾分涼しげな格好をしている者が多く見られる中に、一際目立つ人影があった。
ワンピースのようなシンプルなドレスを身にまとった人物。真っ黒なフードを鼻まで深く被り、顔はおろか頭髪も確認出来ないその様子は如何にも不自然で暑苦しく、街ゆく人はこそこそと、横目で見ながら避けて通っていた。
しかし、この本人はいたって真面目であった。
数ヶ月前、リィンリィンは北の地スヴェーア帝国のアレクセイグラードでとある人間と邂逅した。ただの人間ではない。触れると拒否反応を起こしてしまうはずの人間であるのに、その人間は触れても何とも無かったのだ。
あの時初めて会ってから、その衝撃を思い返す度、リィンリィンにとってあの人物は「どこか気になる人」となっていた。気まぐれであると己を惑わし否定しようとするも、これが恋であると確信するのにそう時間は掛からなかった。
しかし悪魔が人間に恋をするなど、あってはならないことであった。とある前例ができてしまってからというもの、身の破滅を招くものとして組織からは破門させられる要因となっている。リィンリィンはいけないことだと知りながらも、諦める訳にはいかなかった。しかし、彼女にとってそれは想いを伝えることでも結ばれることでもなかった。
まず、とにかく彼の情報が欲しかった彼女は、直属の手下の下級悪魔である黒くて丸い悪魔――一部のエクソシストがムガイと呼んでいるもの。リィンリィン自身はそれぞれに独特の名前を付けて呼んでいた――を使役してあらゆるところに行かせ、彼の情報を得ていた。しかしそれも微々たるもので、どこどこで見た、だの、今日は見なかった、だのそのような程度のことである。
そんな中で、リィンリィンは彼を見かけないことに最近気付いた。そのうち居ても立ってもいられず、教団本部まで直接赴くというとんでもない行動に出たのだ。しかし――
――……馬鹿みたいですわ。ちょっと考え直さないといけませんわ。
前へと進む熱量が、しばらくすると冷めて冷静になったのか。彼女は大通りから外れた路地の、建物の隙間の影にひっそりと入り込んだ。
ふうと溜息をつく。何をやってるんだと自分を苛めた。
自分は明らかに怪しい。教団本部に易々と侵入できる訳がない。何かに乗じて入れたとしても、それからどうするのだ。ぐっと唇を噛み締めた。
もう帰ろう。そう思って大通りの方を一瞥した時、明るい大通りの方に、人が通り過ぎたように見えた。勿論、大通りには他にも行き交う人はいる。荷台を積んだ馬も走っている。それはこの裏路地からも見えている。しかし、ガラガラと音を立てて走る馬車、行き交う人々のその向こうに見えたのは、薄い金が陽の光に照らされてまるで天使の輪があるような頭髪。肩につかないほどの長さだ。よく見えなかったが、もしかしたら瞳の色はペリドットだったかもしれない。リィンリィンの心拍数は一気に上昇した。
「ま、まって!」
駆け出し暗がりから飛び出した。思わず声が出た。しかし……
「……?私ですか?」
完全に人違いだった。まず後ろ姿から違った。真っ白なシャツに青いスカートをはいた少女だった。リィンリィンは気恥ずかしさから下を向き、顔を覆った。
「あ、ああ……なんてこと……」
「?どうしたんですか?」
少女はリィンリィンの方に近付いて来た。そしてそのままリィンリィンの腕を強引に掴み、道の端の方まで引っ張った。頭に疑問符を浮かべたままのリィンリィンの左側を馬車が通り過ぎて行った。
「道の真ん中は危ないですからね」
そう馬車を見ながら呟いた彼女の姿をリィンリィンはまじまじと見た。
見間違うのも無理はないと思った。金髪は少しあの人より濃いかもしれない。緑の目はあの人より青いかもしれない。背格好はリィンリィンよりも小さく流石に明らかに小さいが、とにかくどこか似ていた。……そういえばこの少女はさっきリィンリィンの腕を掴んだが平気だったのだろうか。服の上だったから平気だったものの、耐性は強い方なのだろう。
様々なことを考えていると、少女がリィンリィンに話しかけてきていたことに気付いた。しかしリィンリィンはすぐにでも帰りたかった。
「な、なんですの」
「だから、あなた教団本部に行こうとしてたんですよね」
「なっ」
「ここに来る人はほとんど教団に用がある人達ばかりだと聞きました。それにあなた明らかにそんな動きをしていましたから」
なんと見られていたのか。羞恥心が爆発しそうだ。リィンリィンがおろおろとしていると、少女は願ってもないことを口にした。
「良かったら一緒に行きませんか。私、初めてで心細かったんです」
真顔で言う彼女は、失礼なようだが心細いようには見えない。もしそうだとしてもリィンリィンは願い下げであった。しかし、冷静に考えてみるとこれはチャンスなのではないか。少なくとも不審者一人で街をうろつくより、一般人と一緒にいた方が周りの警戒心は薄れるだろう。謎の焦りも相まって、リィンリィンは二つ返事で了承した。
無言のまま歩く。周りは相変わらずリィンリィンを、二人を避けていた。
隣の彼女はまるでお人形さんという言葉が似合うようなすました顔で、どこかそんな風な服を着ていた。目の色も珍しいようだ。彼女は一般人なのではない、不審者が二人揃っただけだった。リィンリィンはまた落ち込んだ。
そんな中、少女はリィンリィンに徐に話しかけた。
「どうしてそんな厚着なんですか」
今更か、といった質問である。しかし答えを用意してなかったのか、リィンリィンの回答は不自然だった。
「寒がりなんですの!そ、それに眩しいし日光に弱い体質なんですの……!」
「……そうですか」
淡白な少女の返事は、納得したのかしていないのかよく分からない。リィンリィンはとりあえず大丈夫だろうということにしていた。半ばやけくそである。
元々真っ直ぐで遠くない道だ。すぐに教団本部前に着いた。本部をこんな間近で直接見たのはリィンリィンには初めての経験だった。
前庭と呼ぶのだろうか。白い外壁に囲まれた中にある、建物までの道と幾つかの塔のようなもの。そして奥に見えるのは、白と灰色で構成された、どこか表情の無い建物が何棟か。
進む少女の後ろに続いて検問に行こうとした時、少女があっと声を上げて振り返った。そして近付いて少し小声で言った。
「あなたはここからは入れないんじゃないですか?」
「?」
「以前までは散布だけだったみたいですけど、警備が強化されたみたいで。聖水の薄いシャワーがありますよ」
「……なんて恐ろしい!!……はっ」
思わず出た悪魔らしい本音に、リィンリィンは口を両手で押さえた。今日はなんだかガハガバである。そんな様子を見てもこの塩対応な目の前の少女の様子は落ち着いたままだった。
「隠すことないじゃないですか。私は悪魔に対して嫌悪感はありませんし、あなたは害が無さそうだったんで」
彼女はその辺の人間と違った。悪魔に嫌悪感を抱かない?変わった人間だ。そう思ったリィンリィンに、彼女は続けた。
「目的は何ですか?良かったら用事済ませてきてあげますよ。あー、爆弾テロとかはちょっと難しいものがありますが」
何この人間優しい、それがリィンリィンの抱いた純粋な思いだったが、やはりなぜそこまでしてくれるのかという疑問が強かった。また警戒心もある。
無言のままのリィンリィンに愛想を尽かしたように彼女は身を半歩引いた。
「信用してませんね……残念」
踵を返して進んでいく少女の背に、「待つんですの!」とリィンリィンは慌てて呼び止めた。そして、小声で要件を伝えた。
「……よろしくですわ」
「その人物は知らないですけど、訊けたら訊いてきます」
「……ありがとう」
最初に抱いた若干の嫌悪感に心中で謝罪しながらも、リィンリィンのフードの下は比較的満足気で、少女の後ろ姿を見送っていた。
そう言えば名前を聞いていなかったとリィンリィンが気付いたのはそれからすぐ後のことだった。
◆◇◆◇◆
アーサーは本部でまたしても書類仕事をしていた。
仕事は分担され事務仕事は文官がやる筈なのだが、どうも仕事が多いのか、仲が良くなってしまったとある眼鏡の文官に「今仕事が無いならこれやって!」と押し付けられてしまうのだ。内容は比較的簡単だが達成感などは生まれないもの。具体的に言うと、今している作業は渡された書類全てに内容に関わらず可の判子を押すことである。アーサーにとって、最早ここに意味など無い。
いい加減眠気が差してきた頃、彼を起こすかのように丁度扉を開く音が聞こえた。アーサーがそちらに首をもたげると、彼と同じく三番隊のアルモニカがいた。
「外部から、あんたに会いたい人が来てるんだって」
「はあ?そんなやついるかよ」
「でも来てるんだって。そんなに珍しい?」
「ああ」
何と言ったって、彼にそんなことは一度もなかった。……身寄りのない状態でここに来たのだから。
「詳しくは私も聞いてないけど、システィーナさんっていうそう」
しばらく考えた後「誰だよ……」と呟いた彼に、アルモニカは「知らないのね。一体何なのかしら」と考え込んだ。
「まあ、とりあえずエントランスに行ってみたら?」
「ああ。そうだな」
そう言って立ち上がり扉の近くまで来て、自分が判子を持ったままだと気付いたアーサーは、すれ違いざまそれをアルモニカに押し付けた。アルモニカが手の中の物を見ながらアーサーの背に問いかける。
「なにこれ」
「ちょっとよろしく。印押すだけだしこれならお前にもできるだろ」
「なっ」
ぴくりと青筋を浮かせたアルモニカなどよそに去っていくアーサーに、彼女は声を上げた。
「失礼ね!私は何でもできるんだからー!」
アーサーは振り返って手を振っただけだった。アルモニカは小言を言いながら、とぼとぼと判子を持ってデスクに向かった。
エントランスに向かうと、その来賓用カウンターの所に誰かいた。金髪の少女であった。彼女はこちらに気付くとアーサーの元に駆け寄って、にこりと笑った。
「お久しぶりです。やっと会えました。ね、やっぱり大丈夫でしたね」
そんな嬉しそうな少女に対してアーサーは困惑していた。どこかで見たことあるような気もするが、思い出せない。しかしここで知らないなんて言うなんてできない。何とか思い出せと、アーサーは過去を振り返りながら頭をフル回転させる。なんだか思い出せそうな気がするのだが……
「もしかして、忘れちゃいましたか?」
アーサーの様子を見て、少女は不安そうに顔をのぞき込んだ。アーサーは慌てて手を振る。
「い、いや、忘れてはいないと思うんだけど、いや、思うんですが……」
そんな時、彼女は思いもよらない名前を口にした。その言葉にアーサーは驚くこととなる。
「テンです。私テンですよ。思い出してくださいよエルフォードさん」
「テン?!」
何ヶ月か前の、秋の記憶が蘇る。オラルト地区の不審な研究所で出会った、自らをクローンだと名乗る少女、テン。アーサーを逃がす手伝いをしてくれたが、状況が状況だっただけに彼女の安否を少し疑いつつ、どこか大丈夫だろうとアーサーは思っていた。
しかし、彼女の見た目は以前とは変わっていた。目の前の幼い少女があのテンだとはなかなか思えなかった。髪を切った?いや、もっと根本的なものが変わっている。
「ああ、見た目が変わったことを忘れていました」
「??」
ひたすらに混乱するアーサーに、テンは冷静に説明を始めた。
「私、あの時一度死んだんです。けどこうしてまた生き返った。また別の体を使って」
テンはあの時、研究所内で悠々と歩いていたあの男の手で殺された。彼は「選ばれた」と言っていたが、それはとある実験の被験者としてテンが選ばれたということだった。
彼女の首輪はただの自爆スイッチ、従属者の証、それ以外に特別な力があった。蓄積した個体のデータ化された人格と記憶を転送するという、首輪型の装置だった。以前から被験者のデータを取るために、一部の個体には使用されていたようなのだ。これはテンの考察によるものだが、それを更に別の体に送るのは初めてだったようだ。だからこそ、テンはこの実験に選ばれたということなのだ。
テンのこの体の元々の主、それはシスティーナという少女のものだった。
システィーナは研究所の何かの計画に協力させられていた。人攫いによって攫われた彼女は他の被検体に比べて何かに有用であったようだ。最初の検査で別の部門に流される個体が多い中、システィーナだけは違い、彼女の指し示した数値は研究者達を大いに喜ばせた。
彼らの行っていた実験の全てはテンの知る所ではないが、何かの装置が関係していると思われた。情報の波を越え装置で幾つかの物を、システィーナ自身の記憶を見てきたテンだからこそ知ることである。復元基と研究者達に呼ばれていたその装置に同調した唯一の人間がシスティーナだったのだ。その過程か何なのか、システィーナの体はどこかに消え、長い間彼女の意識はテンと同じM-06シリーズの一つの中にあった。
しかしもう、テンが入り込んだことにより、彼女は行き場を失った。だが、テンの頭の中でまだ少し残っているようだった。システィーナは自分の体が無いことを受け止め、そしてテンを受け入れた。
テンは様々なことを内包していたが、それをアーサーに全て話すつもりは無かった。ただ再会を喜びたかったのだ。ほんの一部を彼に話した。突拍子過ぎて無理もないが、アーサーは内容の殆どを理解出来ないようだったので、それこそ適当に。
「それで報告なんですけど、私、教団内部の孤児院に行くことになりました」
孤児院。教団内部の敷地に小さな孤児院がある。それはただの孤児院ではなく、それ以上に訳ありの子供を収容する施設だった。内部にあるが教団直轄ではないというのが一つの特徴であった。アーサーも来てすぐは暫くそこにいたことがある。
「どうやら追われる身になってたみたいで。全く、こんな可能性少しは考えなかったんでしょうか……」
「どういう意味だ?」
「知りすぎちゃったみたいなんです。暫くは大丈夫だったんですけど、何かに狙われるようになって。それで駐留していた親切な教団員さんに途中まで送ってもらったんです」
テンはここに来るまでのあらかたの経緯を話した。しかし、自分のことよりもアーサーの話が聞きたかった。自分を変えてくれた人物の話を。しかしそんなテンの思いとは裏腹に、アーサーは少し考えた後頭を掻いた。
「うーん。特に何もねえなあ。とにかく、お前が無事でよかった」
「残念」
「にしても、誰か本当に分からなくて最初アンリの妹か何かかと思ったなー」
何気なく口にした言葉に、テンはああ!と何かを思い出したように手を叩いた。
「用事を頼まれてたんでした。エルフォードさん、そのアンリって方に会いたいんですけど」
「?あいつがどうかしたのか?」
いえ、まあ何というか……と俯き言葉を濁したテンだったが、ふと言葉を思いついたようだ。
「桃色の乙女?」
「は?」
「いや、純白?」
「んん??」
「会いたくても会えないみたいな感じなんで私が所在だけでも確認しようと」
「ほ、ほう……?」
分かったような分からないような感じだったが、アーサーはとりあえずテンを問い詰めることにした。
◆◇◆◇◆
リィンリィンは本部からさほど離れていない場所で、先ほど知り合った人間の少女を待っていた。暗い路地裏の木箱の上に膝を抱えて座り、動かない様子は本当に物のようで、風景に溶け込んでいた。
彼女しかいなかった路地裏に、別の人物が足を踏み入れる。砂を踏む音と人の気配を感じ取ったリィンリィンは、ほぼ反射的にはっとそちらを見て立ち上がった。そしてその顔、いや、正確にはその人物の出で立ちを目にしてリィンリィンの警戒心は一気に上がった。
(エクソシストですわ……)
リィンリィン、悪魔の最大の天敵であるエクソシスト。リィンリィンは警戒したが、一応今の自分の身なりはまだフードを被っている。特徴である尖った耳も、白い髪も金の目も見えないはず。それにここは暗がりだ。逆に過剰に警戒していると不審ではないかと、リィンリィンは平常を努めつつゆっくりと去ることにした。しかし、
「おい、逃げるこたねえだろ」
エクソシストの男の声に、思わずびくりと肩が跳ねたが、リィンリィンはあくまでシラを切った。
「まさか私だとは思いませんでしたわ。……エクソシストさんが私に何か用ですの」
「お前のことは聞いてる」
悪魔ということがか、あの人間が話したのか。あの人間の少女も回りくどいことをするのだなとリィンリィンは思い、相手の出方を伺った。そして最大限に警戒をし、退路を探し始めたが、相手のまとう空気は予想外に緩かった。
「俺はエクソシストだが、別に敵意の無い悪魔まで祓わねえよ。ましてや仕事外に」
そう言って両手のひらを見せたエクソシストにリィンリィンは冷たい視線を向けた。何を言ってるんだという軽蔑でしかなかった。この酔狂なエクソシストなぞ放って置いて、早くこの場を去れないかと思案していたが、そんな彼女の冷めた意識は次の彼の一言で一気にそちらに向いた。
「アンリに用があったんだろ」
「……」
リィンリィンは真っ直ぐに目の前のエクソシストに向き合った。金の目が覗いた。
「あいつは今ここにはいない」
「どこにいるんですの」
「まず聞きたい。何するつもりなんだ」
質問を質問で返されてしまったが、相手は自分が安全かどうか伺っているのだ。それも当たり前か、リィンリィンは悪魔なのだから。
何の為。用意していたわけでもない、言葉が、彼女の口から零れ出る。
「……あの人のことは、追いかけるだけ。このリィンリィンが、追いかけるだけ。しませんわ。何も。あの人自身には」
一人称が自分の名前になる癖。他人相手に気をつけてはいても、出る時は出てしまう。
リィンリィンの回答に満足したのか、エクソシストは少し表情を緩めて言った。
「あいつは極東ユリーカ、和和ノ国に行った。暫くは戻ってこれない」
東方世界の端にある国和和ノ国。そんな場所に飛ばされたというのかと、リィンリィンはその距離を思うと少し眩暈がした。しかし、そんなのは関係ない。勿論そこへ向かう。
「なあ」
立ち去ろうとしたリィンリィンの背に声が掛かった。振り返ると、エクソシストの彼は一拍置いてから続けた。
「どうか。敵にならないでくれよ」
様々な意味を内包していたであろうその言葉を聞いたリィンリィンは、返事をせずに、一瞥だけすると踵を返してそのまま立ち去った。
――敵?そうですわね。元々人間と悪魔が敵同士で無いとしたら、リィンリィンとあなたが敵になる時はきっと、あなたがあの人の敵になる時。
未来がどうなるかなんて、全くもってリィンリィンには想像がつかない。むしろ想像などしたくない。この想いの、いや、己の行く末がどうなるかなんて、どこへ向かおうとしているかなんて。
ただこれだけは分かる。あの人と傷付け合うだなんて、死んでも嫌だと言うことが。
◆◇◆◇◆
閑話「次回予告と恋の話」
「こんにちは、リィンリィンですわ。あの人の姿をあまり目にしないから心配になって本部まで行ってみたら、案の定左遷されてたんですの。場所は極東ユリーカ。リィンリィンも慌てて行きますわ!次回、「魔術師」絶対見て欲しいんですの!」
「何やってるのリィンリィン?」
「ひえっうわああああぁぁっ」
肩口からひょこりと顔を出した仲間の悪魔であるルニの存在に、リィンリィンは驚きのあまり階段から転げ落ちた。否、ルニが手首を掴んだので落ちることはなかった。
「おっおっ驚かさないで欲しいんですの!」
「通路で暗闇の中壁に向かって独り言言ってたら気になっちゃうと思うんだけどね?」
「予告の声は別録りなんですのよ」
「……何言ってるのやら……」
ルニは諦めて、先程から気になっていたことを口にした。
「で、あの人って誰なの?追いかけるってことは宿敵?」
「ま……ま、まあそんなものですわ」
階段に腰掛けたルニがトントンと地面を叩いたので、リィンリィンはそう言いつつ隣に座った。
「だれだれ?ねえねえー誰なのねえねえー」
「うわしつこい」
ルニとは思わず本音が出てしまう仲である。見た目はさほど変わらないが、中性的(ほぼ少女)な見た目で歳は幼く、彼には毒っ気も無いので安心なのである。人懐っこい態度をよく取るルニは、周りと距離をとっているリィンリィンにもその態度は変わらなかった。
「そういえば。宿敵と言えば、シンシンのエヴィちゃんの脚を折った奴、エクソシストなんだって」
「……へえ」
即座に感じた嫌な予感は大体当たる。
「なんか珍しい色した目の奴だよー。珍しくて目に付いたから覚えてたんだ、若葉色の。リィンリィン知らない?」
「……さあ」
「知ってるよね。そんな感じの返事する時そうだもん」
「……ルニには隠し事できませんわね」
「何でも話すといいよ、僕口は堅い方だしぃ?」
そうしてにこっと、誰もをノックアウトできそうなキュートな笑顔を浮かべた。リィンリィンもその誰もに例外無く含まれていた。
「以前リィンリィンが花の原子固定をお願いしたでしょう?」
「うん」
「あれはとある人間から貰ったものなんですの」
事実とは少々異なるが、リィンリィンの中では記憶を反芻させるうちにそう変化してしまったらしい。
「それがそのエクソシストなんだ」
「ええ」
「えーーやめといた方がいいんじゃないの?」
「ルニまでそんなこと言うんですの……」
「他に何言われたのかは知らないけど……」
ルニはうーんと人差し指を頬に当てて、思い出すように目を閉じた。
「前、街を女の子と歩いてたよ。白髪の」
「あ、あ、悪魔なんですの?!あくっあくまっ」
「リィンリィン落ち着いて、そんな、女より男の影気にする男同士のカップルみたいな」
「一体誰なんですのその悪魔……!」
「うんスルースキル高いのが嬉しいよ。……街中を歩いてたんだから人間なんだよリィンリィン。それに思い出して、髪の白いヴァルド人なんてテトロライアにはいっぱいいるからさ。あっちなみに女の方が率先して引っ張る感じでお店とか回ってたよー」
「ショッピングデート!!その女、あの人を誑かすなんて!」
オーバー気味なリアクションで頭を抱えたリィンリィン。リィンリィンだってしたい!などとくぐもった声が聞こえてくる。その様子を見ながら「うんいつものリィンリィンじゃないみたい。重症だねえ」とルニは冷静に呟いた。
「まあ僕は応援してるからねえ?」
そう言ってにこりと笑い、やがてスンスンと聞こえ始めた彼女の丸い背中をトントンと軽く叩いた。