「こんなことを言うと、驚かれるかもしれないですけど、」
リィンリィンは、目の前の人間の言ったことが一瞬理解できなかった。ひた隠しにしてきたつもりの自分の好意が見抜かれていて、それを指摘されたなんて、そんなことが。
「あなたが僕をこんなに助けてくれるのは、ずっと付いてきてくれるのは、とても嬉しいです。何故だか最初は分からなかった。受け入れきれないことが起きて、自分のことで精一杯だったから、言い忘れていたんです。そのうち、忘れかけていた」
冷たい夜の風が吹き、金の頭髪を揺らす。彼の言葉を、リィンリィンは息を呑んで聞いていた。月の光に照らされた唇が、ゆっくりと動くのを見ていた。
「……不安になったんです。それはあなたが、僕に好意を抱いているからではないですか?」
バレていたのか?いつ?どこで?リィンリィンの頭の中で、様々な想いが嵐のように駆け巡る。
「……でも、僕はその気持ちに応えられません。だから、僕に無理して付いてこなくても、」
「違う、」
アンリの言葉をぴしゃりと遮る。その声は、はっきりとしていた。
「無理してついてきているだなんて、あなたの為だなんて、違いますわ。勘違いしないで欲しいんですの。これはリィンリィン自身の為。その為だけに、あなたと一緒にいる。ただそれだけですわ。言うなれば、利害の一致」
リィンリィンは、そうまっすぐ目を見て言った。
「はは……変なこと言って、ごめんなさい。……良かった……」
優しい人、リィンリィンはそんなことを思った。あなたを傷付けることにならなくて良かったなんて言ったアンリの顔を見ていた。
「それでは、明け方まで。……勝手に入ってごめんなさい」
そう踵を返し、リィンリィンは部屋を出た。
(……嘘はついていませんわ。あなたの喜びは、リィンリィンの喜び)
愛しい者に、己の想いが届くなどある筈がないと最初から分かっている。その上で、認めるなんて惨めなことを、彼女はしなかった。
部屋に残ったアンリはアンリで一人頭を抱えていた。彼はそこまで察しの悪い人間ではない。
そんな彼らを見ていた、目の金色の生き物が建物の外にいることに、彼らは気付かなかった。
◆◇◆◇◆
【果ての鳥達】
小高い丘の上、小さな町を眼下に見下ろし、黒い男は呟く。
「静かな場所だな」
隣で胡座をかいていた、頭からつま先まで白の男が答えた。
「ああ。そうだねクロ。こんなに静かで小さな町じゃ、みんな起き出してきてしまう。ああでも、みんな始末してもいいんだけど」
にやりと笑った白い男に、クロと呼ばれた黒い衣装の男は溜息をついた。月明かりにぬめるその黒、その姿はさながら烏の羽根でも借りたようであった。
「馬鹿げたことを言うな。郊外まで誘き寄せ、町には香草でも焚いて回る」
「ああ、まあ、クロがそうすると言うならそれでいいけど」
「シロ、」
「ああ、不満は無いよ」
犬のような簡素な名前で呼ばれた白い男は、立ち上がると伸びをした。白いスーツに白い帽子、どこまでも白いマントがバサりと風にたなびく。
「で、話を戻そう。ターゲットは一晩ここに滞在するそうだが?捕まえてあの人はどうするつもりなんだろうね。俺は花が咲かれても困るんだけど、そもそももう花は死体になっても咲くことができる頃合いだというのに」
「ああ、問題はそこだな」
「何?」
怪訝な顔をした白い男に、黒い男は顔を向ける。
「ところで、何を企んでいるのかこの前問いただした時、シリス・レヴァーニャが言っていただろう。『またあの人がやってくれた』と。お前はその意味が分かるか」
「いや」
「あの男は一先ずエネミを止めようとしている。シリス・レヴァーニャの野望というものは、世界が破滅してしまっては元も子もないからな。だが、昔情報屋に聞いた。その野望に不可欠で、今奴が必要としているもの、それは奇しくも花自身でもある。花の価値は花にとどまらないということだ」
「何だいそれは。どういう意味だ?」
呆れたように、黒い男は首を横に振った。
「覚えていないのか。……シリスがエネミに文句を言っていたのは、それがあの人のやったことだと思っているからだ。だが、実行したのはお前だ」
「……?」
黒い男は何か言いたげだったが、彼から目を背けた。白いスーツの男は、諦めたようにふっと町を見下ろした。
「考えていても仕方が無い。さあ、行くよ。プランは」
「C」
「だろうね」
やけに合う呼吸で確認を取ると、彼らは闇夜の中動き始めた。
◆◇◆◇◆
誰かが呼んでいる気がする。白い亡霊が、自分の名を呼んでいる。あの日自分の運命を変えた白い亡霊が、口元だけが見える亡霊が、何かを語りかけながら揺れている。よく知るその声は、海の水面に揺らめくように、近付いたり遠のいたりしながら何かを語りかけている。
はっと身を起こすと、誰もいない簡素な宿の一室。開いたままになっていた窓の白いカーテンが、風に吹かれてゆらゆら揺れていた。
静かだ。月が、舗装もされていない道を青白く照らす。あれから眠れずにいたアンリは、ひっそりと窓から抜け出したのだ。
綺麗な月を見ると、思い出すことがある。アンリにとってそれはまだ、未練という心に刺さった棘である。
街の外れ、目線を遠くにやると、人一人いない静かな道を、一本の街灯が照らしていた。それに違和感を覚えた時、その正体に気づく。何かが、街灯の下にいる。
「こんばんは」
頭を下げて挨拶をしたのは、白いスーツの紳士だった。真っ白なシルクハットを目深に被ったその男は、この時間、この場所にはまるで当て嵌まらない出で立ちで、さながら幽霊のようであった。だが、アンリは彼が幽霊ではないと知っている。勿論、先ほど夢に見た人物でもない。
「……シロウ・ジュディ」
「おや」
男は、くいと帽子のつばを上げ、その下の瞳を覗かせる。爛々と輝くは金の瞳。
「俺のことを知っているのかい?」
「……」
彼のことは、ローザに見せてもらった写真で知った。元三番隊隊長であり、死んだことにされているクロウ・ベルガモットと一緒に行動しているという男だ。ベルガモットの姿は見えないが、それより気になるのは彼らの雇い主が誰で、何の為にアンリを探しているかということだが……
「まあいい。俺のことを知っているなら話は早いだろう?俺たちは君を探しに来たんだ。他の脅威から、君を守るために」
ゆっくりとジュディが近付いてくる。
「脅威……?」
「ああ、」
そう言うとジュディは、不意に顔を近づけると、すんすんと鼻をひくつかせてにんまりと笑った。
「近付くと更によく分かる。本当にいい匂いだ。……失礼。悪魔たちは君に惹かれども手出しができないだろうが、本当に怖いのは人間の方だ。君のことを殺そうとしている。何故なら、このままじゃ人間は絶滅してしまうから。――知っているかい?自分の思いを遂げることができればそれでいいと思っている人間や、存在しないものを探させる人間のことを」
じりじりと、ジュディは迫ってくる。アンリが逃げようと思った瞬間、ジュディは彼の右手を掴む。反射的にドロドロと溶けた腕に驚いたジュディは、黒い液体を掴み上げるも、それは指の隙間からボトボトと落ちる。
「ふ、変わった武器だね」
にやりと笑って彼は手に息を吹きかけ残りの水滴を払う。
足を後ろに引いたアンリは、その足が何かにぶつかったのに気付く。何も無かった筈なのに、とそう振り返ると、そこには白い、一平方メートル程度の壁が立っていた。まるで異空間から持ってきたかのような異質さだ。表面はわずかに光を帯びており、闇夜でも視認できる。焦るアンリの様子を見て、ジュディはにやりと笑う。
「俺は壁を作るのが得意でね。高さ、大きさも様々さ。君とお話ししている間に君の周りに作ったのは迷宮。見えない壁も含んでいるから、下手に動くと抜け出せなくなってしまうよ」
背中に伝う汗を冷やす風が吹き、ジュディの白いマントを大きくはためかせた。
「せっかくだから遊んでいこうよ花の子よ。君には言いたいことが沢山あるんだ。丁度、今、思い出したんだ」
月を背負った彼は、逆光で一層光る両眼を見開いた。
「逃げないでおくれよ?君の同伴者の寝込みを襲わなくてはいけなくなる」
その姿はまるで夜の捕食者。指一本迂闊に動かせなくなったアンリは、その爛々と輝く不気味な金を、じっと見つめていた。
「君は考えたことがあるかい?かつての君の状態、記憶喪失とは、正確には何を指すか」
突然のジュディの問いかけに些か動揺したアンリ。確かにアンリは、ある時期からの記憶が無かった。ただそれももう、殆どと言っていいほど取り戻している。今更それが何だと言うのだろうか。ジュディはどこまで知っているのであろうか。思考を巡らせるアンリの様子を、ジュディは楽しんでいるように見えた。
「かつての君は実に外界に対して無関心だった。時にそれは自分自身にさえ。……そんな自分の無関心を、記憶をなくしていたせいだと思っているようだが、本当にそうなのだろうか?記憶を無くしたからと言って、感情まで無くすわけがないだろう」
当たり前のことだ。変な汗がアンリの首筋を伝う。
「では何なのか。その答えを差し上げよう」
勿体付けたジュディは、両手を大きく開き天を仰いだ。まるでペテンの聖職者のような、大げさで流暢な語りが、夜にこだまする。
「これは母なる愛。依代となる人間だけに与えられた、母の愛。やがては死にゆき、滅びゆく人間。そして依代だけに、その無情と絶望を与えない為のマザーの最大の愛なのだ。失うものが無ければ、何も痛みは無い」
次第に彼の口調は強くなっていく。
「なのに君はそれを知らず知らずの内に破ってしまった。君は本当に罪深い。唯一の母の愛を受けることのできた人間。選んだ身であるが、実に羨ましい限りであったというのに!」
「羨ましい……?」
アンリは眉を顰める。
「お前か、僕に呪いをかけたのは」
「そう。俺が、君を選んであげたというのに。勿体の無いことを――」
刹那、迸る黒がジュディの眼前で弾ける。彼は瞬時に透明な壁を作っていたのだ。垂れた黒の隙間からは、黄緑の蛍光輝く狂気が、息を切らして腕を伸ばしていた。飛び散った飛沫を一滴も受けずに、ジュディは不敵に笑った。
「恩知らずな奴だ。自分の幸福さに、何も気付いちゃいない」
「幸福?これが?」
アンリの背後の闇がさらに深くなった気がした。昇華した黒い気体が、彼の体にまとわりつく。一歩、そして一歩と、彼はゆっくりとジュディに近付いていく。
「人を何だと思ってる。命を、人生を、こんな、」
行き場の無かった悲しみが、怒りが、今現れた明確な元凶を目の前に、確かに形を成す。
「だから言ったんだ。愛に気付かず、あまつさえ無下にした君が悪いと」
呼吸が深い。揺らめく黒は一層暗く、今にも爆発しそうだった。
ジュディはというと、策でもあるのか常に余裕のある表情で、彼の進路を止めやしない。ジュディの指から伸びる銀糸がキラリと光った。しかしその瞬間、上から何かが降ってきて、アンリの上に覆い被さる。一瞬にして空を仰いだアンリは自分の身に何が起こったのか分からなかったが、それが、リィンリィンが何かから守ってくれたのだと知る。
「リィンリィンさ――」
「失礼」
その姿に、ジュディは露骨に嫌な顔をした。
「チッ……君か」
起き上がったリィンリィンの右手には、切断された糸と針が握られていた。彼女はそれを投げ捨てる。
「随分と優しいトラップですわね。舐めて手を抜いているんですの?」
「そんなつもりはないんだけどな。酷いことを言うよ。彼を殺したら怒る人がいるんだ」
「へえ……」
二人の間に沈黙が流れた。それを破ったのはジュディだった。
「リィンリィン、どいてくれないかな。俺は彼を連れて帰りたいだけさ。かつて仲間だった君と、無駄に交戦したくはない」
「……リィンリィンさん、構いませんよ」
立ち上がり、彼女の前に出ようとしたアンリは、リィンリィンの目には正気には見えなかった。彼女は彼を制す。
「だめ、」
「僕に、やらせてくださいよ、収まらない」
「あなたと彼の術は、相性が悪いんですの。冷静になって、」
彼女の声に、ぴくりと止まったアンリは、ゆっくりとリィンリィンの顔を見た。
「……どうして、僕のことを守ろうとするんですか」
「……っ。どうして、なんて、」
リィンリィンにとって、その理由はたった一つ。けれど、それを正直に言うわけにはいかないようだ。
「……あなたが、花だからですわ。花に何かあっては、困りますの。彼に連れて行かれて、殺されでもしたら大変ですわ」
リィンリィンがそう言ったあと、アンリの体は見えない力で壁の向こうに追いやられた。まるで足首を掴まれたような感覚。
「大人しく護られていて」
「何を、」
「ジュディ!」
アンリの言葉など聞かず、彼女は声を張り上げる。対峙したジュディをキッと睨みつけた。
「お前が彼を連れて行くつもりなら、このリィンリィンを倒してからにするんですわ!」
「全く……頭に血が上った者ばかりだ」
呆れ顔のジュディだったが、彼は乗り気のようだ。顔に僅かな笑みを浮かべ、杖を構える。一方リィンリィンも臨戦対戦に。風が吹いた訳でもないのに、結わずに下ろされた彼女の白い髪が、ぞわりと逆立ち彼女の白いスカートも揺れる。月明かりでできた、足元の僅かな影が、みるみると後ろに伸びて、それは地面から盛り上がり、質量を持ったように見え、次第に翼のようなものを形作る。姿を見せたのは、影でできた有翼の獣。
「ふふ……小さなメンフクロウが、俺に敵うのか?」
「……さあ」
彼女が片手をゆっくりと広げると、背後の獣も翼を広げる。その指先が勢いよく天を指した時、彼女の背後から黒いナイフのような無数の羽が現れジュディに飛んでいく。
「ふん、君は俺の能力を忘れているのか?」
涼しい顔のジュディは、杖を振り前面に青く透けた壁を作る。そこに刺さった羽は向きを変え、一斉にリィンリィンの元へと降り注ぐ。彼の持つ能力、青い壁は、矢や銃弾を勢いそのまま跳ね返すことのできる技。大きさや硬度など様々な制限があるものの、概ねその通りである。
「呆気のないものだ」
しかしそこにはリィンリィンはいない。勢いよく地面に突き立つ羽々、上空には構えを取ったリィンリィン。
「慢心、」
驚いたジュディの顔に、彼女の踵が振り下ろされる。
「どちらが?」
「!」
そのことを予想していたジュディは瞬時に彼女の足首を掴むと、勢いよく地面に叩きつけた。影の獣を呼び寄せ翼の上に着地する形で受け身を取ったものの、彼女は四方を壁に挟まれ身動きが取れなくなった。
「女性にはあまり手荒な真似はしたくないんだが」
「よく、見抜きましたわね……」
「先ほど、君は彼に俺の能力と彼の攻撃は相性が悪いと言ったね。それはどちらの能力についても把握しているからこそ言えることだ。なんとなく、君が利用してくることは分かったよ」
「……」
ゆっくりと近付いてくるジュディ。
彼女の前で止まった彼は、にやりと笑って杖を掲げる。
「しょうがないだろう?」
リィンリィンは、びくりと跳ねて目を瞑った。
「君が、邪魔するからさ――ッ!」
振り下ろし、火花を散らしたのは、彼の杖と黒い剣、ティテラニヴァーチェ。背後から迫っていたアンリに気付き、瞬時に攻撃する対象を変えたのだ。右、左と迫る剣を流れるような杖さばきでいなし、彼はアンリを追撃するように、移動先に壁を出現させていく。それに翻弄されながらも、何とか避けていくアンリ。次第に追い詰められていることを知ってか知らずか。
「あの迷宮をよく抜け出したものだ」
「僕の武器が液体であることを知らないようです」
液体を壁に伝わせることで、出口を迅速に見つけることができたのだ。
「それは失礼!」
彼ばかりに気を取られていたジュディが、ふと背後に気配を感じて振り返った時、その頬に回し蹴りが叩き込まれる。
「うっ」
白い帽子が脱げ、彼の身体はふらつくも、足を踏み出しギリギリで二本足で立つ。
「あなたの、同時に出せる壁の数は限られているようですわね」
「……ご名答ッ!」
右から迫ってきた剣を杖で防ぎ、左から頭部を狙ってきた影の獣の翼を、腕で防ぐ。しかし彼の腕は、震え余裕が無いことが分かる。
「コンボ技か?仲良しなことだ。ただ、二人でかかっても俺には敵わないんだよ」
ニヤリと笑ったジュディ。怪訝な顔をしたリィンリィンと対照的に、何かに気付いたアンリは「危ない!」と叫ぶ。それに反応してリィンリィンが真後ろに避けたその瞬間、銀の光線が彼女の鼻先を掠める。近くの木に着弾したそれは弾け、針のような物が四散する。ジュディは壁を作ることで身を守り、アンリとリィンリィンはそれに気付き避ける。
「一人ずつ来い!近付くと怪我するぞ?」
ジュディの声色は嬉しそうに跳ねていた。そのままアンリと一体一で戦いはじめた。
しかし、一番近くにいて反応が間に合わなかったリィンリィンは、脚にそれを一撃被弾していた。擦り傷程度であると言わんばかりに痛がる様子は見せず、リィンリィンは金の瞳を光らせる。一発、二発と無言でまた銃弾が地面に向けて飛んでくる。まるで、リィンリィンをアンリに近付けさせまいと言ったように。
ジュディと闘うアンリは気付き始めていた。ジュディは何かを仕掛けては来ない。アンリの攻撃を受け流し続ける。まるでアンリが勝手に疲れるのを待っているかのようだ。彼の大技八方羂索は、ジュディには逆効果であり、彼に他に為す術は無かった。
「まだ怒っているのか?」
「僕はあなたを許せない」
「許されなくて結構。君に何を言われようが痛くも痒くもないね」
「……っ!」
容赦なく喉笛に向かって飛んだ切っ先を、ジュディは身を反らし華麗に避けるとそのままバク転して顎を蹴り上げる。体勢を戻すと、杖をくるりと回し、柄でアンリの首筋を叩く。
「寧ろ俺が腹立たしいよ。幸せにしてあげたのに、その言い草は無いだろう?」
どさりと倒れ込んだアンリの後頭部を踏みつける。ジュディは杖を小脇に挟むと両手をはたいた。
「いやあいいね。怒らせると動きが単調になるし実に隙だらけだ」
しかしアンリの腕の黒は伸び、ジュディの頬に傷を作る。アンリの意識はまだそこにあったのだ。だがジュディは瞬時に避け、立ち上がりかけたアンリの脇腹を強く蹴りつける。先の戦闘でまだ塞ぎきっていなかった傷口が開き、血と共に彼は悲痛な叫び声をあげた。
「怪我してたのか。もっと手加減してやらないといけないねえ」
息を切らし、脇腹を押さえたアンリが剣を向ける。
「そんな必要、無い」
「へえ?」
その瞬間、アンリは足を踏み出せずに前に倒れた。体が痺れて思うように動かない。息を切らす彼を見下ろしたジュディは、杖の柄、丁度アンリの首筋に当てた部分を撫でる。僅かに見える段差から、どうやら何か仕込むことができる機構があると推測される。
「いつ何をしたんだ、だってか?だから言ったろ?怒ると隙だらけだって」
「あ……う……」
「暫し土でも噛んで待っていてくれ。砂よりは味があるだろ?彼女を片付けたら回収してあげよう」
そう言い残し振り返ったジュディの目が捉えたのは、背後に影の獣を控え、静かなる怒りの炎を燻らせるリィンリィンであった。
「邪魔なトラップと壁だったかい?残念ながら俺の壁は俺にしか壊せないんだ」
彼が手で触れると透明な壁は消え、その手は宙を切る。
「君はどうして戦うのかい?彼が最初に言った通り、君が彼を俺らに譲れば、彼は痛い目を見なくて済んだんだ。君もだ。これから無駄死にをすることになる」
リィンリィンは舌打ちをした。
「無駄死に?笑わせないで欲しいんですわ。リィンリィンが、お前を倒せばそれでいい」
「だがどうするつもりだ。俺の壁の全てが目に見えるものではないと分かっている以上、無闇に君は動くことさえできないんだよ。それからもう分かるだろう、この実力差。俺はただの人間でも、悪魔でもないんだ」
「そう、かしら」
その時、ぞわりと毛が逆立つような感覚と共に、リィンリィンの影の獣が変化する。その時どこからか湧いて出てきたのは、貧相な足、そして口鼻の見受けられない、大きな二つの金の瞳だけを持った丸い体。それは影に近付くと、まるで沼に足を踏み入れたように、沈んでいき影と同化する。森から無数に現れたそれは、段々と影と一体になり、大きくなっていく。
リィンリィンがこの能力を見せたことはほとんど無かった。ましてやジュディが見たことなどあるはずがない。
立ったままだったリィンリィンが、口を開いた。
「夜のダンスホールに誘いましょう。会場はここ。奏でるは今夜だけの、輪舞曲を」
彼女が両腕を広げると、影は一気に迸り、まるで夜のカーテンのように町全体を覆う。天蓋を掛けたように月まで見えなくなった時、一気に無数の金が、天蓋に姿を見せる。それはまるで夜空に輝く星のように。それと同時に、ここが夜の樹海になっていることを知る。金の光る闇。見えない月が、ぼんやりと青白く、遠くの木々の輪郭を写し出す。
「見たことないねえ。気味が悪い」
そうジュディがぼやいた時、彼の首は吹き飛びかける。
「――ッ!!」
闇の中に動く闇は、まるで鎌鼬のように姿を現さない。鋭く速いそれを、ジュディは既のところで避けるも首筋からはボタボタと血が滴る。
音を聴いているのだと、ジュディは直感的に気付いた。視覚情報の無いこの暗闇は向こうも同じではないのか。だが声を殺しても、体を一つも動かさなくても、息を止めても、この鼓動は鳴り止まない。耳を澄ませても、リィンリィンの音はジュディには聞こえない。代わりに聞こえるのは、遠くで響く、弦楽器の音。この音が邪魔をして、肝心の聴きたい音が聴こえない。血にぬめる首筋を押さえながら、彼は立場が逆転したのだと悟る。しかし第二波、今度は彼の左腕を吹き飛ばす。
(壁は?)
崩れるバランス、沸き立つ焦燥。右手を前方に伸ばす。出したという感覚はあるが、本当に出せているか確信が無い。本来白く発光するはずなのに何も見えないからだ。遠くの森は見えるのに、足元は全く見えない。まるで嫌な幻覚でも見ているかのような。
「そう、これは幻覚だ!」
ジュディが叫んだ時、彼の視界は急激に回復する。背後から迫った彼女がジュディの心臓を狙って背後から急接近した瞬間、待っていたとばかりに振り向き右手に持った左手を盾にすると、一気に重心をずらし、致命傷を避けた。それでも彼の右太ももから血が噴き出す。しかし彼はそれを全くもろともしない様子で彼女を蹴りつける。リィンリィンは吹き飛ばされ地に転がった。羽に覆われたような黒と白のドレスを着たリィンリィン。瞬時に起き上がると、金の眼光を鋭く光らせ、彼の背後の暗幕から伸ばした無数の刃を突き立て今にもジュディに噛み付かんとする勢いだったが、彼女はその刃を既のところで止めざるを得なくなる。
「はは、俺から左腕を奪ったことは誉めてやろう。君の力は素晴らしい。しかし君には弱点がある」
リィンリィンの目の前、うつ伏せに倒れたままのアンリの上にのしかかったジュディが、足で押さえた杖の柄に顎を乗せさせ、右手で彼の頭を掴んでいた。首筋や腕や太腿という常人なら致命傷になりかねない怪我を負い、血を滴らせながらも笑っているその姿はまさに化け物のようであった。ある男の造った、人間でも悪魔でもない生き物。
「片腕でもできることはたくさんある。例えばこの目を抉ることとかな。この体と意識があればいいんだ。あとはどんな姿でも」
そう言いジュディは、顔を上げさせ瞼を親指でなぞる様子をわざわざリィンリィンに見せつけ、彼女の怒りを誘う。
「なあリィンリィン。君は間違っているよ」
「リ、」
「うるさいよ」
何か言いかけたアンリの口を塞ぎ黙らせたジュディ。
「君のダンスホールでは、誘われた者の視覚を奪い、かつ特殊な能力を奪うらしい。俺の壁も作ることが出来なかった。だけど残念だったね」
ジュディはにやりと笑う。
「君がこれ以上動けば、向こうの俺の仲間に、君は後ろから心臓を撃たれる。君が諦めて彼を大人しく引き渡せば、君を許してあげよう」
「そんな手に、乗るわけが」
「リィンリィンさん、やめて、ください」
「っ!」
麻痺から回復し始めたアンリが、苦しそうに紡いだ言葉にリィンリィンは歯を食いしばる。
「僕のことを、置いて、逃げてください。あなたは、巻き込まれるべき人では、ない」
「違う!」
リィンリィンは叫んだ。その声は僅かに泣き声を含んで震えていた。
「関係無くない!あなたを置いていくなんてできませんわ!もう、後悔したくない。もう、嘘はつきたくない。もう、泣いたりなんかしたくない!」
だがジュディは容赦が無かった。
「それは、この目を抉っても良いということ?それとも耳がいい?」
苦しそうな悲鳴が闇のホールに響く。リィンリィンは迷わず、迫っていた影の刃をジュディの背中に突き立てた。同時に、彼女の背後から無慈悲な銃声が響いた。
真っ赤な鮮血が、胸の中心を派手に彩り、それは宙に踊る。