30話「思い出」





 教団本部、その一角にある地下の資料室で、昔起きたとある事件について調べている者がいた。
 過去の事件や任務などが一つ一つまとめられ収納された棚が整然と並ぶここは、膨大な情報で溢れかえっている。そんな中から目当ての資料を探すのは一苦労であろうが、幸い年と日付がはっきりと分かっている為探すのはそこまで大変ではなかった。
 彼女は、人のいない奥の机でファイルを開いて見ていた。古い新聞の記事やレポートやメモなどがファイリングされているが、新聞は今はもう無い小さな新聞社のものである上大変記事が小さく、しかも曖昧なことが書かれていた。一方、レポートには彼女の全く知りえなかった情報がいくつも書かれていた。同時に理解ができないことも書かれていた。飛び出したワードをいくつかメモを取る。
 彼女は最後までレポートを読み切ると、震える手を押さえ、深くため息をついた。

◆◇◆◇◆
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 汽笛が鳴る。ゆっくり止まった列車から、人々が降りていく。様々な人のごった返す、蒸気で煤汚れた構内。その地面に降り立ったアンリとアーサー。

「帰ってきましたね、テトロライア」
「ああ」

 本部のあるヴァルニアまであと少し。

 メルデヴィナ教団の本部、その久々の空気にアンリは少し緊張していた。理由は様々ある。憶測と噂話でしかないが、本部がなにやら不穏なものを漂わせているからであるとか、純粋に久々に本部の人たちに会うからであるからだとか。アーサーはいつもの調子だったが、他の人達が変わってしまっていたら?そういう自分はアーサーいわく少し変わったように見えるらしいが。だからこそである。

 敷地内に入る為の申請をしていると、建物の方から歩いてきた人影が急に走って来たことにアンリは気が付いた。身構えるが、それはかつての本部三番隊副隊長、サクヤ・ロヴェルソンだった。
「あ、サクヤさ――……!」
 サクヤは彼を見るなり抱きしめた。驚いたのはアンリだけではない。隣で警備員と話していたアーサーも、目と口をぽかんと開けてサクヤを見ていた。
「あ、あの、サクヤさん?」
 サクヤはああ、と言って一度離れた。が、肩を掴んだ手は離さなかった。彼女の黒い瞳は不安げな光を湛え潤んでいる。彼女は一気にまくし立てた。
「大丈夫だったか?あの狐に何か変なことされなかったか?ちゃんとご飯食べてたか?」
「あ、えっと――」
「狐だけじゃない、隣の豹もだ、はっ、ああ怪我をしているじゃないか……」
「サクヤさん?あんまり質問攻めにするとこいつも困惑しちゃ――」
「私は心配だった!あんな言われ方人質みたいなものだ、こんな子供がどんな目に遭っているのかと思うと気が気じゃなかったぞ!ああ、でもよかった。ちゃんと四肢が揃っている」
「そりゃ……」
「サクヤさん何想像してたんすか」

 サクヤさんの思っているほど僕は子供じゃないのになとか、そこまで言うとあの人たちに失礼ですよとか、色々と言葉が浮かんだけれど、それよりアンリには思うことがあった。サクヤに抱擁されながら、母親がいたらこんな感じ何だろうかとぼんやりと考えた。

 半泣きになりながらだがサクヤは心底安心したようだ。ふうと息をついてから、隣を見る。
「ああ、アーサーもおかえり」
「雑!」
「雑とかそういう問題じゃないぞ、だってお前はしっかりしてるの分かってるからな。何年の付き合いだと思ってる」
「嬉しいですけどまるでアンリがしっかりしてないみたいな」
「危なかっかしいから」
 そう即答したサクヤ。だがアンリを見て、でも……と続ける。
「……でも、男らしくなったな」
「……はい」
 彼女の笑顔は柔らかかった。

 少し話をした後、外に出るつもりだったサクヤはそのまま出掛けていった。その背を見ながらアンリがぼんやりと言う。
「あの人、あんな感じでしたっけ」
 アンリの問いにアーサーは頭を捻る。
「あー……?こんな感じだったようなそうじゃなかったような。ああ、でも確か、最近サクヤさんに猛烈なアプローチをかけてる奴がいてな、あいつに似てきたのかもしれねえ」
 アンリの頭に泣き虫な眼鏡の文官が浮かんだ。レイン・セヴェンリーという男。涙脆くて、心配性で、優しい。ストーカー紛いの行動ばかりしていた彼は、それをやめたのか、まあ後で彼と仲のいい、アンリとルームメイトのフレッドにでも聞こうと思った。

◆◇◆◇◆

 仕事が終わり、資料室と図書室に寄ってからは暇そうに建物内を彷徨いていた少女の名はアルモニカ。栗色の長い髪を後頭部の高い位置で結い、だがポニーテールではなくお団子に、そしてその下から余った長い髪を揺らしていた。
 彼女が図書室に用があったのは、(まあそれだけの理由ではないのだが、)勉強するための本を漁っていたからだ。彼女、実は資格を取ろうとしていた。特定の知識と技量を持った教団員に与えられる資格、彼女は共鳴士と薬学術士の資格を取るつもりだった。似た力を持ったかつてのローセッタと同じく、また四番隊のグレイヤーと同じく。
 ふと、エントランスから聞き馴染みのある声が聞こえて、二階からそちらを見ると、親しい仲間の顔があった。少し遠くまで仕事で出ていたのだ。アルモニカは手すりに手を掛け大きく手を振る。
「アーサーじゃない、おかえり!」
 彼女に気付いたアーサーは、手を振り返す。その時、ひょっこりと彼の後ろから現れた影に、アルモニカははっとする。驚きと嬉しさで、心が浮ついた。
「あれは、アンリ……?待ってて、すぐ行くから!」
 そう言い彼女は手に持っていた本をほっぽり出し走り、二階から一階まで一気に階段を駆け降りていく。
「おかえり、久しぶり、アンリ!……!」
「ただいま、アルさん久しぶりです。元気でしたか?……?」
 アルモニカは笑顔で近づいて行ったのだが、ふと立ち止まる。彼女は怪訝な顔をしたアンリの横に立ち、アーサーを見る。未だ不思議そうな顔をしたアンリとは対照的にアーサーは察したようだった。
「やっぱりアンリ背伸びてるよ、良かったなあ、アルと似たような感じだったのにな」
 頑なにアンリの背の高さを自分より低いと言っていたアルモニカだが、(実際は若干アンリの方が高かった。本部を出る前には既に差は開き始めていたのだが案外分からなかったようだ。)今並んでみると二人の身長の差は7センチほどになっていた。機嫌よく笑ったアーサーに対しアルモニカは複雑な表情をして、虚空を見つめたまま呟いた。
「こんなのおかしいよ……」
「いやおかしくないですからね」
「おかしいよーーっ」
「アルさん!?」
 駆け出したアルモニカ。しかしすぐに、山のような書類を抱え前が見えなくなっていた眼鏡の教団員と派手にぶつかり転ぶ。書類が大きな音を立てて散らばった。派手な音に辺りにいた人々は何事かと見たが、書類をぶちまけたのがシャルロットだとわかると業務に戻っていく。アンリとアーサーは駆け寄った。
「大丈夫ですか」
 手を伸ばしたアンリの手を取り立ち上がる。
「うん」
「なんか前も書類ぶちまけてなかった?シャルロット」
「もう数えてられないですうう」
「シャルロットごめんね……」
「いいんですよアルモニカ……、あ、あとお久しぶりですクリューゼルさん……いきなりこんな見苦しい姿を見せて申し訳ないですう……」
 シャルロット・ラグランジェ。かけ直した眼鏡の奥で涙目な彼女はぐすぐす言いながら書類をかき集め始める。三人も手伝った。あらかた片付けシャルロットを見送った後、アルモニカがああと思い出す。
「私本をその辺に置きっぱなしだったわ」
「あ、俺らも用があるから、また後でな」
「じゃあ後で」
 そう言いアルモニカは立ち去った。アンリは不思議そうにアーサーに聞いた。
「用って何かありました?」
「ああ、えーと、うん」
 アーサーは言葉を濁らせる。
「お前に会いたいってやつがいるんだ」

 誰だろう、そう思いながらアーサーの後をついていく。会いたい人?全く予想がつかない。
 本部の中庭を抜けた所に、併設された小さな孤児院がある。このことはアンリも知っていた。何故なら……

「お、お兄さーーん!!アンリお兄さん!!」
「トーレ!少し大きくなっぐふっ」
 アンリをお兄さんと、親友と呼ぶトーレ・セルディスがここで暮らしていたからだ。
 彼女は武器ローセッタレンズの適合者として、その有用性の高さからこの幼さにして教団で仕事をするトーレ。上の管轄で司令塔に縛り付けられそうになっていたのを元三番隊隊長であったベルガモットが進言し引き止めたのだ。こうして教団内で、武器の適合者の可能性のある子供やそれ関連で事情のある子供を匿う孤児院で暮らすことになっていた。とは言えトーレは既に完全に戦力であるが。
 トーレのタックルを受け止め後ろに仰向けに倒れる。再会する度こうやって天井を仰ぐアンリ。起き上がった時、はしゃぐトーレの後ろから、知らない顔が覗いているのが見えた。孤児院の子供の一人だ。その子はただアンリの顔をじっと見ていた。
「?」
 だがどこか引っかかる。頭の中で思いを巡らせているアンリだが、その子はすたすたとアンリに近付くと、紙切れを押し付けてそそくさと去っていった。見ると、[果し状]と書かれている。
「????」
「お兄さん何貰ったの?」
 アンリの手元を覗き込んだトーレが無邪気に問う。
「果し状、ってどういう意味?」
 傍から見ていたアーサーが答える。
「殺し合いだよ」
「えっ!?」
 そんなのだめだよ!と叫んだトーレが、少女を追って駆けていった。その背を見ながら、アンリが呟く。
「えっと、そう言えば、僕に会いたい人って言うのは……?」
 アーサーは苦笑いで答えた。
「あー、その、果し状の……」
 驚いて紙切れを再度見るアンリ、どうやら封筒のようで中に何か入っている。中を確認し始めたアンリにアーサーは続けた。
「ああ、あいつはテンって言うんだ。お前が向こうに行ったすぐくらいに来た。ここに来た時もお前のことを探してると言ってたんだが、理由は教えて貰えなくてな。お前、あいつに何か恨み買うようなことしたのか?」
 テン。見覚えがあるような気がしたが、名前を聞くとやっぱり知らない人だ。
「いいえ知らない人です。……っと、これは……」
 中には短い文が書かれた紙が入っていた。「[三日後、一人で中庭に来い。仲間は連れてくるな、絶対にだ。]だそうです」
 真意を確認すべく思わずアーサーの顔を見たアンリ。しかしアーサーは首を振った。
「あいつはそんな無茶苦茶なことするような奴じゃねえから、まさか本当に血を見ることにはならんだろうよ。見た目よりずっと大人だし。まあもしかしたら殴られて鼻血ぐらい出すかもしれんが」
「だから僕知りませんから……」

 帰還直後、早速アンリは問題を一つ抱えることとなった。

◆◇◆◇◆

 翌日、アンリは非番であった。東部にいた頃から彼には何か思うことがあって、朝から出かけていった。
 しかし偶然、彼が私服で出ていくのを見ていた者がいた。

 王都テトロライア、アンリがその露店で花と菓子を買っているのを、その人物は見ていた。その人物こそアルモニカだった。彼女も今日は特筆すべき仕事は無く、資格の勉強くらいしておこうかと思っていたのだが、アンリが出ていくのを見て思わず尾行してしまったのである。これじゃストーカーみたいだと、彼女は自己嫌悪に陥った。
 姿を見逃さないように目で追いながら、少し動いた時運悪く誰かにぶつかってしまう。「ごめんなさい」と反射的に謝ったのだが、相手は腕時計が壊れただの言った。相手は感情的にアルモニカに強く怒っている。半泣きのアルモニカがどうするべきなのかと迷っている間も、男は依然として強気で金を要求してきた。払えない訳じゃないけど、と、鞄に手をかけた時、「ちょっと、」と第三者が割って入った。
「どうしたんですか?あれ?あなた、ついこの間も高い時計が割れたと騒いでましたね。今回はどうしたんですか?」
「あ、いや、えっと……」
 彼はアンリだった。はっきりした少し大きめの声。当たり屋の男は、第三者に明確に指摘されたことと、集まってきた人々と周囲の訝しげな目にすっかり動揺してしまった。その隙に、アンリはアルモニカの手を取って、人を避けながら足早にその場を立ち去った。

「えっと、ありがとう」
 あれから少し離れた場所、息を整えてからアルモニカは言った。アンリは首を横に振り、「偶然居合わせてよかった」と言った。
「この間って、いつ?」
「そんなの嘘に決まってますよ。あの人は当たり屋なんですから、時を変え場所を変え心当たりなんていっぱいあります」
 もしそうじゃなかったらどうするつもりだったのかとアルモニカは一瞬思ったが、過ぎたことには言及しないでおこうと口を閉じた。
「ところで、アルさん何してたんですか?」
「あっ!?あの、その、……いや!大した用事じゃ無いんだけど!」
 まさかあなたのことをストーキングしていましたとは言えない。アルモニカは目を泳がせ手をぱたぱたと振り回していたが、「そういえば」と強引に話題を逸らす。
「アンリは何してたの?その……花束なんか買って」
 アンリの右手に持たれたままの花束。彼は、ああと笑った。
「いえ少し、恩師に会いに。これはあの方の好きな花なので」
 全くの予想外だった。アルモニカの邪推とは全く違う理由に彼女は拍子抜けした。同時に、気が付けば彼女自身意外な言葉が口から飛び出ていた。
「私も行っていい?」
 アンリは驚いたようだったが、少しの間の後、いいですよと快諾した。

◆◇◆◇◆

 テトロライアからは、東行だけでなく更に西に行く路線が幾つかある。その一つの列車にしばらく乗った所にアンリの目的地はあった。

 アルモニカには、恩師に会いに行くとしか言ってなかったが、実はその人物とは彼の名付け親のようなものであった。

「昔、僕の記憶が始まったのは、とある修道院の中でした」
 列車の中でアンリはアルモニカに語った。

 小さな漁村、ある朝、漁師が設置していた網を引き揚げに海岸にやってきた時、波打ち際に打ち上げられている子供を見つけた。大変驚いたがまだ息はあるよう、だが、様子がおかしいことに気付き、教会に来ていたシスターに相談をしに行った所、彼女が面倒を見ることになった。

 村から少し離れた場所にある修道院。昔と比べてかなり廃れて人がいなくなり、今はもう彼女くらいしか住んでいなかった。本来俗世から離れて神に尽くすはずの修道女だが、彼女はそれを破ってしまっていた。
 海岸で拾われた子供はまだ幼い少年だった。しかし様子がおかしいというのは、その半身が呪われていたことにあった。特に胸から左目の損傷が激しかった。
 少年はそれから数日経った頃に目覚めた。シスターは喜んでこう言った。
「目覚めてよかった、アンリ。分からない?あなた、アンリ・クリューゼルと言うのよ」
 少年は記憶が無く自分のことすら覚えていなかったが、シスターは彼の名を知っていた。

「呪い?」
 怪訝な顔をしたアルモニカ。アンリはこくりと頷いた。
「ああ、でもあの後ローセッタさんに解いてもらったので大丈夫ですよ。……それより、今の話の中でどうしてシスターが僕の名を知っていたのか気になりませんか?」
 確かに。アルモニカは思った。でも正直そんなことより彼がどうしてそんな状態で倒れていたのか気になったが、今は黙っておいた。
「だから尋ねに行くのね」
 アンリは頷き、そして少し寂しそうに呟いた。
「それと、先生のことも少し分かったらなって思ってます。仲良さそうでしたし、何か知ってるかも」
「そう」

 実際は、彼は自分の知らないことをただ知りたがっていた。幻のミクスが自分を責め立てたように、自分が犯した罪を責め、またどこかでは信じられないでいた。曖昧な記憶が、調べることで得た事実と繋がることを期待して。心の底では気のせいだったと思いたくて。

 草原を走る列車。車窓から見える緑はやがて海の青に変わっていった。

◆◇◆◇◆

 列車を降り、そこそこの距離を歩いていくと、小さな村に辿りついた。
 港の近い、畑も多く目立つこの村。しかし村にたどり着く前に、存在感の大きい建物があった。それは、すっかり廃墟となった修道院だった。それを見て立ち尽くしていたアンリと彼の心情を測りかねていたアルモニカだったが、傍を通りすがった漁師が、二人を村へ、そして奥の小さな教会へと案内した。

 中を覗くと、一人の人物が背を向けて立っていた。その人物は二人に気付くと、振り返った。若いシスターのようだった。
「お困りですか、旅人よ」
 アルモニカはアンリの顔を見た。アンリは頷いて言う。
「あそこの修道院にいた、とあるシスターに会いに来たんです」
 彼の言葉を聞いた彼女は驚いた表情を見せたが、アンリの手の花束を見て理解したように頷いた。
「おばあちゃんのことですね」
 そう言い教会の裏に案内した。

 教会の裏。青い花が沢山咲いていた。アンリの持ってきた花束と同じ花である。そこに佇むのは、彼の言う恩師だったものだった。今や、無機質な石。
 小さな墓の前、花を置いたアンリは、じっと立ったままだった。アルモニカは少し後ろからその背を見ていた。

 いつの間にかいなくなっていた若いシスターが戻ってきた。手には何かを持っている。
「おばあちゃんが言ってました。昔、変わった運命の子を助けたのよって。それからずっと渡し忘れたままだった物のことも」
 差し出したのは、布に包まれた何か。それをはらりと開くと、長方形のネームプレートのようだった。
「やはり、これはあなたのでしょう?」
 刻まれた名前は紛れもなく彼のもの。アンリは頷いた。手に取って見ると、硬いプレートに名が刻まれている。
「あなたが持っていたそうです。ポケットにでも入ってたんでしょうか……」
 あの時のシスターがアンリの名を呼んだのは、知っていたからではない。見て知っただけなのだ。その印に、刻まれた綴りを普通に読むとアンリ・クリューゼルにはならないが、この地方の訛りではそう読むことを思い出した。頭のアッシュを読まないのだ。
 ここで一つの疑問が生まれる。『これは誰の名前だ?』と。少なくとも彼がこの名を知ったのは、シスターにそう呼ばれてからだ。それ以前は明確な名前など、ルクスという愛称しか無かった。……今自分が使い、そう呼ばれるこの名前は、自分自身のものではないかもしれない。様々な疑問と不安がぐるぐると頭を支配する。
「アンリ……?」
 はっとして隣を見る。その声はアルモニカだった。心配そうに表情を窺っている。酷い顔色だったんだろう。暗い思考が止まった。
「大丈夫ですよ」
「……ならいいけど」
 そう。大丈夫。ありがとうと心の中で言った。今日アルモニカがいて良かった。

「ところで、ホリー氏はお元気ですか?一緒にいないようですけど」
 シスターの出した突然の名に、アンリは驚いた。アルモニカは誰だろうといった顔をしている。
「せんせ、……あの人はどこにいるか分からないんです。あなたの祖母とは縁があったようなので、知っていると思ってたんですが……」
 若いシスターは首を横に振った。アンリは少し残念そうに、そうですかと返した。しかしその様子を見て必死に記憶を辿っていた彼女は、ああでも、と何かを思い出したようだ。
「紅い目の鷹」
 疑問符を浮かべたアンリに、彼女は続けた。
「言ってました。晩年、病床で。……紅い目の鷹には気をつけろと。関係無いようですけど、あの人の話をしている時に言ってたので、もしかしたら何か関係あるのかなって」

 なにか収穫があったような無かったような。それでも、ここに来たのは意味があったとアンリは思った。

◆◇◆◇◆

「私、今日一緒に行って本当に良かったの?」
 帰り道を歩きながら、アルモニカは突然切り出した。
「大丈夫ですよ。というか、終わったことなのに確認してどうするんですか?」
 アンリはいたずらっぽそうに笑って言った。アルモニカのうっという声が聞こえた。
「あ、そういえばこれ、はい」
「?」
 アンリの方を見ると、彼は今朝買っていたお菓子の箱をアルモニカに差し出していた。
「これ、あの人に渡そうと思ってたんですけどぼーっとしてて忘れちゃってたんですよね。自分で食べるのもなんだし、だからあげます。ドーナツが入っています」
「そっ…………そんなの貰ったって嬉しくないわよ」
 他人に上げる予定だったものを、とぼそぼそ続けたアルモニカだったが、アンリは手を引っ込める。
「じゃあ僕が食べます」
「あ、えっ!?」
「お腹空いてるんで今から食べまーす」
「や、やだそれ私の!」
「アルさんさっき要らないって言いましたよね」
 そう言ってスッとアルモニカの反対側の手で箱を持ち上げ腕を高く伸ばす。アルモニカがそれに手を伸ばすも少しだけ届かない。
「言ってない、言ってないもん、意地悪!えっ嘘、と、届かない……!?」
「最早僕の方が背が高いですからね!アルさんがいつまでも僕のことチビって言ってるからウッ」
 閃く蹴りを腹に食らって地に膝をついたアンリから箱を奪うと彼女は「私からドーナツを奪おうとするからよ」と言い、箱を開けて一つ口に入れた。そしてアンリの口にも一つ詰め込んだ。涙目で一口食べ飲み込んでから、彼はボソリと呟く。
「……師匠思い出しました」
「誰なのそれ」
 どこまでも甘い風味が口いっぱいに広がる。ふと、アンリの頭にふわりとした感触があった。
「……?」
 アルモニカが頭を撫でていた。
「うーん。やっぱりなんか違うな」
 そう言い手をすぐに引っ込めた。アルモニカはこんなことを言った。
「アンリの方が背が高いし、もう弟じゃないわね」
「僕はアルさんに弟だと思われてたんですね」
 嬉しいなと笑ったアンリの顔を見て、アルモニカは言う。
「アンリ、変わったよ」
「そうですか?」
「うん」
 背だけじゃないよ、何があったのかは知らないけど、とアルモニカは言った。
「アルさんは変わらないですね」
「そう?……でも、私も変わらなきゃなって思った」
「?」
 そう言って、夕日を背にアンリに笑いかけ、はっきりと口にした。
「私、ちゃんと生きる」
 その言葉の真意は、アンリには分からなかった。だが、彼女は至極真面目そうだった。西日かなにか、アルモニカが酷く眩しく見えて、アンリは目を細めた。

◆◇◆◇◆

【果し状】

 アンリには悩み事があった。
 そのうちの一つは、今日、解決する。

 広げたのは、数日前に見知らぬ少女に押し付けられた果し状。降っていた雨も止んだし、とりあえず、行かねばならぬ。

 憂鬱な気分で本部の中庭へと出ると、不思議ときらきらとしていた。高い太陽の光が、雨上がりの木の葉の、草に当たって乱反射している。そんな中、金髪の幼い少女が中庭のベンチに座っていた。そして、こちらに気付くとアンリを真っ直ぐに見つめた。その緑の瞳に、何故か心が苦しくなった。
 動かず立ったままのアンリに、少女……テンはゆっくりと立ち上がると近付いてくる。そして少し離れて立ち止まると、彼女は僅かに微笑んで言った。

「初めまして。兄さん」

◆◇◆◇◆

【おまけ:「思い出」】

 これはとある男の記憶である。

 男は訳あって、ぐるぐると世界を一人で回っていた。年も明け幾日か経ったとある冬の日、偶然知人の住む村の近くまで来たものだから寄ったところ、その知人であるシスターの傍らに子供がいることに気が付いた。
「驚いたな。修道女はいつから結婚できるようになったんだ?」
 すると彼女はしわしわな手を口元にやり、おほほと笑った。
「私の子供たちは孤児院の子達ですよ。それと、この子は……」
 名を呼び子供の肩を寄せる。シスターは言う。
「変わった運命の子です。記憶の無い子。だけど、呪われています」
 彼は左眼を覆うように包帯を巻いていた。だがその端から見える黒い痣のようなものから察せられた。
「毎日祈りを捧げていますが一向に良くなりません。あなたならなんとかできませんか?」
 パッと見て自分ではどうにもならないと思った。だが、とある知り合いの女の顔が浮かんだ。

 お茶をいれてしばらくして、シスターは、「そうだ薪が無くなりそうだったのよね」と言い薪を取りに行くのを頼んだ。その時、この子供も連れていくよう言ったのである。

 近くの海岸で拾おうとしたらシスターに「暖炉が錆びてしまいます」と怒られてしまってので、暫く歩いたところにある小さな林へと出向いた。
 小さいのを幾つか持たせてやると、それを抱えて男の少し後ろをただ付いてきた。なにか話しかけても首を縦に振るか横に振るかだけである。変わった子だと思った。
 そろそろ戻ろうかと言った時、男は違和感を感じた。森に何か悪意を持った何かがいる。身構えた時、それは飛び出してきた。半分溶けた人のような形をした歪な怪物が。金の瞳を光らせる、恐ろしい姿、それは人々に悪魔と呼ばれていた。
「まだ森の入口だぞ……!?」
 背負っていた槍を取り出しそれで子供を庇うように立ち回り対抗する。不思議な力を持っているかのようによく切れた。
 気が付けば辺りをたくさんの、様々な形態を成した下等悪魔に囲まれていた。この前までこんな悪魔がたくさん出るような森じゃなかった。ふと、この子供の呪いのせいなのではという考えがよぎり彼の顔を見ると、全く怯えのない表情で突っ立っていた。
「おい逃げるぞ、……お前怖くないのか」
 不思議そうな顔をしたまま、ゆっくりうなづいた。
「でも逃げるんだよ!ああもうしょうがねえな!」
 男は子供を脇に抱えて走り出した。悪魔たちがそのあとを追う。途中振り返ると男は槍を高く掲げて叫ぶ。
「グングニル!雷装!」
 男の背後に光輪のような物が現れる。
「千光落雷!」
 そして稲妻が走り大きな音と光がしたかと思うと敵を一撃で消し炭に変えた。

 こうして無事に戻ることができたのだが、シスターには騒がしいと叱られた。しかしお使いの薪は僅かながら渡すことが出来た。子供がずっと持ったままだったのだ。
 子供から薪を受取りながらシスターは言った。
「サズよ。彼を治してくれますね?」
 それは、確認というより念押しだった。しかし、男の中では既に決まっていた。
「こいつは連れていく。……まず知り合いの薬屋に見せに行く。それからは俺が決める」
「そう」
 あなた嬉しそうよ、とシスターは笑った。男にとってもまたこの感情は、確かに喜びという感情だった。

 これも何年前だ?男が目を細める。このことを思い出したのは他でもない。ちょうど、この時期なのだ。
 男は思い出に浸りながら、ハーブティーを口にした。

 窓から見える葉の落ちた木々が、薄ら寒く揺れている。







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