【お日様の少年】
カテレアル=デーニャ。物心ついてからの彼女の仕事は、時たま窓より顔を出すこと。目が合った白い頭の者達は、彼女を見て頭を下げ時折拝む。彼らは神的象徴としてデーニャを崇めていた。
たった一人、彼女の身の回りの世話を行っていた魔女帽の女がいたが、デーニャがある程度成熟し助けは要らないと告げると、彼女も直接は干渉しなくなり、彼女の部下が食事を運ぶなどの諸事を行うだけになった。
真夜中。日の差さないこの砦はとても暗かった。昼間でこそ南からステンドグラスの光が煌々と落ちてくるのだが、夜ともなれば、夜廻と徘徊している者のランタンを除き、灯りはほぼ月明かりだけ。夜目が効くので大して困らないのだが、外に出ることも無い彼女は日の出と日没に合わせて日々を過ごしていた。
生まれてから今まで、段々と長い時を過ごす内に、彼女は外の世界に憧れを持った。小さな部屋とそこから見える景色しか知らないが、彼女は他の悪魔達の外の世界の会話を聞いている。そして、耳を澄ますと僅かに聴こえるザラザラと響く外の音を。だがそれ以上に、彼女は己の重要性が分かっていた。崇められる立場、もし自分が周りの者と同じ生き物のような行動を取ったら、ここからいなくなったら、彼らの平穏は壊れてしまうだろう。その責任を負うことが彼女にはできなかった。外への憧れを押し殺して、己の中の自我を押し殺して、彼女は神を務め上げていた。
けれどあの時外の幼い人間の子供と言葉を交わしてからというもの、外への憧れは少し強くなっていた。ベッドの上に置いたままのクローバーを見つめる度、少年を思い出す。
「また、来てくれる?」
クローバーは沈黙したまま。鼻を近づけると、青臭さの中に確かに太陽の香りがした。
「来てくれるよね?」
手の中にはもうクローバーは無かった。代わりに口内に広がる苦味を、唾液と共に嚥下した。
カテレアル=デーニャがどれだけ待てど、幾度人間がやって来ようとも、あの日の少年は来なかった。絶望も悲しみもしなかったが、どうせこんなもの、と一種の諦めが生まれていた。傷が傷だと知らぬまま、時は心の表面を浄化する。しかし深部では、何処かずっと待っている自分がいた。
そして、十年もの歳月が流れた。しかしそれも長命なカテレアル=デーニャにとってはほんの少しにしか過ぎないが。
ある日の夜のこと。寝床に潜り、眠っていたデーニャは、ふと目を覚ました。誰かが名を呼んでいる気がしたのだ。だがそれは気の所為などではなく、小さな声だが確かに彼女を呼んでいた。
「デーニャ、カテレアルデーニャ……」
何処かで聞いた声。デーニャは起き上がり、部屋の扉を開けてそっと覗き込む。小声で返事を返す。
「誰」
「憶えている?」
祭壇の裏に繋がる奥の扉は開いていた。そこからひょこりと顔を出した青年の顔を見て、デーニャは目を丸くする。心音が高鳴る。
「来てくれたの?」
「良かった。忘れられたと思ったよ」
デーニャは首を横に振る。なんせ心のどこかでずっと待っていたなんて言えやしない。
人の時はとても速い。小さな少年だった彼の背丈は大きくなり、今やデーニャが見上げなければいけない程だった。けれどその優しそうな目元や随分と低くなった声も、確かにあの少年の物で。
「ねえカテレアルデーニャ、変なことを言ってもいい?」
「?」
小首を傾げたデーニャに、青年は意を決して口にする。
「君を攫いたいと言ったらどうする?」
何処かで待ち望んでいた言葉に、彼女は嬉しくなる。しかし……
「だめ。私は神、カテレアル=デーニャだから。ここからいなくなってはいけないの……」
「聞いて、カテレアルデーニャ」
青年は続けた。
「隣の国まで行った。敏腕の技師がいて、僕はそこに弟子入りして、働いて。そのお金で頼み込んで、君によく似た精巧なカラクリ人形を作って貰ったんだ。時間がかかってごめん。……ねえカテレアルデーニャ、もう一度聞くよ。僕は、君を攫いに来た」
どこまでも出来すぎているような気がした。嘘だと言われてもおかしくない気がした。けれどそれに縋りたくて仕方がない。嘘でもいい。夢でもいい。全てを放り出して、彼と逃げ出したい。
手を伸ばした青年に、デーニャは笑顔で手を重ねる。
「どうか私を攫って。沢山の世界を私に見せて」
「勿論」
彼は彼女の手を引いた。風の吹いたことのない室内に突風が吹いたように、嵐は闇に紛れて深窓の姫君を攫っていった。
一夜のうちに、カテレアル=デーニャは神でなくなり、人形は神になった。
一方神をやめたただの人形は、朝日を崖の上から眺めながら、満面の笑みを浮かべていた。その目からは涙が溢れていた。
「すごいよ、太陽って、こんなに赤かったんだね!この音は、水だったんだね!」
青年の顔を見る。
「ありがと、ルゥ」
「子供の呼び方、やめてよ。僕はルートヴィヒ」
「ありがとう、ルート」
青年は少女を抱える。
「沢山世界を見に行こう。小さな部屋しか知らなかった君には、見せたいものが沢山あるんだ。そうずっと思ってきた。君のことが忘れられなくて」
「ねえルートヴィヒ」
「?」
彼女は真面目な顔になって、青年を見つめた。
「私、この世界がいつ終わるかを知ってるの」
その言葉に彼は押し黙る。
「けれど、ね、全てを忘れちゃうくらい、私を幸せにして」
「……勿論」