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prologue


 さざ波洗う渚。はしゃぐ少女の声と潮騒の歌曲。
 泡立つ波に白い足を浸して無邪気に笑う彼女は、世界の秘密も大事な役目も遠い過去の彼方に捨て置いて、今はただの何も知らぬ幼い少女。
 そう、今も、そしてこれからも。



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番外編「深窓の姫君」
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 彼の母は魔女であった。

 魔女と言うとどのようなものを思い浮かべるだろう。大概の人は、黒く鍔の広いとんがり帽子を被り、箒で空を飛ぶ姿を想像するだろう。その者は魔法を使うだろうが、杖を使うか使わないかは人による。また、悪者か善者かは想像する人によるだろう。
 しかし、この世界で魔女と呼ばれるものは、少し違った姿を見せていた。魔女はとんがり帽子を被ることも無ければ、魔法も使えない、そして箒で空を飛ぶこともしない。もっと夢の無い職業であった。

 そんな魔女の息子は、初めて彼女に会った時のことを、よく覚えているという。


◆◇◆◇◆



 そこは海辺の小さな漁村だった。決して豊かではないが、飢えに苦しむことは無い。電気などというものは通っていないが、だからと言ってそこまで困ることもない。自分達が暮らしていけるだけの物を生産し、余剰分を隣の街まで売りに行く程度の小さな共同体だった。

「今日は皆さんに差し入れを持って行くのよ。あなたも少し手伝いなさい」
 ある日、少年の母は息子にそう言った。
 小さいのにやたらと重そうな袋を抱え、それよりも幾分小さい袋を年端もいかない少年に持たせた。彼は素直に母に従う。頼りない足取りで、母親の後ろを付いて行く。

 村からしばらく歩いた所、茂みの影に古井戸があった。新しく掘った井戸ができてからは誰も使うことの無くなった井戸だ。青葉の茂ったその虚空を覗くと、心許ない梯子が下がっている。
 怯えながらも母を信じて付いていく。梯子を少し降りると、更に階段が続いていた。その暗い階段を抜けると、ひんやりした薄暗い、開けた場所に通じていた。
 そこは教会のようだったが、彼の知っている教会より随分と豪華だと感じた。だがそれともまた少し違っているようだった。幼い少年は、ある一点に目を奪われた。一際目を引いたそれは、奥の壁を彩るステンドグラス。極彩色に彩られたガラスはまばゆい光を放ち、描かれた女と赤子の像が、赤褐色の瞳の中で神々しく揺らめく。
 母親は地下の出入り口の付近で、何やら白いスーツの紳士と話をしているようだった。少年は手に持っていた袋を母親の隣に降ろすと、ぼんやりとステンドグラスの方へ歩み寄り、眺めながら会話が終わるのを待っていた。

 一番奥の壁はステンドグラスで、その真下、床から数メートル高い位置に祭壇がある。そこから左右に壁の端まで伸びた廊下。
 振り向いて反対側を見上げれば、壁から飛び出るように、白い何か彫刻のような物がそびえ立っていた。吸い込まれるように、少年は反対側に向かって歩いていく。
 ステンドグラスの七色の光を浴びて輝くそれは、どうやら女の姿を象ったもののようだった。長い法師のような帽子を被り、背中から生えているのか、埋まっているのか定かでは無いが、何かが複数刺さり、歪な翼のようだった。下腹部から下は壁に埋まっており、まるでドレスのスカートのように、大量の白い布が垂れ下がっていた。彼女は両手を広げ、慈愛に満ちた表情で、圧倒されて口の開いたままの少年を見下ろした。
 その時ふと、彼の目は何かを捉えた。巨大な女性の像の隣に、蟻の巣のような大きな穴がいくつか空いていたのだが、そのうちの一つ、最も高い位置にある穴から、誰かが顔を覗かせていたことに気付いたのだ。
 真っ白な髪をした女の子。歳は十五くらいに見える。幼い顔立ちの彼女だが、服装などはあの像の女性と似ているようだった。その表情は彫刻のように硬かった。やがて彼女も少年の方を見た。
「きみはだれなの?」
 声を張り上げて少年は問う。女の子は、少しの間ののち口を開く。抑揚の無い声。
「私は、カテレアル=デーニャ。母なるものから産まれた第一の娘にして、二番目に尊い者」
「カテレアル……?へんななまえだね」
「そんなことを言われたのは初めて」
 まるで人形のような表情だった。まるで美のイデアそのもののように、普遍で神聖な美しさがあった。正面から入ってくるステンドグラスの光は直接当たっていないはずだが、その白い肌や白い髪が七色に彩られているような錯覚に陥る。
「ルゥ、」
 突然の第三者の声にハッとした。慌てて振り返ると、それは母親だった。
「今日はもう帰るからね」
 母の顔を見て頷き、一度少女を一瞥した時、母親は「まあ、大変」と言うと、跪き、少年の頭を下げさせた。
「息子が無礼を。お許しください娘様」
 返事は無かった。暫くして、母がそっと顔を上げた時、そこには彼女はいなかった。

 少年は、母親の手を引かれて帰った。
 初めての教会。不思議な少女に会ったこの日のことを、彼はずっと忘れることができなかった。


◆◇◆◇◆



 あの日から、少年は母に連れられて、よくあの教会へと通った。母親はどうやら何か重要な仕事をしているようだったが少年にはまだよく分からなかった。
 井戸を覗き込む恐怖感は薄れていくが、教会の中に慣れることは無かった。特にあの大きな女性の像を、いつまでも畏怖の眼差しで見ていた。背を向けるのも恐ろしく、正面を向いて対峙していた。あわよくば、またあの少女に会いたかった。名前、カテレアル、もっと違う名前だったかもしれないが、思い出せない。彼女は何者なんだろう。いつも何をして過ごしているんだろう。何が好きなんだろう。笑うことはあるんだろうか。などと様々なことを考えながら、いつもそこに座って過ごしていた。けれど、その日もあの少女が現れることは無かった。

 そんなある日、母親を待っていると、その時はやって来た。
 顔を出したのは、あの白髪の女の子。だが、今回はあの大仰な帽子は被っていない。
 彼女は辺りを見回すと、身を乗り出して少年に語りかけた。それは少年にとって驚くべきことだった。
「ねえ、ちょっと来て」
 そう言い、真下を指さす。真下は白い布に覆われている。
「すぐの左手の階段上がって」
 そう言うと奥へと引っ込んで窓を閉めた。あの穴には窓が付いていたのだ。
 言われるがまま、壁に近付いていき少年がそっと重い布を持ち上げると、そこは真っ暗闇。けれど目が慣れると気付く。この先には空間が続いており、確かに左手に階段があった。彼はポケットからマッチを取り出すと、一本擦ってゆっくり階段を上っていった。
 二階へ上がると、続く廊下の奥に銀色の扉があった。まもなく、その扉は勝手に開き、中から白く細い腕が伸び、彼を引き込んだ。
 部屋はとても小さかった。小さな村の少年には見たことさえないような、ロココ風の修飾がなされた家具が並んでいた。天蓋付きのベッドに椅子、足置きまでついてはいるが、テーブルさえ、明かりさえ無い。まるで隠れ家。
「いつぞやの無礼な子供。また会えたね」
 手を引いた少女の表情は、かつて見たあの日のまま。
「きみはだれなの……?」
 彼女は呆れたような表情ののち、ベッドの横、ソファの足置きの上に立ち、咳払いをして、小さな少年を見下ろした。
「私は、カテレアル=デーニャ。母なるものから産まれた第一の娘にして、二番目に尊い者」
「えらい人なの?」
「そう、と言いたいところだけど違う。みんなは人形みたいな私、カテレアル=デーニャのことが、偶像としての私が必要で、私自身はいらない」
「きみはカテレアルデーニャじゃないの?」
「私はカテレアル=デーニャだけど」
 彼女は、なんて頭が悪い生き物だと言いたげな呆れ顔をした。しかし目の前の幼い少年は、純粋な言葉を紡いでいく。
「ぼくはきみとお話ができてうれしいけど」
「そう?」
 一転彼女はふわりと少し微笑んで、ベッドの縁に座る。
「わらえたの?」
「もちろん」
「わらえないんだと思ってた」
「私に人格は必要無いから」
「ぼくはそうは思わないなあ」
「本当?」
 彼女は隠しきれないほど口角が上がっていた。
「そんなこと言われたことなかったな」
 求められたことが余程嬉しかったのか、彼女は多弁になった。
「子供と話してみたかったの。……あれ?あなた、どうしてかいい匂いがする。もしかしてお日様?」
「よくわかんないけど……」
 肩をすくめた幼い少年に、幾らかお姉さんくらいに見える少女は、ベッドの隅から一冊の本を取り出す。それは薄暗い中でも分かる程ボロボロであった。
「この絵本に出てくるんだよ、外は明るくて、暖かくて、いい匂いがするの」
「そとに出たことがないの?」
「うん」
 彼女は鼻を近づけて、一回り小さな少年の頭に頬を寄せた。少年はポケットを探っていたが、木の葉と共に、何かを取り出した。差し出した小さな手の中のそれを、少女は受け取る。
「なに?」
 それは緑色をした植物だった。ハート型の四枚の葉が花弁のように広がっている。
「しあわせになれるクローバーなんだって。あげる」
「ありがとう……」
 驚いた少女は、その四葉のクローバーをじっと見つめていた。
「あ、」
 ふと光が射す方へ目を向ける。女の、少年を呼ぶ声が聞こえた。
 振り返った少年に、少女は部屋の出入口を指さす。
「この部屋の向かいの扉、あちらから、祭壇の裏に出られるよ」
 母親の目の前で、少女の部屋から出てきたように見えないようにとの少女の配慮だった。
 頷き、彼は部屋から出る。その後、カテレアル=デーニャが窓から下を覗くと、きょろきょろとあたりを見回していた女の後ろから、少年が走って来るのが見えた。手を繋いで帰っていく二人の背を少女は眺める。
「じゃあね、ルゥ。また来て」
 それだけ小さな声で呟くと、彼女は部屋へと引っ込んだ。


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