後日談Ⅲ「マリア」
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 マリアは小さい頃から祖母のことが大好きだった。

 田舎の葡萄農家を営む夫婦には、一人の孫がいた。
 彼女の名前はマリア。大きな丸い瞳は、美しくカットしたペリドットのよう。暖かい陽射しのような金髪は柔らかく、僅かにカールしていた。白いレースの洋服で着飾るとまるで人形のようにも見える女の子だったが、本人はよく笑うので人間味を帯びた可愛さがあった。
 祖母は特に彼女を可愛がっており、マリアも祖母のことが大好きだった。祖父母とマリア、この三人は穏やかに暮らしていた。
 他の誰とも同じようにマリアにも両親がいたはずだが、祖父母は彼女の両親のことを語りたがらなかった。マリアは天真爛漫なようで人の顔色を良く見ることのできる人間だったので、両親のことを気にするようなことを言わなかった。それよりも同世代の友達がいないことを嘆いていたようだったが、成長するにつれてそれも言わなくなった。


 マリアが十七の歳――この世界では成人の一つの指針となる――になった次の日、暖炉の前で編み物をする祖母の横でマリアは髪を結いながら呟いた。
「ハンナおばあちゃん、あたし、昔の夢を見たよ」
 ハンナは針の手を一瞬止めたがまた手を動かし始めた。
「どんな夢だった?」
「うーん。よく思い出せないんだけどね」
「どうして昔の夢だと思ったんだい?」
「なんとなく、懐かしい気がして。見ている時は昔だって分かったんだけど、目が覚めたら全部忘れちゃってた」
「よくあることだね」
「だよねー」
 ハンナは手を止めると真面目な顔をして、マリアの顔を覗き込んだ。
「昨日渡した手紙は読んだ?」
 マリアの十七の誕生日の日、祖母のハンナは彼女に手紙を渡していた。
『あなたについていた嘘を、あなたに隠していた真実を、私の贖罪を込めて。』
 そんな重い言葉と共に手紙を受け取ったマリアは、一体それをどうしたのだろうか。
「ちゃんと読んでないの。ごめんなさい」
「マリア」
「ハンナおばあちゃん。ごめん……手紙は読んだ。読んだよ。でも、チケットは捨てちゃった……」
「あらあら……」
「だって、別にいいもん。あたし、おばあちゃんと一緒がいい。ずっとここにいたいもん。三人一緒で」
 ハンナは無言でマリアを抱き締めた。
「馬鹿な子だね……別にここから追い出そうと言ってるわけじゃないよ。それとも何だい?本当のことを知ったら二度とここに戻りたくないと思うかもしれないってことかい?」
「違うよ。そうじゃないの……上手く言えないんだけど……」
 言葉にならないマリアを、ハンナは責めることは無かった。
「あたし、今がすごく幸せなの。だから、別にいい」
 マリアは痩せた背中に手を回し、体を預けた。
 きっと、人の顔を見ていたから両親のことを聞かなかったのでは無かったのかもしれない。彼女は本気で今の方が大事だと思っていたからだ。


 それから何年か、彼女の幸せは続いた。だが、永遠などいくら願っても存在しない。


 ハンナが病気で倒れた日、マリアは血相を変え、祖父は医者を呼びに離れた村まで走った。
 ハンナの意識は戻らなかった。だが穏やかで、まるで眠っているようだった。
 祖父のダヴィドは泣き続けるマリアの背を、分厚い皺だらけの手で不器用そうに撫でていた。

 ハンナの世話をし、縮小した畑で農業をする忙しい毎日。
 そんなある時、マリアは夢を見たのだ。白くて淡くて暖かくて、どこかもの寂しい夢を。

……
 彼は泣き虫で、いつも悲しそうにしていた。膝を抱えて俯いていた。
 手を差し出すと、彼はへにゃりと笑って同じ大きさの手を出した。柔らかい手は、自分と同じ体温。手を引いて歩くと、彼はついてきた。
 楽しいことを話すと、彼が笑うのだ。大きく手を広げると、彼が真似をしてくれるのだ。部屋の隅にある本棚から絵本を持ってくると、彼が教えてくれるのだ。彼が、マリアが、何が好きかを。
……

 目覚めた時マリアは泣いていた。激しい動悸がする。
 分からない。この白い景色がなんなのか。夢の彼が誰なのか。けれど知っている。その感覚だけは何故か確かで、眠ろうと目を閉じても白い景色が消えてくれなかった。
 眼前に広がる自然の中で生まれ育ち、外の世界を知らないと思っていたマリアには衝撃だったのだ。


 眠れないまま寝床から這い出たマリアは、机の引き出しの一番奥に押し込んでいた紙を取り出した。それはハンナが震える手で書いた手紙だった。マリアが十七の誕生日の時貰って読んでから、一回も目にしていなかった。真実への道筋が書かれた手紙。不安だった。もしかしたら、何か変わるのかもしれないと思って、マリアはハンナの手紙に縋った。

 祖父のダヴィドに決意を告げた時、彼は驚かなかった。遂に来たかとでも思ったのだろうか。
「マリア。わしは大丈夫だから行きなさい。気になるのなら、行くべきだよ」
「おじいちゃんは教えてくれないの?」
「ごめんねマリア。わしはハンナからよく聞いておらんのだよ。だからお前の目で確かめてきなさい」


 マリアは余所行きの服を着た。淡いピンク色のドレスだ。そして黒いコンタクトをした。村から出る時は必ず付けるようハンナに言われていたのだ。

 マリアは白いハットを被り鞄を持って村を出る。しばらく歩き、乗合バスに乗り、辺鄙な汽車に乗り、ターミナル駅に着いた頃にはマリアはとても浮いていた。時代遅れのようにも見えた。
 祖父によって識字は会得していたマリアだが、こんなに情報量の多い場所で思い通りに行動する術は知らなかった。左右に揺れる人の群れ、あちらこちらで鳴り響くベルや人の声、縦横無尽に指し示す矢印。マリアは少し泣きそうだった。
 どの場所に向かえばいいんだろうと、顔を上げたマリアが後ずさった時、何かとぶつかった。
「きゃ!」
「すみません!」
 背後にいた婦人が手にした袋から、林檎が零れてゴロゴロと転がった。
「あわわわ」
 マリアが林檎に手を伸ばすも空振りして掴みきれなかった。慌てるマリアの横で、婦人はサッと林檎を捕まえると、黒のベロアの手袋で軽く表面を撫で、手にしていた紙袋の中に押し込んだ。
「ふふ、抜けた方ですわね」
 上品に微笑まれて、恥ずかしいやら何やら、マリアは真っ赤になってしまった。
「何かお探しでは?」
「テトロライア方面に向かいたくて。乗り場を探しているのだけど……」
「ならあちら」
「あ、ありがとう……」
「いいえ。構いませんわ」
 白い肌や髪に赤い唇が映え、締まった印象を与える女性だったのだが、それとは対照的に髪留めについた薄紅色の可愛らしい花が印象的だった。
「大人っぽい人、いいな!あたしも……あっテトロライア行きどっちだっけ……」

 マリアは何とか切符を買って蒸気機関車に乗る。目指すはヴァルニア。大きな駅テトロライアを一駅過ぎたところである。
 そうこうしている内に目的地に到着したマリア。大きな建物と人の数に圧倒されつつも、マリアは敷地の入り口で立ち入り許可証を貰うことができた。エントランスには人がごった返しており、マリアは名前と要件を何とか記載するとエントランスの待合席を抜け出した。


「はあ……」
 マリアは頭を抱えた。
 ここは庭園だった。木や花壇のある庭にはベンチが幾つか設置されていて、マリアはそこに引き寄せられるように腰を下ろしたのであった。
「人が沢山居て疲れるなぁ……」
 ぼんやりと視線を花壇にやると、ぱたぱたと蝶が飛んできて赤い花に止まり、ゆっくり羽を動かしていた。心が落ち着いてきた。
 ふとカバンから手紙を引っ張り出してゆっくり広げる。涙でインクが少し伸びてはいるが、十分に読める。
「私がずっと隠していたことがある。あなたには双子の弟がいる。私には彼を救うことができなかった。だから、後ろめたくて隠していた。あなたにもたくさんの嘘をついた。本当のあなたのこと、両親のこと、彼ならきっと知っているから聞けるでしょう。ずっと黙っていて、ごめん、なさい……。未だに私の、口から言えなくて、ごめん……以下住所を……記し……」
 マリアは涙を拭った。
「おばあちゃん……」
 ぎゅっと紙を握り、顔を覆った。手の甲で溢れる涙を拭い、手紙を仕舞うとひとしきり泣いた。
 嘘をつかれていたことはマリアにとっては別に構わないことだった。祖母や祖父の無条件の優しさは嘘ではないと分かっていた。だからこそ、そんな彼らがマリアに隠し、自分の口から説明することもできないような真実があることがマリアには怖かった。それを知るともう戻れない気がした。そしてどんな感情を抱こうとも、ハンナにマリアの気持ちを伝えることができるかどうか分からないことが、彼女は悲しかった。
「お姉さん」
 突然の他者の声に、マリアはビクリとした。はっとして顔を上げると、十五そこらの少女が、白いハンカチを差し出していた。
「ありがとう……」
 マリアはハンカチを受け取り、涙を拭く。歪な犬の刺繍がしてあり、マリアは少しだけ笑った。
「人と話せて良かった。可愛いハンカチをありがとう」
 ハンカチを受け取った少女は、不安そうにマリアの顔を覗き込んだ。
「私、邪魔じゃなかった?」
 一瞬ハッとしたマリアだったが、きっとこの少女には隠せないと思い、正直に頷く。見知らぬ相手だったからというのもあるのだろう。
「ちょっとね、寂しくなっちゃって。悲しいことを思い出してしまうの。だからあなたが話しかけてきてくれて嬉しかった。一人で知らない場所にいると心細いしね」
 少女は驚いた様子だったが、マリアの隣に座った。
「お姉さん、ずっとここにいるけど、何かを待ってるの?」
「うん。ある人に会いに来たの。でも待合室はどうも居心地が悪くて。でもここ、静かで落ち着く。花も綺麗でいい所」
「そうだよね!」
 少女はにっこりと笑った。
「私、ここ好きなんだ!それに私にとってはみんなと会える場所っていうか……!」
 その笑顔に、マリアも思わず笑った。
「やっぱりお姉さん、笑うともっと可愛い!それに、あんまり泣きすぎると泣きぼくろが取れちゃうから気を付けてね!」
「ほんと?!」
 マリアは少女につられて笑っていたが、次第に神妙な面持ちになる。
「あたし、今まであんまり泣いたこと無かったんだ。その……泣きすぎると、取れるの……?コンタクトみたいに……?」
「いや取れないよ!」
「良かったー!」
 二人はケラケラと笑った。
「あなたはどこから来たの?」
「私はこの近くの学校に通ってるんだけど、たまにこっちに来るの!やっぱり、実家みたいなものだから……」
「好きなんだね」
「うん!」
「あなたは一人?」
「お兄ちゃんがいるよ。お兄ちゃんは仕事なんだけどね。あとこれから友達と待ち合わせしてるんだ!学校が違うから帰ってくるのも遅くって……」
 彼女はお喋りが大好きなようだった。他にも色々と教えてくれた。手を振り回し陽気に喋る少女と話していると、マリアの心は軽くなってきた。
 少女はマリアに話しかけたのは、どこか自分に似ていたからだと言っていた。そして彼女の友人にも似ていると言った。妙なことを言う子だなとマリアは思っていた。
 少女が得意料理の話をしている最中、ふと辺りを見回した。
「ねえ、お姉さん。名前、なんて言うの?」
「マリアだよ」
「マリア・クルーザー?」
「えっなんで知ってるの?」
「さっきから呼ばれてるよ?」
「ええー!?えっと、じゃああたしはこれで!」
 マリアは慌てて立ち上がり、庭を出ようとして大声で呼び止められる。
「おねえさーん!鞄忘れてる!」
「ありがとう!えーと、」
「トーレ!」
「トーレちゃん!ありがとうー!」
 マリアは少女にハグをして駆けた。


 マリアが受け付けに行くと、メルデヴィナの職員だと思われる別の女性を紹介された。おかしい。会いたいのは弟なのに。もしかして女性だったんだろうか、もしくはこの人が男性?とマリアがその女性を訝しげに見ていると、女性は頭を下げた。
「こんにちはマリアさん。お待たせしてすみません。……単刀直入に言いますが……今日はクリューゼルさんにはお会いできません」
「え!?」
「三日前から出払っておりまして。戻るのは明日となっております」
 マリアはしゅんとして俯いた。しかし、女性がじっとマリアの顔を見ていることに気付き顔を上げる。
「変なことを言うようですけど……先ほどあなたの名を見て私があなたに会いたいと思っていたのです」
「あなたが?」
 マリアは驚き目の前の人物をまじまじと見た。青い瞳に栗色の髪の毛。背格好も良く似た同世代くらいの女性だった。だが、見覚えも無ければ知っている誰にも似ていなかった。そもそもマリアに知り合いはほとんどいない。
「その話は後ほどということにして……。明日彼は戻ります。一日ほどゲストルームに泊まって頂いても構いませんが、どうなさいますか?」
 マリアは少し悩んだ後、首を横に振った。
「帰ります」
「そう、ですよね……お忙しいですしね」
 女性は残念そうにしていたが、マリアは目を伏せてもにゃもにゃと言葉を濁していた。
「それもあるけど……。きっと、神様がまだその時ではないと言っている。それにあたし、会えないって聞いて正直安心しました!」
 女性は信じられないというような顔をしていたがマリアは気に留めなかった。
「ずっと不安だったの……真実を知ることが。大好きな家族が、嘘をついてまで隠してたことを、今になって知るなんて……。あなたは、逃げだと思います?」
 目の前の女性は難しい顔をしていたが、やがて首を振る。
「そうですね。隠されていたものに向き合うことは、勿論人を不幸にする可能性を秘めています。しかし同時に、嬉しいことにだって出会えるかもしれません。ですがそれを決めるのはあなたです」
「あなただったら?」
「私だったら……?」
 女性は目を閉じた。幾らかの間を開け、彼女はゆっくり目を開く。
「怖い。勿論。けれど知りたい。だって気になるもの。あなたは気にならないんですか?」
 マリアの答えは同じだった。
「今が幸せならそれでいいと思ってる。だって、世界はこんなにも綺麗なんですから。もっとだなんて思わなくたって、今が一番楽しい筈なんです。……あたし、祖母が倒れてからちょっと疑っていました。気持ちが落ち込んで、何かに縋るように手を伸ばした。でも、神様が今じゃないって言ったの。だから、」
「いつか、あなたの神様が彼とあなたを引き寄せる時が来る。……ということですね」
 マリアは頷いた。
「ええでもきっと、また来ますから。今は忙しいけど、仕事も落ち着けて、きっと、必ず」
 マリアは上機嫌で帰って行った。その足取りは軽く、ずっと未来のことを考えていた。
 帰りの汽車の中、ふとマリアは思い出す。
「そういえばあの人、何であたしに会いたいって思ったんだろう?名前も聞きそびれたし……まあいっか!本当に必要なことならいつか分かるでしょう」
 そう呟きあくびをした。思えばマリアは寝不足だった。一気に眠気が襲ってきて、車窓から遠ざかる建造物を眺めながら微睡んだ。




 メルデヴィナ本部のエントランスで、受付の紙に書かれた名前をなぞる女性。上着の下の名札にはクリューゼルと綴られている。
「マリア・クルーザー。目の色は違うけど、ミクスに似た人だった」
 職員の女性は、他人の記憶の中にだけ存在する幼い少女のことを思い浮かべていた。
「あのミクスではないと思うけど、きっと兄弟のうちの誰かでしょう。……でも、今は会いたくないのね」
 マリアは真実を知ることなく、これから自分なりの幸せを歩み続けるのだろう。それは不誠実な人生とも言えるかもしれない。けれど、真実を知ることばかりが正義だと信じて止まなかったその結果、大切な人の涙を生んだことのある彼女は、マリアの選択を責めることはできなかった。しかし恐らく、マリアは本当のことを知っても自分なりの幸せで世界を満たして過ごすのだろう。

 彼女の神様は、彼女が自分と神様を信じる限り、ずっと彼女を幸せにし続けるだろうから。




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