後日談Ⅱ-ⅲ「嘘」
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 某日。西メルデヴィナの本部の施設内の人気の無い廊下に向かい合うようにして立つ男女。二人を取り巻く空気は些か浮かれていた。が、それも女性だけのようで、男の方は親しくもない人に呼び止められて少し機嫌が悪そうだった。
「話って何すか」
「あなた、人伝で誘っても用事があるとか言って全然捕まらないから直接言いに来たのよ」
「何を?」
 どうやら彼女、かなり癖のある女性のようで、余裕のある笑みを浮かべながら腕を組み長い前髪を耳にかけた。
「グループでなんてまどろっこしいことはもう言わないわ。今度二人で食事にでも行きましょう。私のオススメの店があるのよ」
「すんません。その日は予定が入っていてちょっと……」
「まだ日程の話はしていないわ。あなた分かってるの?これはただのディナーのお誘いじゃないのよ」
 女はグイと近付き胸元をちらりと見せつつ男を見上げる。
「あなたのこと気に入ってるのよ」
「はあ……いや、ごめんなさい。そういうのは断ってるんです」
「あなたがちょっとやそっとで靡かないことは事前に知っているわ。だからこそお試しで、ちょっと私と付き合ってみない?」
 先程から、プライドの高い女としては譲歩している方だった。この鈍感な男を自分のものにする為にはこのような手段が最適だと彼女は思っていたようだ。だが、目の前の男は照れもせず視線を逸らす。
「興味が無いので……」
 恋愛に興味が無い。それがこの男の答えだったのだが――
「は?私に興味が無いなんて失礼ね!この私に女としての魅力が無いから!?」
 結果としては女を逆上させ、男は頬に強い平手打ちを食らい、おまけに顔面に拳の追撃も食らうことになった。
 怒り狂ったヒールの足音が遠ざかるのを聞きながら、頬と鼻の頭をさする。実はこの男、このような馬鹿な真似は初めてではないのだ。
 直後くらいだろうか、女が去って行った方向から歩いてきた別の男が声をかけてきた。
「アーサー・エルフォード」
「うわ!アンリか!」
 顔立ちだけでなく、長く伸ばして結った金髪が中性的な見た目に拍車を掛けているが、彼は女ではない。これは久々に会ってもあまり代わり映えのしない友人の顔である。杖を持っている理由はアーサーには分からなかったが。
「休憩時間に一緒にお昼を取る約束をしましたよね?もう先に取りましたよ。それにしても全然見当たらなかったから探しに来たのに女性と何やら懇ろなご様子で」
 アーサーは手を払う仕草をした。
「そんな野良犬か猫みたいな扱いしないでくださいよ。いつまで同じ職場で働けるか分からないんですから。ただでさえあなたは駆り出されることが多いのに」
 そう言い彼は持っていた杖の先を遣る。アーサーは彼と共に歩き出した。
 アンリが連れてきたのは医務室だった。
 医務室にはすらりとした白衣の男がいた。彼はシュウ・クルス。若くして天才と呼ばれた彼は幼い頃からメルデヴィナの医務室を任されていた。一時期は辞めていたものの、また戻ってきたのだ。しかし成長すればするほど死んだ彼の父にそっくりで、実は本人なのではないかという有り得ない噂が立つ程である。
「クルスドクター。少し薬箱を借りますね」
 棚の整理をしていたクルスは振り返り、嫌な顔をした。
「また君?今度はどこを怪我したんだ。もう君のことは見飽きたぞ」
「私じゃなくて、彼です」
「あー。別に放っておいていいんじゃない?」
「冷たいですねぇ……」
 そうは言いつつクルスは、出していた棚の中身を雑に退けて座れるソファーを用意した。アンリは杖を使って椅子に座り、隣に座るようアーサーを促した。彼はそれに従うものの、杖をチラリと見て先程から気になっていたことを口にする。
「お前それどうしたんだ?」
「骨折です。大したことないですがまだ少し痛むので」
 アンリは誤魔化すように笑ったが、アーサーは気が気では無いらしい。
「本当にお前は知らないところで怪我をするよな。気をつけろよ」
「ちょっと流れで護衛しただけですよ?はあ……でもやっぱり骨が脆いですね……」
「もう五年になるんだ。もうそろそろ慣れろ。お前が死にかける姿はもう見たくねぇよ」
「あんなのそうそうありませんよ。……でもまあ、あなたの言う通りですよ」
 溜息をついたアンリはふとアーサーの顔を見て目を瞬かせる。
「相変わらずあなたは回復が早いですね。折角止血してあげようと思ったのにもう止まってる」
「血?うわっ」
 アーサーが顔を拭い己の手を見ると確かに赤いものがついていた。当たりどころが悪かったんですよ、とアンリがティシュ箱を差し出したのでアーサーはそれで拭いた。
「いや、それにしても生では初めて見ました。アーサーさんが女性に殴られるとこ!」
「生ってどういう意味?画面越しには見たのか?」
 アンリは少し笑うも答えはしなかった。
「女性たちの間で噂になってましたよ。エルフォード班長は男が好きだから告白してもダメって」
「それあいつが言ったんだろ」
「怖いですねあの人。先月はロリコンって言ってましたよ。全く、中途半端なことをするからです」
 アーサーは血の付いたティシュを捨てる。クルスが「血が付いたのはこっち」と慌てて別のゴミ箱を持ってきた。アーサーは律儀に捨て直す。
「中途半端か……お前の目に俺はそう映ってるか?」
「何をしたいのか分からない時がありますね。恐らく、迷いから来ているんでしょうが」
 アンリはため息を吐いた。
「顔も愛想も良いので色んな人に好かれて大変そうですね。そのくせ、本当に大事に思ってるものは少ししか無いんですから」
 アンリは相変わらず達観したような口ぶりで話すが、アーサーは一人考え込んだ。
「さてと。そろそろ休憩時間が終わりそうですよ。誰かさんのせいで」
「……お前はさ、なんでアルとすぐ結婚しなかったんだ?」
 突然なんだという顔を一瞬したが、アンリは言いたいことを理解したようだ。
「それは選択の為に掛けた時間です。大事な選択をする時に、時間を掛けるのは悪いことではありません」
「もしそれが無かったら?すぐ、答えを出さなきゃいけなくなったらどうするんだ?」
「それは……悔いのない選択をするしかないです。……その点、あなたもよく分かっているようですけど」
 廊下から彼を呼ぶ声が聞こえる。それを無視して、アンリは真っ直ぐにアーサーの目を覗き込む。黄色とも緑とも取れる瞳が強く揺らめいた。
「……アーサーさん。今の今まであなたの考えも聞いてきましたし、あなたの気持ちの変化も見ていたのでよく分かります。でもテンは、僕にとって大事な妹です。テンには中途半端なこと、しないで」
「分かってる。……勿論」
 ふっと目をそらして、アンリは杖を使って立ち上がる。彼は振り返ると軽く手を振った。
「同僚が呼んでおりますので。ではまた」
 アンリが部屋を出て行った後、棚の整理をしていたクルスが徐ろに話しかけてきた。
「恋愛の悩みか?フフッそんなことで悩んでるなんて、若い証拠だよね」
 腕を組んだクルスが意地悪そうに笑う。
「いや、ドクターの方がいくつも年下っすよね!?」
「それはどうかなあ」
 薬剤の瓶とガラクタの中で子供のように笑った彼を、アーサーはもう気にしないことにした。
 アーサーにとっては、女性に興味が無いとか、恋愛に興味が無いとか、そういう問題ではなかった。彼は時間が経つにつれ、過去の選択を後悔していた。未だ乗り越えられていない。そして同時に諦めることもできていなかったのだ。
 けれどあの時彼を選んでくれた彼女はもう手の届かないところに行ってしまった。アーサーにできることは、彼女の良き友人で居続けることだった。

 それからまた幾つも時は過ぎる。


◆◇◆◇◆


 アーサーとアンリ、そしてアルモニカの三人は元々仲が良かった。そしてアンリの妹であるテンには本当の兄以外にももう一人兄がいて、それがアーサーの立ち位置だった。それはずっと変わらなかった。
 テンの戸籍上の十七歳(実際は違うらしい)の誕生日の日、アーサーはテンに誕生日プレゼントを渡そうとしていた。
 テンは孤児院を出て暫くは兄と一緒に住んでいたが、寮のある学校に編入されてからは別々に住んでいた。アーサーは寮のあるテトロライアまで足を運んだ。
 仕事があったので、既に真っ暗。とは言え夕食を食べ終わったくらいの頃合いで、夜更けとはまだ言い難い時間だ。アーサーは寮の呼び出しベルを押そうとして、ふとその手を止める。
 誕生日を一人で過ごすより、恋人と過ごすことを選んでいるのではないか?ともすると部屋は無人、もしくは二人でいるかもしれない。こんな時、アーサーの心はギュッと痛む。既に諦めたはずの――というより自分から振っているのだが――想いがまだ燻っている。
「不審者さん。そこで何してるんですか?」
 突然の声に驚くと、二階の窓から金髪の少女が顔を覗かせていた。テンである。あの部屋に彼女は住んでいる。
「あー悪いな。ちょっと渡したいもんがあってな。すぐ帰る」
 テンは顔を引っ込めて窓を閉めると、案外すぐ扉が開いた。彼女はちらりとアーサーの大きい手荷物を見た。
「こんばんは。寒いから早く入ってください」
「これを、」
「後で頂きます。それとも急ぎですか?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
「折角来てくれたんです。お茶くらい出しますから」
 アーサーは言われるがまま部屋に案内され、ソファーに座らされた。テンの部屋自体は何度か来たことがあるが相変わらず綺麗にしている。
 テンは自ら寮暮らしを選んだが、一人だと少し寂しい気持ちがあるのだろう。あまり大きくない食器棚の中で四対のカップのティーセットがかなり場所を取っていた。
「ああ、ケーキ持ってくれば良かったな」
「心配には及びません。むしろ良かったですよ。既に頂いたものがあるので」
 テンは上機嫌でフルーツの載ったケーキをローテーブルに並べる。恋人に貰ったんだろうか、そんなことをアーサーは考えた。
「兄さんは元気ですか?」
「ああ、相変わらずだよ。ダリルとアルのことが気になって速攻で家に帰ってるらしい」
「私もダリルに会いに行きたい……今度の休みに行こうかな」
「もっと頻繁に帰ってるのかと思った」
「まあ……私の部屋も残してくれてるみたいですし。行こうと思えばいつでも行けるんですけどね。でも仮にも夫婦の愛の巣ですから?」
「はは、お前でも流石にそういうのは嫌か」
「でも義姉さんの前での兄さん、見るの面白いんですけどね」
「面白いは可哀想だが確かに分かる」
 取り留めのない会話をしているうちに皿の上のケーキは無くなり、カップに半分ほどコーヒーを残すのみになった。
「そうそう、忘れるところだった」
「忘れるところだったんですか?」
 本日のアーサーの目的はプレゼントを渡すことだった。テンが青い包みを開けると、出てきたのは愛らしくて白いクマのぬいぐるみだった。じっとクマの目を見たテンは、アーサーを見上げる。
「まだこんなので喜ぶと思ってるんですか?私子供じゃないんですよ?」
「違ったか……?」
「いいえ。正解です」
 そう言って、テンは嬉しそうにクマを抱きしめた。アーサーは自分で渡しておいて少し羨ましいとさえ思った。クマが。
「実は私、この前振られたんです」
 突然だった。驚きのあまり、アーサーは声が出なかった。
「私が悪かったんです。でもいいんですよ、別に」
 捻くれたようなことを言って強がって、テンはクマを抱きしめたまま綿の詰まった手をフニフニと握っていた。
「なんて、言ったらいいか……。でもお前みたいな良い子を振るなんて、見る目ねえよ」
「それは、あなたもですよ?」
「ごめん……」
 テンはくすりと笑ったが、アーサーの気分は最悪だった。何故か、それは「良かった」と少しでも思った自分に気付いて嫌気が差したからだ。
「暗い気分にさせるようなことを言ってすみませんね。ただ誰かに聞いて欲しかったんでしょう。丁度良いところに現れるからいけないんですよ?」
「はは、俺のせいか」
「まあ冗談はそれくらいにして。長く引き止めすぎちゃいましたね。ヴァルニアまで帰れますか?それとも、泊まっていきます?」
「いやまだ大丈夫だ。そもそも寝床も一つしかねえのにどこで寝るんだ?」
「それは勿論冷えた床でしょうね」
「可哀想……いや、そもそもの話だが、友達でも男の人を簡単に部屋に上げちゃダメだからなっ。泊めるなんて尚更だぞ」
「分かってますよ、オニイチャン」
 ぬるい茶番を繰り広げながらも、残りのコーヒーを飲み、アーサーは別れを告げてテンの部屋を後にした。

 アーサーが寮の建物を出ると、ひんやりとした夜の風に当てられた。ポツポツと雨が降り出してきたのも分かった。
 テンと話すのは楽しい。けれどこうやって一人になると、無性に虚しさが込み上げてくるのだ。自分は何をやっているのかという気持ちになる。雨に降られてるくらいが丁度いい。
 自分の知らない間に知らない男と恋仲になって、別れていたテン。元々アーサーには干渉する権利など全く無い。けれど寂しくなるのだ。彼女のことが好きだから。
 テンは今、強がってはいたが恋人に振られたばかりで傷心である。そんな彼女に優しくして想いを告げることもできるだろう。でもそんなのまるで、失恋の寂しさや弱みに漬け込んで騙して欲しいものを手に入れたみたいだ。そんなことしたくない。それがアーサーの小さなプライドだった。
 寮の敷地から出る門をくぐる直前、ふと、昔に友人から言われたとある言葉が蘇った。
『テンには中途半端なこと、しないで』
 明白だった。想いを隠したまま偽りの距離感で過ごすより、その気持ちが本当ならちゃんと向き合えということだ。自分から振ったくせに何を言っているのかと、もしかしたら本当に落胆されて二度と口を利いてくれないかもしれない。けれどそんな及び腰も、寂しさに漬け込んでずるいんじゃないかなんていう粋がりも、自分の気持ちに嘘をついてきたことに比べれば、本当はそこまで大事なことではないのだ。
 アーサーが振り返ると、何故か二階の窓が開いていて、外を眺めていたテンと目が合った。
「テン」
 彼女は驚いたような顔をしていた。まさか振り返るとは思っていなかったのだろう。
 けれど、言いたい言葉が出てこない。彼女の顔を見ると、決心が揺らぐ。
「窓開けてると冷えるぞ。風邪には気を付けろよ」
 いつからこんな風になってしまったんだろう。ここ数年で染み付いた癖が抜けない。
 テンが、「傘貸してあげますから、待ってて」と言って暫く、一つ傘を持って出てきた。それを自分も入るように、アーサーの頭上に掲げる。
「本当に帰るんですね、アーサー」
 テンの様子が少しおかしかった。ジッとアーサーの顔を見ていたかと思えば、スッと目を逸らし小さな声で零す。
「わ、私、本当はあなたの気を引きたくて、好きでもない人と付き合って。幸せだって、あなたに言っていただけだから」
 彼女は昔から、時々とんでもないことを言う。
「あの時、あなたに振られたのは、私が子供だからだと思ってた。でも私が十七になっても、相手がいなくても、あなたにとって私はずっと妹なんだ」
 テンは泣きそうだった。こんな彼女を見たのは五年振りで、アーサーは思わず当時の記憶が蘇る。あの時のテンは終末に怯え不安に押し潰されそうな、幼い女の子だった。それこそ妹のような存在だった。そんな彼女が縋ってきた時、すぐに答えなど出せるわけが無かった。何故なら彼女は恋慕など関係無しに、守るべき存在だったからだ。でも今の記憶があるままあの時をやり直せるなら、いや、あの時ともう少し状況が違ったなら、こう言っていたのに。
「テン。俺はお前のことが好きだ」
 落ちそうになった傘を、アーサーが小さな手ごと掴む。
「後悔してた。ずっと。急いで答えを出して、曖昧な気持ちのままお前と向き合うことの方が悪いと思ってた。……でも分からなかったんだ。お前が遠くに行くと、どんな気持ちになるのか。すごく、情けなかった」
 失いたくないし、ずっと自分だけを見て欲しい。生半可なプライドなんか必要ない。
「でも、お前に受け入れてくれる自信なんてなかった。俺は、お前を一度傷付けたんだから」
 テンは首を横に振り、額をアーサーに押し付けた。
「――私はずっと変わらず、優しくて不器用なあなたのことが好きです。迷わないで、抱き締めて欲しい」
 アーサーは、震える手で抱き締めた。華奢で柔らかくて、コーヒーやケーキの香りと別に、甘い匂いがした。
「そういう、ことするなよ……俺だって、ずっと我慢してきたのに」
 テンは小さな声で囁いた。
「アーサー、帰らないで」
 アーサーは溜息を吐いた。
「本当にお前は……分かってないだろ。だからさっき言ったばっかりじゃねえか」
 テンは口を尖らしてアーサーを見上げる。
「大丈夫です。冷たい床を貸してあげますから」
「いやだからそれはキツイって!」
「ふふふ」
 冗談なのか本気なのか分かりにくいテンも可愛らしい。そうやって人を翻弄するのが好きなのはよく知っている。
「分かってねえな」
 不思議そうな顔をしたテンの頬に手を添えると、優しく唇を奪った。緑の瞳は驚いたように見開かれていた。
「おやすみ」
「え、今……」
 呆気にとられたテンを見て、アーサーは眉を下げた。
「悪い、調子に乗りすぎた。そんなに驚かせるつもりは無かった……」
「は、はあ?!初めてじゃないですけど!」
「そんなの聞いてねえし嘘ってすぐ分かる」
 耳まで真っ赤にしたテンは俯いて手で顔を覆った。余裕そうにしていたのに予想だにしないことが起きると急にあたふたするテンの一方で、アーサーは落ち着いていた。さすが年上と言ったところか。
「傘ありがとうな」
 それだけ言って、アーサーはテンを屋内に押し戻すと、傘を差して帰った。

 因果関係は不明だが、同日のことである。水色とピンクと白のストライプの傘を差し、ニヤつく顔を手で隠しながら夜道を歩いていた不審な人物がいたが質問したところ特に問題は無かったと、巡回していたメルデヴィナ職員による業務日報に書かれていた。




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